4.燦珠、迷走する
排練の翌日、燦珠はひとり、秘華園の片隅で舞っていた。昨日の成果を踏まえて、役者は隼瓊の指導や霜烈の意見を踏まえて衣装や演技や振り付けを調整するけれど、端役の彼女たちの順番が回ってくるのはまだ先だ。《探秘花》の練習をするにも、変更があるかもしれないなら同じ役の者たちで集まるのも効率が悪い。
何より──芳絶に言われた燦珠の良さ云々を、ひとりでじっくり考えたかった。
(私──歌も舞も好きよ。得意と言っても……良い、はず。仕草だって……指や目の使い方も)
人に見せるためのものではないから、屋内ではなく、庭園の一角が今日の練習場だった。衣装も、動きやすい短褐に、水袖のついた短衫を重ねただけの簡素な格好。まだ冷たい風が薄い衣を通して肌を刺すけれど、舞ううちに身体は温まるだろう。
いまだくすんだ色の空に彩を添えるのは、膨らんだ梅の蕾。ちょうど良いから、《梅花蝶》から舞ってみることにする。霜烈と初めて会って、秘華園の存在を教えられた時、都の街頭で舞っていた演目だ。
(あれから一年経つんだ……)
懐かしさに口元が綻ぶのを自覚しながら、水袖を翻して、舞う。梅の花が咲いてはこぼれ、その花弁が蝶の翅になって飛ぶ。今はまだ本物の花は咲いていなくても、燦珠の指先や眼差しが届く先には、鮮やかな紅が弾けるように見えるはず。彼女の手足は、思った通りに動いてくれている。
(次は、《鳳凰比翼》も、やったわ!)
秘華園に入って、最初に教わった演目。そして初めて人と一緒に舞う喜びを知った演目だ。相手役の星晶は、今ごろは今回の相手役と排練のおさらいをしているはずだけれど、燦珠ひとりでも腕を鳳凰の翼に模してはばたかせることは、できる。
(うん、やっぱり楽しい……!)
大空から下界を見下ろす鳳凰の舞だけあって、跳躍の多い演目なのだ。人の小娘の身でも、回転と跳躍を繰り返し、自らが巻き起こす風に乗って舞うのは大空を飛翔する心地がする。雄大さと軽やかさ──これもまた、燦珠は振り付けを存分に踊りこなすことができているはず。
「……でも、色気が必要な演目ではなかったのよね……」
ひと通りの振り付けをなぞり、身体は温まった。けれど今ひとつ得心がいかなくて、燦珠は息を弾ませながらひとりごちた。
即興で歌詞と振付を変えた、《凰人相恋》も。喜燕と夫婦役を演じた《天一涯》も。それぞれに難しさも楽しさも演じ甲斐もあったけれど、役どころとして求められたのは可憐さや淑やかさであって。色気、という方向は、これまで追求してこなかった気がする。
(隼瓊老師にも、向いていないと思われてたのかしら!?)
芳絶の言葉は、向いている演目だけやっておけ、という意味だったのかどうか。それは、不得手なものを無理に頑張るのは無駄なのかもしれないけれど。でも、花旦を志す者としては不得手があってはいけない気がする。男役の芳絶に色気で負けているようでは、何だか悔しいし立場がない。
(《酔芙蓉》──も、私、あんまり酔ったことないし。星晶も、色っぽいって感じじゃなかったし)
酩酊した美姫を真似て、幾度か危うく揺らいだ回転を舞ってみる。栴池宮で見た星晶の舞の清々しさと比べると、頭に描いた燦珠自身の舞は、どうも元気が良いのでは、とは思う。でも、色気とは元気がないことではないはずで──とはいえ、何なのかは掴めなくて、燦珠は無為にくるくると回った。視界に映る梅の蕾が溶けて、紅い螺旋に見えてくるのは楽しいけれど、練習としてはまだ手ごたえがない。
「あとは──」
それでも、回転の渦の中から、もうひとつ、演目が浮かび上がった。それを舞うべく、燦珠は呼吸を整える。見たのはたった一度だけれど、忘れようもなく目に焼き付いているから、振り付けをなぞることはできるはずだ。
「──ふっ」
軽く息を吐いてから、足の爪先を高く、頭上まで跳ね上げる。同時に背を反らせ、腕を翻して水袖に大きな弧を描かせる。早い回転と高い跳躍は、舞手を捕らえんと迫る剣や槍を躱すためのもの。突き出される切っ先を避けるため、跳躍の最中でも身体を捻ったり脚を曲げたりしないといけない、複雑で難しい振り付け。やってみると、やはり全身が軋むようだけど、緊張感が堪らなく楽しい。
酔わされた仙狐が、追っ手を翻弄する舞──栴池宮で見た、《掲露狐精》だ。
あの時見た喜雨殿の役者は、美女に化けた仙狐のしなやかさを巧みに舞っていたけれど──
(絶対違う! 私だときっとすばしっこい子狐に見えてる!)
ひとしきり舞っても納得がいかなくて。燦珠はもどかしさにその場でぴょんぴょんと跳ねた。振り付けを再現することはできる、そのための筋力や柔軟性もある。でも、記憶にある名手の舞と彼女自身のそれとは、何かが決定的に違っているのだ。
「もう、嫌になるわね……!」
腹の底から叫んだのは、自分に気合を入れるためのものだった。それも、燦珠は本気で自己嫌悪に陥ったりしない。ただ──答えの見えない落ち着かなさを、吐き出したくなったというだけだった。
「ご、ごめんなさい。覗き見るつもりでは、なくて……」
なのにか細い声に謝られて、燦珠は飛び跳ねた。いつの間にか、彼女の練習を誰かが見ていたらしい。ひとりで踊っていた者が、突然大声を上げたのだ。気付かれて叱責されたのだと思ってしまったのかもしれない。
「う、ううん! 独り言なので!」
慌てて声のしたほうを振り向いて──燦珠は、目を瞬かせた。
(……誰? こんな子、いたかしら?)
燦珠の大声に、跳び上がったところ、なのだろうか。両手を胸の前で組み合わせてふるふると震えていたのは、彼女よりひとつふたつ、年下に見える少女だった。秘華園の役者にしては、見覚えがない。
不思議に思って装いに目を凝らせば、顔立ちにも佇まいにも品があるし、髪を飾る宝冠は玉を散りばめた豪奢なもの、衣装の美しさ精緻さも目を奪う。
「あの……誰かに御用ですか? 呼んで来ましょうか?」
……ということは、役者ではなく主の妃嬪だろう。そう判断して、燦珠は言葉遣いを改めた。《探秘花》絡みで、これまで秘華園に縁のなかった御方が足を運ぶ必要ができた、とかそういうことかもしれない。
「誰に、ということはなくて……」
その少女は、困ったように首を傾げた。野の花が風に揺れるようで、頼りなくも可憐な風情だ。しっかりと守って差し上げたくなるけれど──そのためには、もう少しはっきりとものを言っていただかなければならない。
「えっと──じゃあ、楊太監か隼瓊老師を探しましょうか? 秘華園のことならどちらかに聞けば良いと思います」
「いえ……あの、そんなに大げさでなくて良いの」
可憐な少女は困ったように眉尻を下げて、またふんわりと揺れた。と、思いきや、後ろを振り向いて、控えていた侍女らしい者とひそひそと相談を始めた。侍女のほうも主人と同じ年ごろの少女だけれど、主人よりもずっとしっかりしていそうだった。
(妃嬪の方々も、色々なのかしら……?)
戯迷の華麟や、ほとんど子供のような周貴妃鶯佳を知っているから、燦珠は驚くこともなく気長に待つことにした。訳が分からない棘のある言葉を投げてくる鶯佳に比べれば、内気で口下手なだけなのは何でもないことに思える。
「……貴女にお伝えすることに決めました」
「はい」
なので、少女がようやく意を決したように口を開いた時、燦珠はにこやかに頷いた。細い肩に力が入っているのが見て取れたから、安心して差し上げたかったのだ。
「先ほどの舞は、とても素敵でしたから。ええと、色々に感じが変わって、同じ人ではないようで──すごかった、です」
「恐れ入ります。ありがとうございます」
手で何かを捏ねるような動きで、燦珠を褒めてくれているのも、分かったし嬉しかった。本題はまだかな、とはちらりと思ったけれど、急かすのは無作法というものだから。
「わたくしも、貴女のようになりたいです。秘華園の、役者に──どうすれば良いのですか?」
「え──あの……妃嬪の方が、役者に……?」
けれど、続けて言われたことに笑顔で応じることはできなかった。さすがに、聞き返してしまう。芝居も歌舞も、素敵なものだ。誰だって、志して良いと思う。応援したい。でも──現実的にはどうなのだろう。
(あれ? 昔はあったんだっけ? えっと、でも、ご実家とか大丈夫なのかな? 天子様は、何て仰るかな……? っていうかこの方、今まで何かやったことあるのかな。こんな細い声なのに……?)
応援したいのはやまやまだけど、咄嗟に浮かんだ疑問と懸念だけでも、何だかものすごく大変そうな気がした。でも、口にしたらこの少女は泣き出してしまうのではないか、とも思えた。ただでさえ大きな目が潤み始めて、唇をぎゅっと結んでいるのに。
「この御方は妃嬪などではありません」
「あ──そうなんですか?」
と、侍女が口を挟んでくれたから、燦珠は安堵の息を吐いた。
(じゃあ、どなたなんだろ?)
でもまあ、妃嬪でないなら厄介なことにはならないかもしれない。──そう思ったのは甘かったのを、彼女は一瞬の後には知ることになった。
「この御方は、寧福長公主明婉様──皇帝陛下の妹君でいらっしゃいます」
「……え?」
「なので、必ずお望みを叶えて差し上げなさい」
「ええええええええ!?」
燦珠が上げた悲鳴は初春の空に吸い込まれ、芽吹いたばかりの新芽を震わせた。




