3.燦珠、赤面する
貴妃たちが会話に花を咲かせる間も、排練は進んで行く。祝宴の限られた時間の中で、《探秘花》の筋書きのすべてを上演することはできないけれど、見せ場を幾つか切り取るだけでも相応の時間が必要になる。だからこそ、燦珠たちも出番がない時は客席で見学に回ることができるという訳だった。
探花役の星晶と、相手役の花旦の唄声が重なるのを聞いて、燦珠と喜燕の溜息も重なった。
「なんて透き通った声……!」
「仕草も綺麗ねえ」
「ね、視線も指先も!」
「神経が行き届いてるよね!」
ふたりが熱い眼差しを注ぐ公主役は、銀花殿の黎姸玉という役者だった。主の董貴妃仙娥が誇った通り、可憐な容姿も澄んだ歌の声も、星晶と並んでもまったく見劣りしない。後宮と秘華園を挙げての公演は、出るほうとしても名誉なら、観るほうとしても至福の喜びだった。
(本番は外廷で、官吏の方々も臨席してくださるのよね……!)
先帝は、お気に入りの役者を後宮の奥深くに隠して、わずかなお気に入りの高官や皇族にしか見せなかったとか。驪珠や隼瓊のように功夫を極めた役者でさえ、その演技を多くの人に見せることができなかったというのだ。とてもとてももったいない。
(華劇は素敵なものだって、みんな分かってくれますように!)
今回は、秘華園が晴れの、そして公の場に出るまたとない機会でもあって──だからこそ、誰もがいっそうの熱意を込めて練習に臨んでいる面もある。そして、熱意を抱いているのは役者だけではなかったりも、する。
ひと通り排練が終わった、その瞬間だった。舞台の袖──に相当する、隅の一角──から、水晶を打つような涼やかな声が響いた。
「藍芳絶」
秘華園には美声の人がたくさんいるけれど、男役たちともまた違う、不思議な高さの声の主はすぐに分かる。鐘鼓司太監として排練に立ち会っていた霜烈が、舞台に進み出たのだ。
今日も皇帝に特別に賜った蟒服を纏って、たいそう美しく麗しく目に眩しい。燦珠には整い過ぎた横顔だけを見せて、彼が目指すのは──年下の役者から受け取った布で汗を拭う、皇帝役の芳絶のところだった。
「ああ、楊太監。私の演技に何か問題でも?」
「大問題だ」
にこやかに応じた芳絶に、霜烈は眉を顰めたようだった。いくらか距離があるから、燦珠には彼らの表情はよく見えない。
(盗み聞きをするつもりは、ないんだけど……)
燦珠だって、同じ役どころの舞手たちと振り付けの確認だとか間合いの調整だとかをしないといけない。実際、喜燕と頷き合って、離れたところで排練を見守っていた舞手たちに向かおうとは、しているのだ。ただ、とにかくよく通る綺麗な声のふたりだから、嫌でも耳がやり取りを拾ってしまう。
「皇帝役にしては色気が過ぎる。なぜそなたが皇帝役なのか考えよ」
「陛下と年が近いから、だろう? だから隼瓊老師を差し置いて大役を仰せつかった」
燦珠が手を振ると、花精役の少女たちも同じ動作で応じてくれた。彼女たちも視線が泳いでいるから、霜烈と芳絶の組み合わせは誰にとっても見ものらしい。
(楊太監から見ても、芳絶さんは色気があるのね?)
芳絶の演技で心を乱したのが燦珠だけでなかったなら安心、だろうか。目も耳も肥えた霜烈が観てもそうだというなら、芳絶はやはり並みの役者ではないのだろう。
とはいえ、芳絶の答えは霜烈には不満だったようだ。季節を冬に戻すような、冷え冷えとした溜息が聞こえたかと思うと、低い、言い聞かせる調子の声が続いたから。
「それが分かっているならば、見る者はそなたと陛下を重ねるのだと理解できよう? 不敬にならぬよう──」
と、そこできゃあっ、という甲高い声が上がったので、燦珠は思わず声のほうを振り向いた。周囲の少女たちが一斉に歓声というか悲鳴を上げた理由は、ひと目で分かる。燦珠も、気付けば同輩たちに倣って手を口元にあてていた。
(わあ……わあ……!)
芳絶が、霜烈の唇に指先をあてて黙らせていたのだ。
かたや、袍の背に緩く結った髪を流した男装の麗人。かたや、性別を窺わせない、精緻極まりない彫刻めいた美貌の人。ひとりずつでも目で酔わされるような妖しく美しい人たちが、やたらに近づいているのだ。今や、役者も貴妃たちもその侍女も、そのふたりのやり取りに釘付けになっていた。
注目を一身に集めたことに気付いたのか、どうか。芳絶は、香り高く開く花を思わせる笑みを綻ばせた。
「無難に抑えた演技を披露するほうが不敬というものでは?」
「芳絶……!」
悪戯っぽく囁かれて、霜烈は整った眉を跳ね上げた。苛立ちを露にしてなお、美しい声と唇で彼が何を言おうとしたのかは──燦珠が聞くことはできなかった。
「梨燦珠」
間近に、彼女の名を呼びかけられたからだ。
「周貴妃様……?」
高い──そして同時に気の強さも窺える声は、四人目の貴妃が発したものだった。楓葉殿を賜る、周貴妃鶯佳。貴妃の中では一番年若く、というかはっきり言って幼かった。燦珠よりも幾つか年下の、十二とか十三くらいに見える。
後宮に送り込まれるだけあって、愛らしい少女ではあるのだけれど。言葉を掛けられたのも、これが初めてのことだけれど。燦珠はこの御方が苦手だった。
(この御方が、あれをさせたのよねえ……?)
燦珠が秘華園に入ったばかりの時、鳳凰の衣装を損なわれる事件があった。その犯人が楓葉殿の抱えの役者で、貴妃の意を受けてのことだと自白していたらしい。あの時は、即興の演技で乗り切ることができたから燦珠は気にしていないけれど、鶯佳のほうも気にしていない様子なのは、割と驚くし困惑する。
とはいえ貴妃は貴妃だから、と。燦珠を含めた役者が跪こうとするのを指先で制して、幼い貴妃は薄い胸を張った。華奢な顎をつんと反らして、なぜか得意げに言い放つ。
「楊太監は芳絶のものよ。悔しいでしょう」
そのひと言を残して、鶯佳は侍女を従えて去って行った。この後の練習や確認に貴妃が立ち会う必要はないから、殿舎に帰るのはご自由に、というものだけど──
「何、今の」
「……何だろうねえ」
喜燕はむっとした様子で唇を尖らせたし、燦珠も苦笑するしかない。ほかの役者たちも、困った表情で首を傾げたり囁き合ったりしている。
(周貴妃様、私のこと覚えてたんだ)
余所の殿舎の役者の顔や名前を把握してくれていたのは、光栄と思うべきなのかどうか。
(でも、どうして悔しがるって思ったんだろ? っていうか、楊太監と芳絶さんって……?)
鶯佳に気を取られた間に、綺麗なふたりのやり取りはどうなっているだろう、と。視線を巡らせようとした燦珠の袖を、喜燕が強く引いた。
「楊太監も楊太監よ。なんで燦珠を放ってあの人と……!」
「えっと、演技の話は仕事だから、だよね?」
秘華園を掌握する鐘鼓司太監が、演技の方向性に口を挟むのは当然のことだ。でも、燦珠の指摘に喜燕が納得した気配はない。
「それにしても近すぎるでしょ!」
「でも、お似合いだよね。ふたりとも綺麗で背が高いから」
周囲の耳を憚ってか、霜烈と芳絶は今は声を落としてやり合っていた。相変わらず、眉を顰める霜烈を、芳絶が揶揄うような気配だけが伝わってくる。何を話しているかは分からないけれど、見た目にはたいそう豪華に美しく、贅沢な一対だった。
(うん、やっぱりお似合い。すごく、綺麗……)
燦珠が感嘆の溜息を吐いた時──
「燦珠は余裕だね。私のほうが我慢できそうにないのに」
閃く白刃を思わせる鋭い声が、彼女の耳元で囁いた。探花の衣装のままの星晶が、なぜか相手役を放って燦珠たちのところにやって来たのだ。
「……余裕って?」
眉を顰めた苛立ちの表情でさえ、綺麗で格好良いのは星晶も同じ。そして、彼女が言うこともまた、訳が分からなかった。
けれど、星晶の答えを聞く前に、またひとり、新たな人影が燦珠のもとに現れた。
「燦珠、私のお妃。さっきは可愛かったよ」
霜烈との話を終えたのか、芳絶の艶やかな笑顔が間近に咲き誇っている。うっとりと見蕩れることができれば良かったけれど──星晶と喜燕が纏う空気に、瞬時に棘が生えた気がするから、何だか怖い。芳絶のほうは、刺すような眼差しも憧れの眼差しも、泰然と受け止めているけれど。
「あ、ありがとうございます……?」
「綺麗なお花に囲まれて演じるのは楽しいよね。引き続き、頑張って欲しいな」
先ほどは霜烈に触れていた芳絶の指先が、燦珠の頬をそっと撫でていった。触れられたところが、焼かれたように熱い。
(えっと、花精役への激励のお言葉? なら、分かるけど……!?)
芳絶は、花精を務める舞手たちにも平等に笑顔を向けて、歓声を上げさせている。最初に燦珠の名を呼んだのは気まぐれで、大した意味はないのだろうか。でも──
「余計なお世話かもしれないが、良くないことを考えているかもしれないと思ったんだ。だから、念のため言っておくね?」
「はい」
真剣な面持ちで覗き込まれて、燦珠は背筋を正した。背の高い芳絶が、わずかに身体を屈めて語り掛けるのは、きっと大事なことに違いない。
(まさか、楊太監について何か……!?)
視界の端に、星晶と喜燕も身を乗り出すのを捉えながら、燦珠は芳絶の間近な美貌、その迫力に耐えた。惹き込まれて見蕩れるだけでなく、花弁のような唇が紡ぐ言葉を、聞き逃すまいとして。
「色気とは、身体をくねらせれば出るというものではない」
そうして、囁かれたのは思ってもいないことだった。間の抜けた声が、燦珠の唇から漏れる。
「はい……?」
「変に意識するとかえって動きが歪むから。君の良さを伸ばしていこう。ね?」
言うだけ言うと、芳絶はもう一度微笑んでから燦珠たちに背を向けた。燦珠の頬が羞恥に熱くなったのは、たっぷり数秒経ってから、言われた言葉をどうにか呑み込んでから、だった。
(……バレてた)
排練の時、色気を意識して動きを工夫しようとしては、いた。同じ舞台に上がっていた芳絶は、端役のひとりの変化もちゃんと見ていた。その上で、よろしくないと判断されたのだ。
(恥ずかしい……!)
どうしようもない衝動に駆られて、燦珠は頭を抱えて天井を仰ごうとした。その拍子に霜烈と目が合って──そして、すぐに顔を背けられたのが、何だか悲しかった。
「何、今の」
喜燕がもう一度呟いた声は、一段と険しさが増して鋭かった。




