2.貴妃、祝宴を待ちわびる
牡丹の花精の舞を終えて、燦珠は舞台からはけた。と、客席から優しく柔らかな声がかけられる。
「燦珠、喜燕。こちらへいらっしゃい。星晶たちの出番を正面から観たいでしょう」
「はい、ぜひ!」
「ありがとうございます、香雪様」
仕える貴妃からの願ってもない配慮に、燦珠と喜燕は声を弾ませて応じる。演技を終えたばかりとはいえ、まだ季節は春になり切っていない。貴人の傍に寄るのが憚られるほどの汗はかいていないはずだった。事実、香雪は駆け寄った燦珠たちを笑顔で迎えてくれた。
「とても、華やかな舞だったわ。みんな息が合っていて──さぞ練習したのでしょう」
香雪の意を受けた侍女たちが素早く動いて、燦珠と喜燕のために席を設けてくれる。宝玉を思わせる艶の青磁の茶器に、並べられる菓子も彩りの美しい精緻なものばかり。さらに、最高の役者たちの演技を目の前で観られるのだからこの上ない贅沢というものだった。
最高の特等席──といっても、ここは劇場ではない。正確を期すなら舞台も客席の区別も、実はない。秘華園に数多ある練習場のうちの大きなものには、舞台を想定した空間に加えて、来客の席を設ける余裕がある場所もある、ということだ。
戯迷で名高い先帝の御代とは違って、当代の皇帝はさほど華劇を好まないから、貴人を招いての排練なんてしばらくは行われていなかったと聞く。けれど、今回の《探秘花》については特別だった。
「それはもう。とても、光栄な機会ですから……!」
「陛下に喜んでいただけるよう、役者一同、心しております」
燦珠が大きく頷き、喜燕が真剣な面持ちで述べるのにも十分な理由がある。今回の公演は、科挙の合格者を招いた宴の席で上演するためのもの。皇帝の御代の繁栄を願い、集った才子を称える筋書きは、そのまま現実をなぞったものになる。
科挙とは、通常は三年に一度行われるものだそうだ。けれど、昨年は皇帝の即位という慶事があったため、特別に広く人材の募集を行ったらしい。皇帝としては記念すべき最初の科挙になる訳だし、新たな御代のために尽力したいという忠臣が現れるのを期待しているという。その大事な機会に際して後宮の妃嬪からも贈り物をしなくては──殿舎を越えて役者を集めた《探秘花》には、そんな意味合いが込められているのだ。
そういう背景があるから、今日の排練にはすべての貴妃が顔を合わせている。
「わたくしは、公主役は燦珠にやって欲しかったのだけれど。でも、銀花殿の花旦もなかなかの名手ですわね?」
永陽殿を賜る謝貴妃、華麟は、今日も古風かつ典雅な斉胸襦裙で朗らかに笑んでいる。……星晶の相手が下手な子だったら許さないと、唇を尖らせていたのは収めてくださったのかどうか。隣の美姫に向けた言葉は、少々挑発的にも聞こえたけれど──
「陛下へのお祝いになるのはもちろん、僭越ではありますけれど、わたくしにとってもとても大事な日になるはずですもの。誠心誠意、相応しい役者を選びましたのよ」
銀花殿の貴妃、董仙娥は余裕のある微笑で華麟に応じた。
(大人だ……!)
傍で聞いていた燦珠は、黒胡麻の薫り高い巨勝奴を口に放り込みながら、思わず心の中で唸る。後宮の菓子は、生地を美しく編み込んでいるのにひと口大に仕上がっているから、衣装を汚さずに済んでたいへん良い。
とにかく──甘い生地を呑み込みながら窺った感じだと、董貴妃仙娥は、この場にいる四人の貴妃の中では一番年長だと思う。といっても、二十歳を幾つも超えていないだろうけれど。慎まやかな佳人、という点では香雪に通じるところもあって、燦珠としては姫君役のお手本が増えて嬉しい限りだ。
(ううん、謝貴妃様が姫君っぽくない訳じゃなくて、何ていうか淑やかさというか落ち着きというか)
燦珠が言い訳めいた考えを巡らせる間に、香雪と仙娥は会話を弾ませる。やはりというか、性格が相通じるところがあるのかもしれない。
「董貴妃様は、ご親族が今回の科挙に臨まれていると伺いましたわ」
「ええ、兄の子──甥です。沈貴妃様もご同様だそうですわね?」
「わたくしは、血縁がある方ではなく、父の教え子なのですが。郷試は無事に及第なさったとのこと、今はこの延康の都に入っているはずです」
目の前の舞台では、皇帝役の芳絶と、探花役の星晶のやり取りが始まっている。皇帝は科挙に合格した才子を称え、探花は皇帝の公正さと慈悲を称える──それぞれの念が通常よりも長くなっているのは、もちろん本番では観客に本物の皇帝と合格者たちがいることを想定してのことだ。
ふたりとも、練習を重ねてさすがに台詞回しに淀みはない。星晶の立ち居振る舞いは凛々しい中にも雅さがあって、いかにも才子らしい。そして芳絶は、若い才を愛でる眼差しに度量の大きさを感じさせる演技だ。あと、なぜか色気を感じて心臓がどきどきする。見てはいけないものを見ているようで、落ち着かなくなってしまう。
(……距離が近い訳でもないんだけどなあ……?)
ふたりとも、もちろん男装していて、役どころに沿った演技をしているはずなのに、どうして色気を感じるのだろう。星晶の演技は、いつもはどこまでも清らかで爽やかだから、たぶん芳絶が理由だと思うのだけど。台詞の内容もまったく艶めいたものはないのに、どうして色気を感じるのか不思議でならない。
(なんでだろ、春なのに暑い)
なぜか火照る頬を冷ますため、燦珠はひと息に茶を飲み干した。それから、間近な貴妃たちの会話にいったん神経を向けることにしてみる。芳絶の演技は──どうも、刺激が強い。
華麟は当然のように星晶に夢中になっているから、主にやり取りをしているのは仙娥と香雪のようだった。科挙の受験者が身近にいる者同士、話が弾んでいるらしい。
「会試も迫っておりますものね。後宮におりますと、縁者を激励しに行くこともできませんから、もどかしいものです」
「ええ、本当に。殿試の後の祝宴にてお会いできるように、願うばかりです」
「甥も、沈貴妃様のお身内も、共に陛下にお仕えできると良いですわね」
各地で行われる郷試だけでも、相当な難関だとは聞いている。続いて、都で行われるのが会試。全国の俊才が一堂に会して試されて、さらに一握りしか残らないのだとか。そうして最後に、皇宮にて皇帝臨席のもと行われる最終試験、殿試にて合格者の序列が決まるらしい。
(香雪様も、董貴妃様も、身内の方々がすごいんだ)
合格者本人だけでなく、一族揃っての栄達が約束される試験だけに、競争率は気が遠くなるほどだとか。何十年かかっても合格できない者もいるというし、どうやら若くして及第を視野に入れているらしい貴妃の縁者たちは、相当の才子ではないかと思う。それこそ、《探秘花》の主役のような。彼らが本当に難関を潜り抜けたなら、皇帝もさぞ喜ぶことだろう。
(じゃあ、貴妃様たちのためにも頑張らないとね……!)
もうひとつ、祝宴を成功させなければならない理由に気付いて、燦珠は拳を強く握った。




