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【書籍1、2巻発売中】煌めく宝珠は後宮に舞う  作者: 悠井すみれ
第一部 二章 花旦、乱麻を立つ
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2.燦珠、本物に逢う

 霜烈そうれつの背を追ううちに、燦珠さんじゅは後宮に入ったらしい。外朝がいちょう泰皇殿たいこうでんにも劣らぬ壮麗な建物は、皇帝の寝殿である渾天宮こんてんぐう。ひと回り小さい皇后の寝殿である穣地宮じょうちぐうは、今は主がいないのだとか。


 貴妃以下の妃嬪たちが住まう各宮殿はさらに小さく、似たような造りの建物が軒を連ねる様は延康えんこうの都の街並みにも少し似ている。もちろん、庶民の家々とは比べるべくもなく、どの建物も美しく贅を凝らした佇まいをしているのだけれど。


(それにしても静かね)


 後宮に足を踏み入れてからこのかた、宮女きゅうじょや宦官の姿は確かに見るのに、人の声というものを聞かない。足音や衣擦れの音でさえも密やかに、どういう技によってか最小限に留めているのではないかと思うほどの静かさだ。まるで、行き交うのは人ではなく影でしかないかのような。風のそよぐ音や小鳥のさえずりが聞こえなかったら、時が凍りついたと思ってしまっていたかもしれない。


(声を出せないって辛いわあ……!)


 今通り過ぎたのは何という建物なのか。あとどれくらい歩くのか。霜烈に聞きたいことはたくさんあるけれど、燦珠は小声で話すことに慣れていない。唄ったり台詞を吟じたりする時の声量で話しかけたら、この場所ではどうしようもなく目だってしまうことくらいは、さすがに彼女にも分かった。


(ああ、落ち着かない……!)


 暇さえあれば華劇ファジュの鍛錬に励んでいた燦珠である。声を出せないのは分かったけれど、顔を伏せてちょこまかと歩くのは性に合わない。


 背筋は伸ばしたいし胸は張りたい。遠慮なく眼差しを向けて首を巡らせて、後宮の何もかもを目に収めておきたいのに。たぶん、それはこの場所では禁忌になってしまうのだろう。


「──呼吸をしているか? 初めてだと息詰まるだろう」


 と、霜烈が急に足を止めて振り返ったので、燦珠は彼の胸にぶつかるところだった。鍛えた身体のお陰でどうにかぴたりと止まった燦珠は、霜烈の身体の向こうに扉がそびえているのに気付いた。


 花鳥の彫刻に彩られた風雅なその造りは、後宮の妃嬪ひひんの住まいに相応しい。では、ここが──


しん昭儀しょうぎがお待ちだ。そなたはまずは昭儀付きの侍女ということになる」


 例によって霜烈が綺麗な笑みを見せたのと同時に、精緻な細工の扉が音もなく開いた。、彫刻の鳥が左右に分かれる様は、翼を広げて来客を招くかのようだった。


(……私たちの足音が聞こえてたのかしら? それくらい、待ち構えていたってこと……? そのための静かさなの……?)


 幾つもの疑問を抱えながら、象嵌ぞうがんの施された鳥の目に見つめられながら、燦珠はその建物の門をくぐった。


      * * *


 建物の内部は、院子なかにわの四方を建物が囲む、市井にもよくある造りになっていた。広さと豪華さと美しさについては、よくあるものではまったく()()のは、一々言うまでもない。


(貴妃様の下の昭儀様でもこれ、かあ)


 それでも、高い壁の内側に入るとここは「誰かのお家」だった。目を瞠る豪奢な調度ではあっても、人の息遣いが感じられる。だから燦珠にも辺りを見渡す余裕ができた。華劇ファジュの演目には、もちろん後宮を舞台にしたものも多い。栄耀栄華を誇ったり、嫉妬に身を焦がしたりした美姫を演じる時は、こんな風景を頭に描いておかなければ。


()楊、待ちかねたぞ……!」


 と、敷地の北側に位置する正房おもやに通された燦珠たちの前に、黒く小さな人影が転がり出た。霜烈と同じ黒い衣を纏ったその人の背丈は、霜烈の胸の辺りまでしかない。燦珠と比べても少し低いくらいだろうか。背を屈めて歩くのに慣れ切った風がする。深い皺が幾筋も刻まれた顔の中、きょときょとと辺りを窺う目が目立つ。それに、男とも女ともつかない奇妙な高さの声!


()()()、宦官だ……!)


 失礼だとは思いながら、燦珠は目を輝かせてしまう。


 別に、霜烈が宦官ではないと思っていた訳ではないけれど。


 華劇ファジュでよく見る、道化役そのものの宦官が目の前で喋っていると感動めいたものを覚えてしまうのだ。


 幸いに、というか、黒衣のふたりは急に熱を帯びたであろう燦珠の目つきには気付いていないようだ。ちょこまかとした足取りで駆け寄ってくる中年の宦官に、霜烈は長身を曲げて目線を合わせて涼やかな微笑を向けている。


「気を揉ませたな、だん叔叔(スース)。だが、待っていただいただけのことはあると思う」

「そちらが、か──はてさて、救い主になってくださると良いが」


 段というらしい宦官の眼差しを受けて、慌てて目礼を返しながら、燦珠は心中で首を傾げた。


ぼうやに、叔叔おじさん? 親戚って訳じゃ、ないんだろうけど)


 化粧も衣装もなくても舞台に立てそうな霜烈と、皺だらけな段叔叔(おじさん)はまるで似ていない。いや、段叔叔(おじさん)小花臉どうけメイクをしてもらいたい、とか考えている場合ではなくて。そもそも宦官に血縁がいるということも考えづらいし。


(……後宮のしきたり、っていうか? 色々あるのかしら)


 同門の役者が兄弟の絆で結ばれる、みたいなことが宦官にもあるのかもしれない。


「すぐにも昭儀に会ってもらえるのか? 一服したほうが良いか?」

「要らぬ」

「えっ」


 燦珠に尋ねた段叔叔(おじさん)に答えたのは、なぜか霜烈だった。何を勝手に、と目を見開いた彼女に、例の形の良い唇が悪戯っぽく笑う。


「ここで一服と言ってもかえって休まるまい。それよりも、早く芝居の話をしたいだろう?」

「芝居の話になるの!? もう!? じゃあ行くわ!」


 見透かされた悔しさよりも、芝居、の一語の魅力が買った。段叔叔(おじさん)が顔中に皺を寄せて渋面になったから、燦珠の大声は相当な無作法だったのかもしれない。


「……まあ、ありがたいことだ。それでは案内あないしよう」


 はっきりと咎められることがなかったのは、新入りゆえに大目に見てくれたのか、霜烈への配慮か──それとも、女の役者は、ここではそれほど大事なのか。


「まったく、当代様の御代になってからというもの──」

「先代様もそれほど良かったかな?」

「……うむ、まあそれはそうなのだが……」


 その理由は、黒衣の宦官ふたりが低く囁き交わす中にあるような気がする。どうやら天子様への畏れ多い物言いに、あえて立ち入ることはできなかったけれど。


(そういえば、今の天子様ってお若い方なんだっけ)


 延康えんこうの都が喪の白に染まり、しばらくしてから慶事の紅に燃え上がったのは、確か去年あたりだったような。興行がなければ鍛錬に励み、茶園げきじょうが祝賀の演目で賑わえば、舞台に立つ父や兄弟弟子の演技を見て目で盗む──それが燦珠の日々だった。だから慶弔の理由まで深く考えることはなかったのだ。


(そっかあ、すべては皇宮ここが起点になってるんだあ)


 今さらながらに気付いても、燦珠は怖気づいたりはしない。むしろ、荘重かつ美麗な黒檀の扉を潜る時も、胸を占めるのは期待と喜びだけだった。


(国のすべてを動かす御方の前で演じる。認められる。やっぱりすごいことじゃない……!?)


      * * *


 しん昭儀しょうぎ香雪こうせつの前に跪礼した燦珠は、心の中で本日何度目かの快哉かいさいを上げた。


(本物の、姫君だ……!)


 いや、この御方は役者ではなく、天子様のお妃のひとりで、正真正銘のお姫様、なのだけれど。それでも、香雪の美しく優しく儚げな容姿は燦珠が思い描く姫君役そのものだった。


(ああ、勉強になる……)


 結い上げた髪の豊かさと艶やかさ。細いうなじに零れたおくれ毛から漂う色香。どういう訳か憂いを帯びた眼差しに、わずかに寄せられた柳眉に宿る切なげな色。頬と唇をほのかに染める品の良い紅は、寒中に凛と咲く梅の花のよう。肌の白さは、名前に恥じず、まさしく香り高い雪に喩えるのが相応しい。華奢な肩にかかる領巾ひれは天女もかくやに儚く透ける。美しさと気高さを兼ね備える佇まいとはいかなるものか──霜烈が父に語っていた通り、確かにこれは役者として負けてはいられない。


「あの……燦珠? どうかなさって……?」

「あっ、すみません……! あの、つい夢中で、というか癖で!」


 おずおずと呼びかけられて──美姫は声も麗しかった──燦珠はようやく姫君役の指の仕草を無意識になぞっていたことに気付いた。歌や台詞と一緒なら恋慕や嫉妬や悲嘆を表す演技になるけれど、今のはただの不審な動きにしか見えなかっただろう。


(っていうか、無礼だった……?)


 背中に冷や汗をかきながら、霜烈や段叔叔(おじさん)の顔色を窺いながらの、苦しい言い訳だったのだけれど。


「そう、なの……?」


 香雪は、寛大にもふわりと微笑んでくれた。雪を緩ませる陽だまりのような優しい笑みは、けれど一瞬で曇ってしまう。


「……楊奉御(ほうぎょ)のご厚意には心から感謝しております。わたくし、いったいどうすれば良いのか分からなかったのですもの……!」

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2025年1月24日 角川文庫より1、2巻同時発売!

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