6.燦珠、盗み聞きする
後宮に亡くなった役者の幽鬼が出るらしい、と。この夏の秘華園ではもっぱらの噂だった。しかも、名も知れぬ有象無象の役者ではない。そもそも輝かしい名声と共に語られていた上に、死者ながらつい先日の変の中心になった伝説の花旦の幽鬼だ。
先帝に深く愛され皇子まで儲け、その才の絶頂の時に地上を去った美姫。歌う声は天上の調べ、舞う手足は眩い星、綻ぶ蕾、大空を飛ぶ鳥の翼。生身でこの世ならざる美と夢を軽やかに紡いだ伝説の役者──喬驪珠。
そんな存在だからこそ、生きた役者たちの語り口にも熱がこもる。
「私、確かに聞いたのよ。真夜中に、誰かがとても綺麗な声で歌っているのを!」
「妃嬪のどなたかが役者に所望していたのではない?」
「だって、皇太后様の喪中なのに」
「確かに、今は夜に宴席なんてなかったわね……」
「皇太后様は、驪珠に憑かれて亡くなったというのは本当かしら」
「まさか! 驪珠は皇太后様の御恩に報いたのでしょう。あの陽春皇子が、偽物だと教えて差し上げることで……」
「我が子のことだもの、母としても放っておけなかったのでしょうねえ」
驪珠の御子である陽春皇子は、母の死の直後に後宮から姿を消していた。幼いながらに母親譲りの美貌と美声で、父帝ばかりか生さぬ仲の皇后にまで愛されたという少年を、目障りに思う者もいたのだろう。失われたその御子を名乗る青年が現れ、後宮ばかりか今上帝の位をも揺るがしかけた陰謀の記憶は、まだ誰にとっても新しい。
亡くなったばかりの皇太后は、当時その怪しげな詐欺師を信じて我が子のように歓迎したのだ。そこへ驪珠の幽鬼が現れて、我が子の死を伝えたのだとか。卑賎の役者、しかも既に死した身で至尊の御方の心を動かすとはさすが驪珠、と。その名声が時を経て再燃し、この際、幽鬼でも良いからその歌を聞いてみたいと、夜な夜な徘徊する役者も現れたところだった。
練習を終えて汗を拭っていた燦珠に、星晶がふと話しかけた。
「燦珠はどう思う? 例の、噂」
「え、ええと……」
詳細を聞かれずとも、驪珠の幽鬼の話だと分かる。それほどに、誰とも知れない妙なる歌の声の調べは秘華園に広まっていた。燦珠にとっては、少々都合の悪いことでは、ある。
「聞き間違いなんじゃないかしら。驪珠がさ迷う理由は、もうないと思うんだけど……?」
返答次第で、星晶や喜燕も交えて幽鬼探しが始まりそうな気がして、燦珠はできる限りさりげなく首を傾げた。
亡き皇太后の愛着ゆえに、長く宙ぶらりんな扱いだった陽春皇子は、ようやく正式に死が認められて葬られた。驪珠の望みもきっとそれだったのだろう、ということになっている。ならば彼女の魂ももう安らいでいることだろう。
とても常識的な意見を述べたつもり、だったのだけれど──
「へえ、意外」
「何が?」
星晶は目を瞠った表情も格好良いな、と思いながら燦珠は尋ねた。すると、とても綺麗な男役の友人は、とても綺麗な、そして揶揄うような笑みを浮かべた。
「燦珠のことだから、幽鬼を探しに行くとか言い出すほうかと思った」
「何といっても驪珠だもの。教えを乞いたいって言いそうだよねえ」
喜燕までも同調したから、燦珠の笑みは引き攣った。驪珠に歌や舞を習うことができたなら──は、確かについこの間、切実に願ったことだったから。友人たちには、彼女の気性はどこまでも見透かされているらしい。
「でも、ほら──夜中に出歩くのも良くないでしょ。あの、後宮の風紀とかそういうやつで。あまり騒がないほうが、良いんじゃない?」
「それはまあ、そうだけど」
「夜中に練習していた燦珠が言っても説得力がないけどね」
星晶も喜燕も、まさに夜中に出歩いて厄介な事態に陥ったことがある。仕える妃嬪のことを思えば迂闊なこともできない訳で、ふたりは思いのほかにあっさりと引き下がった。明日の練習に備えて休もう、の流れになって、燦珠は心から安堵する。
(危なかった……ふたりが聞いたら、バレちゃうかもしれないじゃない!)
驪珠の幽鬼には、たぶん実体を伴った正体がある。役者ではなく、けれど稀代の役者の歌と、聞くものすべてが納得する声の持ち主を、燦珠はとてもよく知っている。
でも、彼がそんな歌声を持っているのは秘密なのだ。一度聞いたことがある星晶と喜燕は別として、ほかの者には知られたくない。
* * *
数日後の新月の夜、燦珠はそっと自室を抜け出した。空には厚く雲が垂れ込め、たとえ満月でもさほどの明るさではなかっただろう。夏の夜の空気はじっとりと暑く重く、散歩に向く気候ではまったくない。──だからこそ、きっと「幽鬼」は歌うだろう。この世ならざる者は闇を好むとかいうことではまったくなく、出歩く者がいないであろう夜だから、だ。
彼の──というか霜烈の今の住処は知っている。かつては燦珠がふらりと遊びに行くのを警戒している節もあったけれど、鐘鼓司太監ともなると、数多の宦官に紛れてひっそりと暮らすという訳にはいかないらしい。
後宮の一角に居を構えた麗しい太監のことは、役者たちももちろん知っているし、美貌ばかりか美声の主であることも評判なのだけれど、幽鬼と結びつける者がまだいないのは──この後宮においては唄い演じるのは女の役者だけだ、という思い込みが強いからだろう。
(宦官も演じる機会があれば──ううん、それは危ないのかもしれないけど……)
霜烈の歌や舞を後宮中に知らしめたい。皆の感嘆の声を聴いて、すごいでしょう、と大いに頷きたい。けれど、それによって彼の正体が知れてしまうのは、良くない。たとえ陽春皇子は正式に亡くなったことになったのだとしても──何度も繰り返した自問自答をまた胸中に弄びながら、燦珠は額に浮かんだ汗を指先で拭った。夜になっても夏の熱気は退かず、湿った温い風は呼吸するたびに肺に淀むよう。でも、そんな不快を一掃する涼やかな声が、ようやく燦珠の耳を撫でる。
(ああ、やっぱり!)
思い描いていた通りの、そして何度聞いてもうっとりと心地良い唱声に、燦珠は足を急がせた。同時に、携えていた灯りは布に包んで光を隠す。霜烈のことだから、夜にこっそりと練習していたのに気付かれるのは快く思わないだろう。ただでさえここぞという頼みごとがある時にしか歌ってくれないのだから、盗み聞きの機会まで失うのはもったいない。
『大したものではないのだから、聞き慣れれば価値が目減りするだろう』
ごく真面目にそんなことを言う霜烈は、驪珠の幽鬼に間違えられていることを知ったらどんな顔をするだろう。呆れたように眉を寄せて、嘆かわしげに溜息を吐くかもしれない。買いかぶりも甚だしい、とかいって。
それは、今の役者の多くは驪珠を直接は知らないけれど。彼女の歌を聞いて育った霜烈は、さぞ大切な宝物として胸に抱いているのだろうけれど。微かに漏れ聞こえるだけで、間近に氷の花が咲いたかのような涼しくも煌びやかで清らかな──そんな歌の声を大したものではない、だなんて言われたら、役者として燦珠には立つ瀬がない。
(喊嗓子に戻った……声の出が良くないと思ってるのね? あれで?)
闇の中、さらに手近な木の影に身を隠して、燦珠は耳をそばだてる。
美しい歌に聞き入るのはもちろんのこと、上手な人の練習は非常に参考になるものだ。事実、声の調子を整えた後は、霜烈の声はいっそうのびやかに、厚い雲さえ掃うように夜に響き渡る。月や星の見えない闇さえ煌めかせるような──妙なる美声の霜烈が必要以上に自らを卑下するにも一応理由がある、らしい。
宦官というものは声を張り上げる機会がないから、すっかり喉が衰えたと思っているのだ。声量も、音域も、彼が思い描き理想とする母の声には遠く及ばない、と。
(前も、十分すごかった……でも、練習してくれて、良かった)
艶を増していく唱声に首筋を撫でられる心地がして、燦珠は──夏だというのに──微かに震えた。霜烈は、どうやら自身の唱声を彼女に言うことを聞かせる手段として考えているらしい。歌や舞で御せると思われているのは、どうなのかと思わない訳でもないけれど──あの声が彼女のために磨かれているのだと思うと、誇らしく、嬉しい。
(一緒に歌ってみたいわ)
燦珠は、声を出さずに唇を動かし、吐息だけでそっと歌った。彼女の存在が知られたら、霜烈は即座に練習を止めてしまうだろう。そして、若い娘が夜中に云々と、お説教が始まるに決まっている。だから、密かにこっそりと。声が重なるのは、燦珠の胸の中でだけだ。




