5.燦珠、新年を食す
年の初めの十五夜には、元宵という餅菓子を食するものだ。
胡麻や胡桃、干した果実などを使った餡を閉じ込めた白い団子を満月に見立てて、その円い形に一家団欒や家庭円満の願いを託するのだ。
皇宮においてもその倣いは変わらず、新年の慶賀の一環として、妃嬪はもちろん、秘華園の役者に至るまで元宵が振る舞われた。上質の餅粉と砂糖を使っている上に、料理人はもちろん皇帝に仕える名人ばかりとあって、餅は柔らかくとろけるよう、餡は滑らかで雑味のない甘さで大変美味だった。
白磁の器に、糯米でとろみをつけた甘い湯と共に団子を盛って。乾燥させた玫瑰の花弁が彩りと香りを添えて──文句のつけようもない、見た目にも美しい一品ではあったのだけれど。
「でも私、元宵は揚げたのが食べたかったなあ」
贅沢な望みなのは承知で、それでも燦珠はふと呟いた。秘華園の練習場のひとつにて、腰腿功で横一字に開脚しながらのことだった。
勢い込んだ同意の声が、すぐ傍、同じ高さからふたつ上がる。同じく開脚して、かつ上体を床にぺったりとつけた喜燕と玲雀だ。
「分かる。食感がふわさくで美味しいの」
「踊る時にお腹が痛くなっちゃうかもだけど、食べたい!」
華やかな笑い声がはじけると、秘華園にも日常が戻ってきたようで、燦珠は安堵のような思いを噛み締める。
新年とはいえ秘華園に休みはなかった──というか、新年だからこそ、諸々の祝宴で演じるために役者たちは忙しかった。年が明けて半月、ようやくひと息吐いて通常の練習を始めたところだったのだ。たぶん、元宵には労いの意味もあったのではないかという気がする。
「元宵、揚げるんだ……?」
「ええ。屋台でよく見かけたりするんだけど……」
ひとり、腑に落ちない様子の星晶に、燦珠は幼いころの記憶を思い出しながら説明した。
春節は、市井の役者にとっても忙しい時期だ。燦珠の父、梨詩牙も、あちこちの屋敷の宴席に呼ばれたり興行を行ったりで家に居つかないものだった。燦珠としては手伝いと称して父たちの舞台を覗きたかったのに、女の子供にそんなことは許されなくて──むくれる娘の機嫌を取るために、父は暇を見つけては彼女を賑わう街に連れ出し、菓子や玩具を買ってくれた。臉譜をしていないと、梨詩牙が子連れでいるとは意外と気付かれないもので、父を独占できたひと時は、燦珠には貴重な思い出だったかもしれない。
(糖葫芦に、麻花児──)
懐かしい屋台の味を舌の上に蘇らせたところで、燦珠はふと気付いた。
「……もしかして、後宮ではあんまり揚げ物って出ないのかしら……?」
秘華園で出される食事の質にも量にも、何らの不満はない。三度の食事に加えて、香雪も華麟も何かと役者たちを呼んでは茶菓を振る舞ってくれる。その待遇には感謝した上で──そういえば、献立は品が良いというか、あっさりと、さっぱりとしたものが多い、かもしれない。
後宮、引いては名家での暮らしが長そうな星晶に尋ねてみると、麗しい男役の少女は、そういえば、と言いたげに首を傾げた。
「尊い方々のご体調のため、ということはあるかも……? 油もの、胃腸には良くないだろうし。特にお菓子は、わざわざ揚げなくても」
「そっかあ」
身体に悪くても食べたいのが揚げ物であり揚げ菓子なのだろうけれど。肥る心配も胃もたれも、燦珠には無用のものだけど──皇帝その人や、妃嬪の方々となるとそうもいかないのは、まあ分かる。
(お仕えする身で、我が儘を言ってはいけないわね……)
一介の役者の身では、出されるものをありがたくいただくしかないのだろう。
いつの日か、皇帝が揚げ物に嵌ってくれたなら。後宮の献立が一変することもあるのだろうか。でも、確かに偉い方々は体調に気を配るべきなのだろうし、何よりあの方が節度を忘れるなんてありそうにないし。となると、里帰りというか市井に下りる機会を待つほうが早いかもしれない。甘味と揚げ物への未練を断ち切って、燦珠は練習に専念することにした。
* * *
数日後──燦珠は、秘華園の奥に位置する廟に呼び出された。鐘鼓司太監になった霜烈には側仕えの宦官もついたから、隼瓊を煩わせずとも比較的気軽に会えるようにはなっている。とはいえ双方仕事と練習があるし、贔屓だとか燦珠の父への遠慮だとか、気を遣うことも多いから、彼のほうから声をかけてくるのは珍しい。
(いったい何の用事なのかしら!?)
訝しみながらも、美貌と美声の人に会うのが楽しみで。燦珠は跳ねるように約束の場所に向かい──
「揚げた元宵を欲しがっていたと聞いた。……食べる、か?」
「え──嘘。誰から? 買ってきてくれたの? あ、まだ温かい……!」
これもまたとても珍しいことに、霜烈の姿よりも声よりも、彼に手渡された土産のほうに夢中になった。油紙と、さらに布で包まれてもなお芳しく漂う甘く香ばしい香りと、手に伝わる熱。当分は無縁のものと諦めた揚げ菓子が、まさに彼女の手中に現れたのだ。
燦珠の驚きようと喜びように満足したのか、霜烈の口元も綻んでいた。蕩けるような笑みを浮かべた唇が、蕩けるような声を紡ぐ。
「星晶から聞いた。伝手というか、心当たりがあったから──ほかの娘に分けても良いが、冷めないうちに幾つか食べておいても良いと思う」
「うん……ありがとう!」
抱えるほどの元宵の山は、確かに友人たちと分けるのに十分な量だ。冷めても十分美味しいはずだけれど、霜烈の提案に甘えて、役得をいただくことにする。
いつもの四阿に腰を据えて、元宵をひとつ、摘まむ。まずは、ほんのりと黄金色に染まった揚がり方を目で堪能してから、そっと口に運ぶ。揚げられた餅の生地は、外側はさくり、かりっとした歯触りがあって、内側はとろけるよう。油と砂糖、ふたつの強い旨味が口の中で暴れるのを、目を閉じて拳を握って、身悶えしてやり過ごす。そうして辿り着いた餡は、桂花の香りをつけたものだった。油の熱でとろりと溶けて、けれど舌を火傷するほどの熱さではないのが食べやすい。
「美味しい……! これを食べると新年って感じがするわ! ──ね、楊太監は食べないの?」
つい、ふたつ、みっつと続けて食べてしまいそうで、けれどそれは意地汚くて恥ずかしいから。尋ねてみると、霜烈は笑顔のまま首を振った。
「私は揚げたてをもらったから、良い」
「揚げたて……!」
火傷を覚悟で揚げたてにかぶりつくのも、素敵なことだ。霜烈がそういうことをするのも意外だけれど可愛い気もするし──
(この人が買い食いだなんて、絶対に目立ったでしょうね……!)
屋台の主やほかの客の驚く顔を想像して微笑んだところで、燦珠はふと首を傾げた。
「あれ、太監でも、まだ市井に下りることがあるの? ──と、春節を過ぎても、まだ元宵を売ってるお店があったの?」
「……後宮の中で贖ったのだ」
「え?」
そっと目を逸らして小声で漏らした霜烈に──ふたりきりなのに──どこか人目を憚る気配を感じて、燦珠は固まった。
「膳部に、余った食材を調理して下級の宮女や宦官相手に商売している者がいる」
言われてみれば、桂花の餡は先日供された元宵の中にあったような。市井の屋台に似つかわしくない、上品で洗練された甘さでも、あるけれど。後宮の中で作られたなら、この温かさにも納得がいくけれど。
「えっと……天子様やお妃様方のための食材、なのよね? 商売になるほど余るの?」
「なぜか余るらしい」
真顔で呟いた霜烈は、疑問に思っている様子ではなかった。つまり、仕入れの段階で横流し前提の量が発注されている、のだろうか。
「そういうの、良いの?」
「良くはないと思う」
「そう、よね……」
「私も最初はたいへん驚いた」
霜烈がしみじみと述べたのには、非常に含蓄がある。皇子様だった人が、後宮の真っ只中で割と大規模な不正が行われているのを知ったなら、それは驚くだろう。
「とはいえ、貴人には出せない端材もあるのだろうし。厳しく取り締まっては飢える者も出かねないし。宮女や宦官全体の待遇に手を入れるとなるとあまりにもことが大きくなるし──」
だから黙認するしかない、ということになるらしい。秘華園の役者は、後宮に仕える者の中ではやはり相当に優遇されているのだ。良い不正がある、だなんて考えることはできないけれど──正規に出される食事だけでは足りない者もいるのだとしたら、罰することもまた、正しいことではないのかもしれない。
「……そこのところ、皆には内緒で分けることにするわ……」
膝に抱えた元宵が、ずしりと重くなったような気分を味わいながら、燦珠は呟いた。甘く魅惑的な香りも味も変わらないけれど、こういうことは大きな声で言うものではないだろう。
「星晶あたりは察していそうだが、そうしておいたほうが良いと思う」
「ああ……星晶も、揚げた元宵が気になっていたのかしら。それで、楊太監に頼めばどうにかなるかもと思ったのね?」
話が繋がった、と思って燦珠は微笑んだ。後宮での密かな商売を知っていれば、そして伝手があれば、好きなものを好きな時に食べることも不可能ではないらしい。華麟を主に戴く星晶なら、その手の機微には通じていそうだ。
(でも、それなら星晶に渡したほうが早かったんじゃ……?)
謎が解けた、と思った瞬間に、またひとつ謎が生まれたのだけれど。
「そうかもしれない。──そろそろ行ったらどうだ? 今なら冷め切る前に渡せるのではないか?」
「そうね。せっかくだから温かいほうが良いものね……!」
重要な任務を与えられて、燦珠は疑問を胸のうちにしまうことにした。温もりの残る甘い香りを大事に抱えて──立ち上がりながら、笑う。
「本当にありがとう! 皆には、楊太監からってちゃんと言うからね!」
霜烈は、燦珠と並んで歩くことをしない。彼を早く仕事に戻してあげるためにも、急いで立ち去ったほうが良いだろう。
(皆、きっと喜ぶわ……!)
友人たちの笑顔を楽しみに、燦珠は纏わりつく馬面裙を捌いて、足を踏み出した。




