1.霜烈、梨詩牙を知る
「あよう──」
人混みの喧騒を縫って彼を呼ぶ高い声を聞き取って、霜烈はその方向に顔を向けた。声の主──なぜか慌てた様子でこちらに駆けてくる段叔叔は、しばらく前までのように阿陽と呼んだのか、それとも近ごろ名乗り始めた姓から阿楊と呼んだのかどちらだろう、と訝りながら。
「こちらにおられたか。かように美しい子はまずいないから、人攫いにでも遭ったのかと気を揉みましたぞ」
「すまなかった。けれど、遣いはすべて済ませたから」
年端も行かぬ見習い宦官に対するにしてはやたらと丁重かつ大仰なもの言いからして、まだ皇子扱いをされている可能性が高い気がする。後宮の中では正体が露見することがないようにと口酸っぱく言い聞かせる癖に、叔叔は市井で長く彼を見失うと不安に駆られるらしいからおかしなことだ。ひとりで遣いを済ませられぬようでは、後宮に居場所などないだろうに。それに──
(市井のほうが安心なのに)
何しろ、ここでは陽春皇子の顔を知る者はいないのだから。後宮で、父や義母やその近習の影に怯えて顔を伏せて過ごすよりは、市井での用を仰せつかるほうがよほど気が楽だ。
何より、面白い。
物売りの口上、大道芸の呼び声、地方の訛り。屋台の総菜や菓子の香りに、丸のままの野菜や果物、籠に入れられた鶏やら鸚鵡やら──五感に触れるものの何もかもが新鮮で、物珍しくて。
とりわけ霜烈の目と耳を引き付けてやまないのが、とある建物だった。音高く鳴る銅鑼に呼ばれるように、浮き立った面持ちの人々が次々と吸い込まれていっている。内部から聞こえる京胡や月琴の嫋々とした調べ、短皮鼓が刻む軽快な拍子は、彼にも深く馴染みがあって、かつ心躍らせるものだった。
「あれは、茶園というもの? 華劇をやっている?」
霜烈がその建物を指さした手をそっと握って、段叔叔は軽く顔を顰めた。
「ええ、まあ。とはいえ役者は男ですし、隼瓊や──驪珠ほどの者はそうはおらぬでしょうが。……気になるのですな?」
「うん。……時間がないなら、良いけれど」
宦官というものはなべて皇帝の奴隷であり、後宮での所用を担うものだということは承知している。よって、市井での御用が済んだならすぐに戻るべきなのだ。多少の息抜きは多目に見られるようではあるけれど、芝居を一幕観るのは、市場を見回ったり屋台で買い食いをしたりするのとは訳が違うだろう。
皇子ではなくなった彼は、段叔叔の弟子ということになっている。ならば師の言いつけに従うべきだ。霜烈が師を見上げる眼差しは、期待と懇願を、諦めと納得が覆っていたはずだ。
「──まあ、どうとでもなりましょう。いざとなれば奴才がお咎めを引き受ければ良い」
「え、それはいけない」
けれど、少し悩んだ末に段叔叔は破顔した。宦官への咎めというのは、単なる叱責ではなく杖刑になる。霜烈は目を見開いて首を振った、のだけれど。足を踏ん張る甲斐もなく、若い宦官は彼の手を引いて強引に茶園へと足を向ける。
「気落ちしたお顔を見るのは打たれるよりも辛いこと。隼瓊への土産話にもなりましょう」
彼を見下ろす笑顔、守るように肩を抱く腕、握られた手の温かさ──いずれも優しくて慈しみに満ちて、霜烈の胸を締め付ける。段叔叔も隼瓊も、皇子であった時以上に彼に甘い。父や義母のように、顔や身体をべたべたと纏わりつくように触れられたり、息が苦しいほどに抱き締められたりするのとは違う、心地良い温もりは嬉しいけれど、同時に不可解で居たたまれない。
彼はそれほどに哀れまれる存在になり果てたのだろうか。
* * *
とはいえ、霜烈の蟠りは唱や舞や打の賑やかさ華やかさに魅入られるうちに霧消した。早足に皇宮へと戻る道すがら、頬に感じる風がやたらと冷たく感じたのは、それだけ彼の熱が上がっていたということだろう。
「──很好棒。まだどきどきする……!」
「お顔が晴れて良かった。秘華園の華劇とはどちらがお好みで?」
「難しいな……。隼瓊のほうが艶があると思うけれど、男の役者の荒々しさも見ごたえがある。……言ったら怒るかな?」
「阿楊が楽しまれたのを喜ぶでしょうし、いっそうの励みにすることでしょうな。気にせずお話なさるとよろしい」
「うん。そうする」
段叔叔が笑って頷いたのに安心して、霜烈は改めて今日の舞台の記憶にうっとりと浸る。
「敵役の役者が良かったな。声も姿も抜きんでいたのではないか?」
「梨詩牙と申す若い役者だとか。御目に留まったなら、きっと延康の都に名を馳せることでしょう」
彼の表情や目線を読んで、叔叔は役者の名を聞いておいてくれたらしい。梨詩牙、と。贔屓にすることを決めた役者の名を深く心に刻んでから、霜烈は呟いた。
「また観られるかな」
「まあ……上手くやれば、どうにか。その辺りの立ち居振る舞いも追々お教えいたしましょう」
「うん!」
目を輝かせた彼と裏腹に、けれど叔叔の表情は昏く翳った。
「もっと早くにお救いしていれば、いかようにも自由に生きられたのでしょうに。都どころか国一番の役者にだって。……陛下のご様子がおかしいのを知っていながら手をこまねいてしまって──」
「今のほうが気楽だから構わない。隼瓊にも叔叔にもいつでも会えるし」
彼が望まない類の繰り言が始まる気配を察して、霜烈は慌てて遮った。
彼が名乗り出ることをしないのは、匿ってくれた者たちに罰が与えられるのを恐れるからだけではない。父たちのことを、心から怖いと思うからだ。身体を損ねた深手についても、どうやらそれを悪意なく行ったことについても。市井に出て庶民の親子を見ていれば悟らざるを得ない。あの方たちは、おかしいのだと。
狂った鳥籠から抜け出すことができたなら、喜ぶべきこと。助けてくれた人たちに感謝こそすれ、恨むはずがない。謝られては、身の置きどころがなくなってしまう。
「後宮にいたら梨詩牙を知ることもできなかっただろう? だから本当に、良いんだ」
何度言っても信じてはもらえないようだから、霜烈は知ったばかりの役者の名を利用することにした。とはいえ方便ではなく、心からの言葉でもある。
「さようで、ございますか……」
彼の想いが、伝わったのかどうか。あるいはより哀れまれたような気がしないでもなかったけれど。とにかく、段叔叔はそれ以上は何も言わなかった。
* * *
延康の街角を歩いていた霜烈は、喧騒を縫って高らかに響く大声に足を止めた。
「この、坏女孩がぁ──!!」
遊び歩いたり親の目を盗んで恋人と密会したりする娘が咎められる、というのは恐らくよくある状況だ。道行く者たちも、大方はちらりと声のほうに目をやるだけで、それぞれの目的地に向かっている。彼だけが立ち止まったのは──大声の主に、心当たりがあったからだ。低く深く、それでいて朗々と響き渡る、功夫を積んだ男の役者ならではの、張りのある声。
(梨詩牙の声……? まさか、な)
近ごろ芝居を見ていないがための幻聴だと、思おうとした。先帝の服喪と今上帝の即位とで後宮は慌ただしく、何か月も市井に下りる隙がなかったからだろう、と。
梨詩牙は、今は《雷照出関》に出演しているのを知ってはいるが、あいにく今回は観る余裕はない。霜烈は、近ごろ都を騒がせる花旦を見つけ出さなければならないのだ。
(今上の陛下にもお見せできる、芸が優れるだけでなく心も真っ直ぐな娘であれば良い……)
潔癖な皇帝のもと、宴席の祝儀や料理のおこぼれが減ることを危惧する同輩は多い。だが、霜烈としては新しい皇帝に期待していた。後宮の汚濁を知らず、英邁を謳われる才子のもとでならば、政も後宮も先帝の御代とは同じではいられないだろう。それ自体は、喜ぶべきことだ。
ただ、潔癖のあまりに秘華園を廃されるのは悲しい。華劇それ自体には罪はないのだから。主の意を受けて何かと争い合う役者も、後宮の秩序が保たれていれば芸の研鑽に専念できるはずで──隼瓊や驪珠のように、歌と舞と芝居とを純粋に究める者の姿を見れば、皇帝の考えも変わるのではないか、と信じたかった。件の花旦がその器なのかどうか──まずは会って、技量と人柄を見極めたいのだが。
「パパ!? 開演前に何やってんの!?」
「跳ねっかえりが大道芸の真似事をしていると聞いたのだ。これが座っていられるか!」
……今度聞こえたのは、若い娘の声だった。甲高いが決して耳障りではなく、むしろ天に吸い込まれるようによく響く。先に聞こえた男の声に劣らぬ声量だ。そして──応じた父親らしき怒声は、今度こそ聞き間違えようがなく、霜烈が十五年に渡って追いかけてきた役者のものだった。
(……梨詩牙だ)
断じた瞬間、霜烈は踵を返してふたつの声の源を目指していた。人波を乱す彼に、非難の眼差しが四方から刺さる。中には怒鳴ろうとして口を開けて、そしてすぐに閉じる者が見えるのは──宮仕えの宦官と知って面倒を避けたのか、やたらと目立つ彼の容姿が何らかの効果を発揮したのか。分からないし、どうでも良い。
とにかく──大声で言い争う父娘は野次馬を呼び寄せているようだった。お陰で、人の流れに乗った霜烈は、迷うこともなく梅の香りが漂う広場へと辿り着くことができた。その場の者たちの視線が上に向いている理由は、すぐに知れた。
「──我が名は梨燦珠! 聞いての通り、梨詩牙の秘蔵っ子よ! 誰か、私を引き抜こうって座長や興行主はいない!?」
紅梅の木の枝の上で、満開の花よりもなお誇らかに。花と同じ色の舞衣を纏った少女が胸を張って宣言したところだった。
(私は、梨詩牙の娘を探していたのか)
思いがけない運命に気付いて、霜烈の唇は自然と笑みを形作っていた。あの名優の娘なら、技量に懸念はあるまい。そして、気性のほうも。この大胆さに負けん気、物怖じのしなさ。後宮で委縮するどころか、あの場所に降り積もる鬱屈を一掃してくれそうだ。何よりも華があるのが良い。演じるところを観たいと思わせられる。
(この娘なら、きっと──)
浮き立つ思いのままに進み出ながら、霜烈は大きく息を吸った。彼の声や容姿に驪珠の面影が少しでもあるなら、今こそ利用する時だと思った。舞台に上がる役者のように、客の意識を惹き付ける仕草や台詞、眼差しや間の使い方を頭の中で大急ぎで組み立てながら──口を開く。
「──乗った」
燦珠と名乗った娘と目が合った瞬間に、彼の大芝居は始まった。父の反対を押し切って、娘を後宮に誘い出すための。贔屓の役者に憎まれそうで、それは悲しいことではあるが。だが──それだけの意味と価値があるはずの一幕だった。




