5.燦珠、寿(ことほ)ぐ
万寿閣の最上層の舞台に立つと、皇宮が一望できた。常は見上げる黄の瑠璃瓦が、陽光を受けて眼下に輝いている。
折しも季節は秋を迎えて、庭園の木々は葉を赤く染めている。瑠璃瓦の釉薬の艶に紅葉の色が映えると、金の海が燃えているかのようだ。限られた者──無憂閣の上層に上ることができる貴人か、万寿閣で演じる役者など──だけに許される絶景に、燦珠は感嘆の溜息を吐いた。
「真昼だとこんなふうに見えるのね……!」
前回は闇と緊張で下を見るどころではなかったから、とは口に出さない。たとえ霜烈とふたりきりの時であっても。
香雪が昭儀から貴妃に上る祝宴の、今日は当日だ。万寿閣の向かいに聳える無憂閣では、婢や宦官が貴賓を迎える支度に慌ただしく行き来している。ふたつの楼閣は相応に間を開けて建てられているけれど、油断しないに越したことはない。
「あまり皇宮を見下ろすものではないが。まあ、鳳凰の視点と思えば不敬でもあるまい」
背後からは、苦笑する霜烈の気配が伝わってくる。それは、今日の準備のために何度も楼閣に登った彼にしてみれば、既に見慣れた眺めなのかもしれないけれど。燦珠にとっては初めてなのだからはしゃいだって良いと思う。
「ええ……大空から舞い降りるって、きっとこんな気持ち……!」
開演前の最後の稽古を控えて、燦珠は既に鳳凰の衣装を纏って化粧も済ませている。損なわれた衣装は、いっそう華やかに修繕してもらって──今度こそ、星晶と《鳳凰比翼》を、本来の形で舞うのだ。
香雪のための、しかも、皇太后の喪が明けてから初めてのめでたい席だと思うと燦珠のやる気もひとしおだ。眼下から照り返す金と紅の煌めきは、燦珠たちの衣装をいっそう眩く華やかに輝かせるだろう。驪珠の白鶴にはまだ及ばなくても、見る者に今上帝の御代の平らかなる繁栄を知らしめなくては。
「渾天宮は、あれでしょう? 永陽殿と、喜雨殿と──ほかの殿舎はもう分からないわね……」
地上を歩いた時の記憶と照らし合わせて、主だった殿舎を指さしていると、燦珠の後ろから咳払いが聞こえた。
「浮かれて落ちないように」
「大丈夫よ、子供じゃないんだから……!」
言い返したものの、気付けば欄干からだいぶ身を乗り出していたことに気付いて、燦珠は慌てて一歩、二歩と後ずさりした。足を滑らせるような失態は犯さないとは思うけれど、少々説得力がない状況だったかもしれない。
「鳳凰になり切って飛び出さないか? 飛べる気になったりはしないか?」
「私を何だと思ってるの……?」
抗議をすべく、揶揄うように笑う霜烈に向き直ろうとして──けれど、彼の姿を見ると燦珠はいまだに言葉を失ってしまう。
(本当に……綺麗なんだから……)
姿かたちが美しいだけでなく、今の霜烈は絢爛な刺繍が施された衣を纏っている。だからなおのこと眩しいのだ。
蟒服──龍に似た四爪の蟒を表した上衣を玉帯で締める、華やかかつ重厚な装いは、皇帝から特別に下賜されたものだ。《偽春の変》での功績に対する褒美の名目だったけれど、皇族の着用する龍袍に次ぐ格式だというから、たぶん霜烈の本来の身分を慮っての計らいだろう。
彼自身がその配慮をどう捉えているかは分からないけれど、美しい鐘鼓司太監を毎日のように見ることができて、燦珠の目も心もたいそう潤っている。ほかの役者も、やる気や危機感を高めているようだ。
瑠璃瓦から照り返す金の光を受けて、いっそ神々しいほどに美貌を輝かせながら、霜烈は軽く首を傾けている。
「私は、そなたが躊躇いなく飛んだところを見ているからな」
「あれは、受け止めてくれるのを知ってたからよ?」
あの夜のあれは、演技の一環として、退場の演出として必要なことだったからであって。鳥の衣装を纏っていれば飛べる、だなんて考えるはずはないだろうに。
(私、そんなに危なっかしいのかしら?)
少々不服に思いながら霜烈へ歩み寄ると、衣装にほどこされた羽根飾りがさやさやと軽やかな音を奏でた。眩い美貌を間近に見上げて胸を弾ませながら、首を傾げるのは今度は彼女のほうだ。最後の稽古が始まる前──星晶たちが登って来る前に彼を呼び出したのは、どうしても言っておきたいことがあるからだった。
「ねえ、楊太監は、今日は無憂閣から見てくれるのよね? ちゃんと、席もあるのよね……?」
「末席では、あるが」
「じゃあ、楊太監のためにも舞うから、そのつもりで見ていてね」
何を今さら、と言いたげに頷いた霜烈は、燦珠の返す言葉を聞いて柳眉を寄せた。整った唇からも、呆れたような声が漏れる。
「そなた……今日を、何の席だと思っている?」
慶賀の意味を捻じ曲げるのは呪詛も同然、と──あの夜、驪珠の姿を借りて皇太后に告げたのは燦珠自身だ。忘れていないし分かっている。でも、彼女にも言い分があった。
「お誕生日にほかの人のことを祝ったら良くないかもしれないけど、今日は……なんて言うか、香雪様のお祝いだけじゃなくて。後宮の安定とか、天子様の御代の泰平を願うものでもあるでしょう? じゃあ、楊太監も関係あるじゃない? 天子様も香雪様も御心が広くていらっしゃるもの、許してくださるわ!」
「また屁理屈を……」
文宗帝の六十の賀とは話が違うはずだ、と言い張っても、霜烈の眉は解けなかった。お説教が始まる前に、燦珠は急いで言葉を繋ぐ。彼が何と言おうと、絶対に譲るつもりはないのだ。
「だって、私に秘華園を変えてほしかったんでしょう? 天子様は公正で寛大な方で、華劇も楽しんでくださる。お妃がたもお綺麗で優しくて、誰も争ったり傷つけたりしないの。役者も、一時の夢を紡ぐことだけに専念して研鑽を積める──ずっと、そうであれば良かったのに。そうじゃなかった時代が長かったのよね……」
霜烈が望んだのは、そうあって欲しかった秘華園だったのだろう。役者が──驪珠が、憂いなく演じることができる場所。歌も舞も美しいだけで、見る者を阿片の甘い悪夢に溺れさせるためのものでは決してなくて。そんな、和やかで穏やかで綺麗な世界があったなら、と。後宮の片隅で、息を潜めて秘華園の腐敗を眺めながら、彼は夢見ていたのではないだろうか。
(叶うのを見ないで死のうとしていたなんて、絶対許さないけど!)
蘇りかけた怒りを堪えて、霜烈に微笑みかける。さらりと命を投げ出そうとしたこの人こそ、危なっかしくて信じられなくて放っておけない。でも、だからこそ対策を考えた。要は、死ぬのはもったいないと思ってもらえば良いのだ。
「でも、これからは大丈夫。天子様がいて、香雪様や謝貴妃様がいて──私が、いるもの」
五色の鳳凰の羽根を翻して、極彩色を躍らせて、燦珠はくるりと回った。《鶴鳴千年》の練習を経て、動きに優美さが増したのは隼瓊のお墨付きだ。もちろん、驪珠にはまだ遠く及ばないのだろうけれど──彼女には成長の余地があると、信じたい。
「私はいつでも、華劇のことだけ考えて演じるわ。より高く跳んで、より速く回って、より美しく、声はより高らかに──今日は、まずはもっと見たいと思ってもらおうと思ったの。目を離せない、ずっと見ていたい、って」
「そなた──」
霜烈が目を見開いた時、空に近い舞台にもうひとつの羽音が響いた。燦珠と対の鳳凰の衣装を纏った星晶が、上がってきたのだ。先にいた燦珠と霜烈の姿を認めて、化粧をほどこした凛々しく涼やかな面に、なぜか温い笑みが浮かんでいる。
「……邪魔でしたか?」
星晶はどうして霜烈を見て尋ねたのだろう、と。燦珠は少し不思議に思った。燦珠のほうから彼を呼び出したのに。本番前の役者が舞台に上がるのに、何の遠慮もいらないはずなのに。事実、霜烈も大きく首を振って応じる。
「邪魔になるのは私のほうだ。早く、ふたりで稽古を──今のうちに高さに慣れておくと良い」
やたらと早口な答えはこの場を立ち去るためのものだ、と気付いたのは、絢爛な蟒服の背が階段に向かうのを見てから、だった。星晶のことを邪魔とはまったく思わないけれど、霜烈が逃げるのは許せない。燦珠は鋭く声を上げた。
「楊太監! さっきの、聞いてた?」
「……聞いた」
「で、どう思ったの?」
背中越しの答えも認めない、と。言外に滲ませて問い詰めると、霜烈はようやく足を止めた。振り向きざまに星晶に鋭い一瞥が投げられた、と思ったのも一瞬のこと、彼の深い色の目が、すぐに燦珠をひたと見据える。胸を彩る蟒が微かに蠢いて、深い呼吸を示す。形の良い唇が、そっと開く。
「そなたから目を離すことなどできるはずがない。宝珠のごとくに輝く様を、いつまでも見ていたいに決まっている」
魂を直に撫でる天鵞絨の声が、ゆっくりと、はっきりと告げた。既にいくらかの距離が空いていたところだったのに、耳元に囁かれたように感じたのは──燦珠だけに向けた言葉だから、なのだろうか。申し分ない答えなのに、気恥ずかしくなってしまう理由は、彼女には分からないのだけれど。
「あ、ありがとう……」
「当然のことだ。……この後も、楽しみにしている」
「うん。頑張る」
どういう訳かぎこちないやり取りの後、霜烈は今度こそ階下に姿を消した。長身の影が見えなくなると同時に、星晶がほう、と溜息を吐く。
「すごく邪魔をしたみたい、だね。良いものを聞けたというか、見られたけど……」
「……何が?」
聞かれて困るようなことは、話していなかったはずだけれど。燦珠が少し不安を感じたところで、高い声がもうひとつ、増えた。喜燕のものだ。
「ねえ、楊太監の顔が真っ赤だったんだけど。燦珠、何したの……!?」
「なんで私に聞くの!?」
「だって楊太監だよ!?」
「何それ!?」
足が完治していない喜燕は、今日は歌だけでの出番になる。階段を上るのもゆっくりだから、降りる霜烈とすれ違ったのだろう。それは、まあ分かるのだけれど。
(楊太監の赤面!? 私も見たかった……!)
滅多に顔色を変えない人の、貴重な表情を見逃したのは悔しいし、なんでそんなことになったのか、本当にちゃんと伝わったのか、後で聞いておかなければ、と思う。
「何があったか、喜燕にも後で教えるから。──今は、最終確認を。ね、燦珠?」
「え、ええ。そうね……!」
途中からしか見ていない星晶が、何をどう教えるのか。含みありげなもの言いと微笑の意味は、何なのか──気になるけれど、それは確かに後で聞けば良い。今は、これからの舞台に集中しなくては。大事な祝宴の席で、霜烈にも約束したのだから。恥ずかしい出来を見せる訳には、いかない。
「じゃあ、私が拍子を取るから」
「お願い、喜燕」
星晶とふたり、鳳凰の衣装を翻すと、五色の羽根の眩さは何倍にも増して空に地上に振りまかれるようだった。ようやく、番の鳳凰が揃ったのだ。手足を踊らせ、回るたびに生じる煌めきは、めでたい席を寿いで、今日の日の晴れがましさをいっそう輝かしく見る者の胸に刻むだろう。
新しい皇帝と新しい妃のもとで、新たな御代が始まるのだと。この場にいる者たちは、長く平和な時代を生きるのだと──そう、予感させるのだ。三層の豪奢な舞台、絢爛に煌めく衣装、天に響く楽の音、それらも権威を示すものとしてはとても重要なのだろうけれど。
何よりも、自身の手足で伝えたい──伝えなくては。伸ばした羽根の先を表す指、羽ばたく翼を模した腕。回転は大きな翼が巻き起こす風を思わせて。天から鳳凰が舞い降りたのだと、長く語り継がれる日にするのだ。
一天四海一望無翳 見渡す限りの四方の海に影ひとつなく
満風受翼飛高到天 翼は風に乗って空高く舞い上がり
歌詞の通りに、なるように。願いを込めて、燦珠はひと際高く、跳んだ。
今話にて第一部は完結です。
幕間として後日談・番外編を7話掲載した後、第二部の連載を開始します。
引き続きお楽しみいただけると幸いです。
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