4.霜烈、別れを告げる
陽春と呼ばれていたころ、霜烈は父帝や義母に伴われて後宮の様々な殿舎を訪ねたものだった。そうして、その主によって殿舎の匂いというか気配というか雰囲気はそれぞれ異なるものだということを知った。肌で覚えた空気は、どうやら身体に深く刻み込まれるもののようで、栴池宮に足を踏み入れた瞬間、彼は密かに息を吐いた。
(ああ、義母上のお住まいだ)
地位に相応しい品格を保ちながら華美ではなく、優しい──けれどどこか倦んだ気配もあって纏わりつくような。懐かしく慕わしく、そして同時に恐ろしい。万が一にも正体が露見したら、この真綿の檻に閉じ込められて二度と出られないのだろうと考えていた。何かしらの用を言いつかっただけならば、あらゆる方便を駆使して逃げていただろうが、皇帝の直々の命令とあってはそうもいかない。
皇帝は、彼に供を命じて栴池宮に皇太后を見舞うと言い出したのだ。深夜ならば、驪珠の姿を知る古参の侍女は詰めていないだろうと言って、強引に。迎えるほうにとっても突然かつ異例のことだったのだろう、侍女や宦官が立てる衣擦れの音はいかにも慌ただしく、彼ら彼女らの戸惑いを示していた。
「陛下。このような遅くに──」
「お姿をひと目なりと伺いたいと思ってのこと。義母上を煩わせはしない」
「……既にお休みでいらっしゃいます。お静かにしてくださいますように」
今上帝の日ごろの言動では、皇太后の死期を悟って孝心ゆえに思い立った、と信じさせるのは少々苦しい。ただでさえ皇帝の接待には気を遣うものなのだろうに。──だが、誰もが皇帝の挙動に注視するお陰で、霜烈はその影に隠れるようにして素知らぬ顔で通ることができた。貴人につき従う宦官の顔をわざわざ覗き込む者はそうそういないが、念には念を入れてくれたのだろう。
すべては、彼が最後に皇太后と言葉を交わせるように、との過分の恩寵だ。それが察せられるからこそ、霜烈には固辞することができなかったのだ。
「義母上とふたりきりにさせよ」
皇太后の寝室の前で、皇帝は人払いを命じた。その上で、背後に控えた霜烈に、指先の動きで入れ、と命じる。それに従って寝室に入ると、義母の気配は一段と濃く、彼の首を絞めるようだった。浅く呼吸しながら寝台の傍に辿り着き、膝をつく。と、人の気配に気づいたのか、闇の中で褥が動くのが微かに見えた。
「……誰かいるの……?」
さて、何と名乗るべきか──少し悩んでから、霜烈は恐らく一番分かりやすく真実に即した答えを捻り出した。
「貴女様の陽春であった者です」
怯えたように息を呑む音が聞こえた。何しろ驪珠の幽鬼に会ったばかりなのだし、驪珠──を演じた燦珠──の言葉を気に病んで死に惹かれているのだろうから、まさか生者とは思うまい。思われても困るのだが。
「哀家を連れて行くの? さぞ痛かったでしょう。哀家を、恨んでいるでしょうね……?」
幽鬼を恐れてか、しっかりと褥に包まりながら、それでも身を乗り出してきた皇太后は、やはり陽春を愛してはいたのだろう。けれど、彼に伸ばされる枯れた手指は、幼い時に抱き締められた時の息苦しさを思い出させた。驪珠に駆け寄ろうとして止められた時の──だから、霜烈はそっと身を引いて避けた。
「そのようなことはいたしませんし、お恨みしている訳でもございません。……それほどには」
痛かったし、怖かった。驪珠を母と呼ばせて欲しかったし、もっと触れ合わせて欲しかった。けれど、はっきりと恨むにはこの御方の心の裡は不可解すぎる。夢の中に漂うように生きている御方に、恨み辛みをぶつけたところで何になるだろう。
「では……会いに来てくれたのかしら。哀家に、成長した姿を見せてくれようと……?」
「そう……義母上が手放されたものを、見せつけようと思ったのかもしれません」
ほら、皇太后は彼の言葉を都合良く聞き取って目を輝かせた。死んだ子の幽鬼が成長した姿を見せたとして、幻に過ぎないだろうに。無邪気に喜ぶ感覚は、やはり彼には理解しがたい。
(隼瓊老師はせめて悪かったと思っていただきたい、と仰っていたか……)
呆れて苦く笑いながら、霜烈は親代わりの師に倣おうとした。とうに諦めた「もしも」を数え上げるのは、彼にとっても少なからず苦痛を伴うことではあったが。
「上手くやれば、私は驪珠を忘れて貴女様を母と慕っていたでしょう。兄上がたに睨まれることなく加冠できていたなら、見目良い王として評判になることもあったかもしれません。妃を娶って、孫をお見せすることもできていたかも──」
もはやあり得ない結婚に言及した時、思い浮かべたのはなぜか燦珠の眩しい笑顔だった。王妃の位を喜ばないのは当然として、そもそも嫁に行く気などないと明言していた娘なのに。まして宦官と添うなどと、父の梨詩牙も決して許さないだろうに。図々しい想像に自分自身で驚いて、霜烈は言葉を途切れさせた。
「……そうならなかったのは、ご自身の行いのせいです。貴女様が、私を殺したから」
ともあれ、我が子からの糾弾は、さすがの皇太后にも多少は堪えたようだった。いつの間にか寝台に半身を起こした老女は、弱々しく震えていた。暗い中でも分かる。髪は色褪せ、痩せた肩は折れそうに細い。──もはや彼を閉じ込める力はないことに、ようやく気付く。
「阿陽……陽春。哀家は──」
「まあ、幽鬼なりに満ち足りておりますのでお気になさらず」
この御方に恨み言を言いたかった訳でも、苦しめたかった訳でもない。彼はただ、解放されたかっただけなのだ。そう気付いた瞬間、霜烈は心が羽根のように軽くなったのを感じた。
「阿陽……?」
「死んでから手に入れたものも、結構多かったということです」
彼を守り匿ってくれた者たちに対して、霜烈はずっと、感謝と同時に申し訳なさを感じていたのだ。露見した時に罪に問われるだけではなく、人生を賭けてくれたことを知っていたから。優れた役者を妻妾に望む王侯や顕官も多い中、隼瓊は秘華園に留まり、自らの子を持つこともなかった。段叔叔は、彼を庇うために出世の道を捨てた。
──だから、自身の命と引き換えに彼らの免罪が叶うならば願ってもないことだと考えたのだが。
(あんなに怒られるとは思わなかった……)
燦珠の密告を受けた隼瓊たちに、彼はたっぷりと絞られていた。親代わりと思っていた方たちに、子供のように叱られるのは居たたまれなく、彼女たちの目に涙が浮かぶのを見るのは心が痛むことだった。けれど、同時に嬉しくもあった。どうやら彼は、考えていた以上に愛されていたのかもしれない。気付くことができたのは燦珠のお陰で──そして、この身体になっていなかったら、あの娘と会うこともなかったのだ。
「阿陽。何の話をしているの。分からないわ……」
「でしょうとも。義母上には関わりのないことですから」
悲しげな表情を浮かべた皇太后を、霜烈は優しく突き放した。もはや関わりのない御方に対してなら、いくらでも微笑みかけることができそうだった。
「おやすみなさいませ、義母上。父上によろしくお伝えくださいますように。驪珠の唱と舞をもう一度見たのだと自慢なさいませ。きっと、泉下では会えていないのでしょうから」
息子という鎖がなければ、驪珠が父帝のもとに留まる理由はないのだから。言い聞かせるように囁きながら、痩せ枯れた身体を寝台に寝かせると、皇太后は大人しく従った。体力も気力も限界を迎えたのだろうか。目蓋が力尽きるように、降りた。
「……ええ。亮堅様はきっと悔しがるわ……」
呟いた時には、皇太后はまた夢の世界にさ迷い始めていたようだった。夫君と睦まじく語らっているかどうか──それもまた、霜烈には関わりのないこと。彼としては、驪珠を越えるかもしれない花旦──輝く珠の才を持つ娘の存在を、父帝から隠しきったことこそ満足だった。
* * *
栴池宮から渾天宮への帰り道、皇帝は轎子には乗らずに徒歩を選んだ。異例の見舞いだから目立たぬように、というのは口実で、たぶん霜烈と密かに話がしたかったのだろう。ほかの供は十分に距離を置かせた上で、それでも顔は真っ直ぐに前を向いたまま、低い声がぼそりと呟く。
「──もっと言って差し上げても良かったと思ったが」
「言って聞く御方ではございませんから」
彼と皇太后のやり取りは、寝室の外で待っていた皇帝も聞いていたのだろう。何なら止めを刺しても良かったのに、くらいの激情が聞こえた気がして、霜烈は苦笑する。
(本当に、当代の陛下は先代とは何もかも違う……)
最初から高潔さ廉直さを見込んでいたとはいえ、彼が受けた仕打ちに彼以上に憤ってくださるのは予想していなかったことだった。驪珠の衣装と翠牡丹は、取り調べが終わった後は彼の手元に返された。今宵の機会も、どうやら彼を皇族として遇することができないことへの埋め合わせをしようとしている風がある。この御方の気性に付け込もうとしたのを思い返すと恥じ入るしかない。──だから、彼のほうでも埋め合わせをする必要があるだろう。
「──時に、陛下。成宗様が秘華園を維持された理由をご存知でしょうか」
「いや。先例を尊重したためだけではなく、か?」
唐突な問いかけに、怜悧な眼差しがちらりと霜烈を振り返った。成宗帝は、秘華園を拓いた仁宗帝の次の皇帝だ。彼らふたりにとっては祖父にあたる。英邁を謳われた賢帝でもあり、格別に華劇を好む訳でもなかったということなのだが──
「喬驪珠や宋隼瓊が秘華園に入ったころは、まだ成宗様の御代を知る役者もいたのだとか。伝聞ではございますが、秘華園での華劇の席を、密談の隠れ蓑にしたこともあったそうでございます。さらに言えば、翠牡丹はそもそも密命を受けた者が咎められることなく動くためのものだったとか」
時に騒々しいほどの管弦の音が響く中では、盗み聞きもできないだろう。そもそも、後宮で私的に開かれる席に介入できる者は限られる。優れた役者が特権を授かることにはさほどの不思議はなく、皇帝の寵を恃んでの特別扱いも、度を越さない限りは声高に批判できない。
無論、内密で話を進める機会が多すぎれば臣からの不信や不満を招くし、信用できる役者の選定は慎重に行わなければならない。その点は、皇帝の度量が問われることになるだろうが。
「……なるほど」
その辺りは言うまでもなく了解したのだろう、皇帝は頷きながら前に向き直った。夜空には月が明るく輝き、彼らの道行きを照らしている。
「そのような方法もあるということを、御心に留めていただければと存じます」
「それができるように秘華園を整えるのも、鐘鼓司の太監の役目になるな?」
「お望みとあらば」
命じられた役に、もはや不満はない。先日の一喝には心から納得している。秘華園の健全な存続のために自ら働くのは名誉と心得ている。
「考えておく」
話をしているうちに、彼らは渾天宮の黒く巨大な影が夜空を切り取る辺りにまで辿り着いていた。皇帝が無事に寝殿に入るのを見届けた後、霜烈は自らの住処に帰った。万が一にも燦珠が押しかけてくることがないよう、近く引っ越さなければならないと考えてはいるが、まだ先のことだった。
数日後、皇太后の薨去が宣された。予期されていたことだけに混乱はなく、皇宮はしめやかに百日の喪に服し始めた。




