1.燦珠、死者に祈る
秘華園の奥まった一角に、亡くなった戯子のための廟がある。身寄りのない者が葬られるほかに、とりわけ名高い戯子が神のように祀られる面もあるのだとか。驪珠はその両方に該当するから、花や菓子や紙銭などの供物が絶えないのだと、燦珠は隼瓊から教えられた。
特に今は、何かを考えた皇太后が山のように供物を捧げさせたから、清明節でもないのに廟は華やかに彩られている。
でも──驪珠の魂が地上を見ていたとしたら、やはり我が子に詣でてもらえるのが嬉しいのではないか、という気がする。
(やっぱり何をしても綺麗だわ。絵になるわ……!)
霜烈が、廟の前に跪いて深く頭を垂れている。瞑目した横顔は彫刻のように整って、濃い睫毛や鼻梁が描く美しい線にいつまでも見蕩れてしまいそう。白い肌も黒い衣も、眩い新緑によく映えて目に染みる。驪珠にとっても自慢の息子に違いない、と。参詣の順番を待つ燦珠は内心でしきりに頷いていた。
霜烈の後は、燦珠も跪いて驪珠のために祈った。魂の安らかなることを願い、勝手にその名を借りて演じたことを詫び、あともうひとつ、芸の上達を祈念する。……欲張り過ぎな気もするけれど、どれも心から驪珠に向けた想いだからしかたない。隼瓊が評した通り、《鶴鳴千年》が上手く行ったのは暗さや衣装に助けられてのことでしかなかった。あとは、皇太后の罪の意識ゆえのこと。──燦珠はまだ若いから、研鑽を積めば驪珠に近づく機会もあると信じたかった。
* * *
廟の傍には、参詣者が憩うための四阿も佇んでいた。陽春皇子を名乗る詐欺師が捕縛されてから半月ほど、秘華園はまだ騒がしい。練習どころでない戯子も多いようだけれど、こんな奥まで来る者はいないだろう。事件の直後こそ驪珠を詣でる者の列が絶えなかったものの、それが落ち着いたころを見計らって、燦珠たちはここを訪れたのだから。
四阿の中、ひんやりとした石の腰掛に座り、初夏の風がほつれた髪を揺らすのを抑えながら、燦珠はそっと切り出した。
「瑞海王様が亡くなったそうね……?」
無言の掟が支配する後宮でも、その報せは稲妻より速く殿舎を駆け巡った。戯子の園の秘華園でも例外ではないし、霜烈も言われるまでもなく知っているはず。でも、燦珠はあえて彼と話したかった。これですべて終わったのだと、確かめるために。
艶やかな黒髪と黒衣に陽光を集めておいて、実に涼しげな顔で霜烈は軽く頷いた。燦珠と少し離れた場所に掛けているのは、例によって若い娘が云々を気にしているから、らしい。
「思い違いをしたこと自体は罪にはならぬからな。とはいえ、徒に皇宮を騒がせたのは、皇族としては恥じ入るべきことだ。生きていられないほどに、な」
「ええ……」
そう──瑞海王の死因は、毒を呷っての自裁だったと伝えられた。反逆の咎での死罪では、なかったのだ。あの御方は、あくまでも役者崩れを行方不明の皇子だと思い違いしただけ。
偽物を使って皇太后を騙そうとした訳ではないし、ましてその偽物を足掛かりに帝位を狙ったりはしていないのだ。そういうことに、なったのだ。
(偉すぎる人は裁くことも難しいのね……)
陸高と言ったらしい詐欺師は、瑞海王に話を持ち掛けられたのだと主張したそうだ。上手く行けば帝位に登り、後宮の美姫を思いのままにできる、と。もちろん瑞海王のほうでは、相手のほうから偽の出自を打ち明けられたのだと突っぱねたけれど。
共謀者の裏切りを呪いながら、その男は刑場の露と消え、さらには九族に至るまで死を賜ったというのに。瑞海王の御子たちも、父の過ちを恥じて自ら庶人に落ちたというから、甘い処分ということもないのだろうけれど。ただ──王でもこの有り様なのだから、隼瓊や段叔叔が皇帝と皇后に対して沈黙を続けていたのも無理はなかったのだろう、と改めて思う。
「……私、楊奉御が皇族じゃなくて良かったと思うわ」
「仮定にしても畏れ多いことを口にするものだ」
しみじみと呟いた燦珠に、霜烈は軽く笑って答える。たとえ誰も聞いていなくても、戯れにも本当のことは口にできないと、ふたりとも承知しているのだ。
「陽春様も、きちんと祀っていただけて良かった、のよね? 驪珠も喜んでいるはずよね?」
あの詐欺師は、陽春皇子を殺したのは先帝と皇太后だ、とも喚いたらしい。
我が子を切り刻む化物どもの眷属が、どうしてたかが詐称を糾弾するのか、と。もちろん、自暴自棄による根拠のない妄言だと誰もが疑わなかったから、皇子がどのように切り刻まれたかまでは噂にも上っていない。
「ああ、そうだろうと思う」
霜烈が頷いたのは嘘ではない、と思いたかった。万寿閣を去る時の燦珠の言葉は、確かに伝わったのだ、と。それでも彼の表情を見通せているという自信が持てなくて、燦珠は馬面裙の下でもどかしく足をばたつかせた。
もう大丈夫だと心から思えれば良いのに、なぜか落ち着かないのだ。この後、皇帝の召喚を受けているから、だろうか。彼女と霜烈を名指しで呼ぶ理由には、心当たりが嫌というほど、ある。
「……天子様も怪しいと思っていらっしゃるのよね……? でも、隼瓊老師と決めた通りにお答えすれば良い、のよね?」
つまりは、《鶴鳴千年》を舞うように燦珠に依頼したのは隼瓊だ、と。陽春皇子が偽物だと確信し、許せないと考えたから、隠し持っていた驪珠の遺品を利用することを思いついた。
霜烈は黒子役として手伝っただけ。本物の陽春皇子は、きっと十五年前に事故で亡くなって見つからないままなのだ。だから、自らの死を願うはずもないし、そのために画策したりしないのだ。そういうことに、しておかなければ。
(大丈夫。私はちゃんと演じられるわ……?)
皇帝の追及さえ切り抜ければ、霜烈は霜烈として生きていける。その人生を、彼がどれだけ望んでいるかは分からないのだけど。少なくとも、陽春の名は完全に捨てられるはず。──でも、澄ました微笑の裏側が、まだ見えない。
「そなたはお褒めの御言葉を賜ることだろう」
「それはどうでも良いんだけど」
ばっさりと斬り捨てた燦珠に、霜烈はさすがに軽く目を瞠った。驚き以上の感情を引き出したくて、燦珠は単刀直入に踏み込むことにした。勇気をかき集めるために大きく息を吸って──言葉にする。
「これで、頼まれたことはできた、ことになるのよね? あの……貴方を死なせて欲しい、って」
「……ああ、そうだな。感謝している。心から」
不吉な言葉を恐る恐る口にすると、霜烈はやっとはっきり頷いてくれた。けれど、いつぞやの時のように跪いて欲しい訳ではなかったから、燦珠は激しく首を振って立ち上がりかけた彼を制した。
「そういうのは、良いから! それより、また唄って? ちゃんと、明るいところで打も見せて欲しいわ。御礼というなら、そういうことにはできないかしら?」
霜烈は先ほどよりも大きく目を見開いて、黒い瞳の色の深さを見せつけた。そうして、いかにもおかしそうに声を立てて、笑う。それだけで楽の調べになりそうな、耳に心地良い笑い声が新緑に響いた。
「そなたは本当にいつも変わらないな。……ずっと、そうであると良い」
真剣かつ切実なおねだりを笑われて、燦珠はむっと唇を尖らせた。何も彼女は目と耳の幸せのためだけに言っているのではない。これからの秘華園での日々に、霜烈も当たり前にいて欲しい。そう思うのは、そんなにおかしなことだろうか。
「……どうなの? 唄ってくれる? 舞でも良いけど……」
「この後すぐに、とはいかぬが、機会があれば、必ず」
やっと、はっきりとした言葉をもらえて、燦珠の声は弾んだ。きっと、顔には日が射したように笑みが浮かんでいることだろう。
「真的嗎!? ……もしも逃げたら、部屋まで行くからね……!?」
霜烈の住処は、もう分かっている。そして後宮において、翠牡丹を持った戯子から逃げることは難しい。
念を押すようにじっとりと睨むと、霜烈は実に晴れやかな──とても綺麗な笑顔を見せた。目を細めて、唇に弧を描かせて。そして、歌うように囁いた。
「好きにするが良い」
そして、彼は立ち上がった。皇帝は、今はまた後宮で休むようになっている。その寝殿たる渾天宮へ、彼女たちはこれから向かわなければならないのだ。




