8.皇帝、幕を下ろす
今日の濤佳殿は、皇帝への拝謁を求める人の群れで騒がしかった。翔雲が執務の場と定めた房間には収まり切らず、皇宮内の随所、この殿舎にも設けられた玉座の間に収容しなければならないほどに。
(よくもまあ色とりどりに揃ったものだな)
玉座から見下ろす者たちが纏う補子《記章》の多彩さに、翔雲は内心で苦く嗤った。彼の隣に控えた首輔も、苦々しげに顔を歪めている。
文官の錦鶏、孔雀、雲雀。武官の獅子に虎豹。およそ二品から四品の官吏に、華美な龍袍を纏った皇族も見える。──その筆頭は、瑞海王だ。この者たちは、陽春皇子に正当な地位を認めるよう、皇帝に請願しに集った、ということになっているらしい。地位も身分もある者がよくもこれだけ騙されているものだ。あるいは、騙されている振りをしているのか。
(腐敗は後宮に限ったことではないのだな)
秘華園を通しての贈収賄の倣いは外朝にも及んでいる。その悪習の維持を切望する者も多いのだろう。思えば当然のことを心に留めて、翔雲は切り出した。
「そなたたちの願いは分かっている。あの者は既にこの場に召した」
「ご英断、誠にもったいなくありがたく存じます」
言葉だけは恭しい瑞海王の声に、勝ち誇る響きがあるのがおかしかった。高官や、皇族までもを引き連れて、強情な若造を頷かせることに成功したとでも思っているのだろうか。
皇宮で衛士以外が武器を帯びることはできないが、濤佳殿は今、請願の者たちの麾下によって取り囲まれているとか。その者たちに一斉に詰め寄られたら無事では済まない、と──彼が考えるだろうと期待するのは勝手なこと、瑞海王のほうも焦りはあるのだろうが。
(そのような手口を通してなるものか)
皇帝を脅し、黒いものを白と言い繕うなど。栄和の国史に、彼の代で汚点を残す気は翔雲にはさらさらなかった。
「ちょうど、朕からあの者に会わせたい者がいたのだ」
「は……?」
敷物に額を擦りつけた瑞海王の背が、揺れた。顔を上げて彼の表情を窺い、真意を問いたいのに叶わないのはもどかしかろう。あの夜の梨燦珠たちの動きの目的でさえ、まだ掴みかねているのだろう。梁なる役者を乗せた早馬が、妨害もなく延康の都に辿り着けたのがその証拠だ。件の者は既に濤佳殿に匿い、ひと通りの話は聞いている。
「しばし、待て。すべてはあの者が参ってからだ」
色とりどりの袍が、不安によってかさざ波立つのを見下ろして、翔雲は薄く笑った。
ほどなくして、陽春皇子は金黄色の龍袍を纏って現れた。皇帝の子に相応しい装いを、皇太后が仕立てさせたのだと聞いている。最初は絹の衣装に慣れない風情だったのに、召し出す度に物怖じする気配が薄れていっている。その図々しさも腹立たしく忌々しいことこの上ない。
「従兄上──拝謁の栄誉を賜り、恐悦至極に存じます……!」
皇室の系譜を統括する礼部や、司法を担当する刑部の官吏に引き合わせられるのではないと承知しているのだろう、陽春皇子は朗らかかつ滑らかに翔雲の前に平伏した。瑞海王と並んで、諸官の推戴を受けるかのような位置を目敏く選んで。あるいは、あらかじめ言い交してあったのかもしれないが。
脅迫でも泣き落としでも、立場が認められれば勝ちだ、と考えているのだろう。王に封じられて領地を得れば、そこを足がかりに勢力を築ける。一度決めたことを覆すのは外聞が悪く、さらなる反発も呼ぶだろうから、と。まったくもってその通り。──だから、偽物の仮面は徹底的に剥ぎ取って叩き壊してやらなければ。
「よく参った」
例によって勝手に従兄弟呼ばわりされた不快感を隠して、翔雲は表面では鷹揚に頷いた。彼の挙動に、平伏した者たちの注意が集まっているのが、ぴりぴりとした緊張として感じられる。
「遠方からそなたを訪ねる客が現れたのでな。会わせてやろうと考えたのだ」
「は──?」
陽春皇子が間の抜けた声を上げたのは、翔雲の機嫌が良いのを不審に思ったのか、それとも客の正体を判じかねたのか。──どちらでも、どうでも良いことだ。彼の隣で、首輔が声高に呼ばわる。
「蘭田の梁雨文。入れ!」
その名を聞いた瞬間に、陽春皇子の喉から声にならない悲鳴が漏れた。平伏した諸官皇族らは、まだ気付いていないだろうが。だが、官位も爵位も帯びないただの庶人が皇宮にいることへの驚愕と動揺が、沈黙の中にも確かに広がっている。
梁雨文は、四十絡みの男だった。翔雲にとっては男の役者はかえってもの珍しいが、端整な容貌と真っ直ぐな背筋は、老若男女を問わず芝居を生業とする者には共通しているらしい。とにかく──遠方からの客が玉座の間近に叩頭するのを待って、翔雲は改めて口を開いた。
「蘭田の梁雨文。この場の者たちのために、生業とこの場にいる理由を申せ」
「は──」
何を命じるかはあらかじめ言い含めていたとはいえ、ただの平民が皇宮の絢爛と居並ぶ諸官皇族の威容に圧倒されないか、不安ではあった。だが、さすがに名の知れた役者は肚が据わっているのだろう。梁雨文は、朗々とした声で答えた。
「わたくしめは、蘭田で役者──主に生役を生業にしております。弟子を取ることもございますが、出奔した不肖の者が大それたことを企んでいると聞き及び、取り急ぎ駆けつけたものでございます」
平伏した者たちが上げるどよめきに被せて、翔雲は声を張り上げた。
「その不肖の弟子とやらは、そこの者で間違いないか? ──双方、顔を上げよ!」
皇帝の命に応えて、梁雨文は即座に身体を起こした。陽春皇子のほうは、数秒、躊躇ったが──命に背くのもまた罪になるとは心得ているのだろう。ゆっくりと、首だけを起こす。
「お前は……」
梁雨文の、嘆きと怒りに満ちた溜息が、面通しの結果を雄弁に語っていた。役者ならではの大音声が、玉座の間に響き渡る。
「陸高! まさかとは思っていたが、よくもこのようなことを……! 龍套《群舞》しか務めたことがない癖に、どうして天子を演じられると考えた!?」
「で、出鱈目だ! 従兄上は、私を陥れようとなさっている!」
師の糾弾に対して、陽春皇子──陸高なる詐欺師の抗弁は弱々しいものだった。正体を暴かれたからだけでなく、役者としての器の違いでもあるのだろうが。
「陽春殿下は、役者に身を窶しておられたのです! 師がいるのも当然、ご身分を明かせぬのも当然、陛下におかれましてはこの者に言い含めてくださいますよう……!」
瑞海王も、必死に抗弁を試みるが──
「陸高なる者を弟子に取った際の証文が、これだ。父の名も出身地も記載されている。皇族を騙った大罪人の身内だ、既に追手はかけている」
許しなく顔を上げ、発言までした無礼に、翔雲はさらなる証拠を突き付けて報いてやった。詐欺師ふたりの顔が紙の色に漂白されていくのを見て、近ごろの鬱憤がようやく少しだけ晴れる。後ろに額づいた者たちが平伏した姿勢が許す限りで目線を上げ、様子を窺おうとしているのも見てとれるが──こちらの無礼は、まあ大目に見てやろう。
「梁雨文の証言を疑うのであれば、蘭田の民をいくらでも皇宮に召し出そう。長年に渡って喝采を浴びた名優のことを、知らぬと言う者はおらぬであろうから。──その不肖の弟子について覚えている者がいるかは知らないが」
翔雲に睨め下ろされた陸高は、平伏というよりはもはや床に這いつくばった格好で、喚いた。
「俺は……私は! 文宗帝と喬驪珠の子だ! 義母上は信じてくださる! 義母上に、ひと言──」
蒼白になって震えながら、それでも最大の庇護者にすぐに思い当たる狡猾さはさすが、なのだろうか。とはいえ皇太后に口を挟ませると面倒になるのは分かり切っている。翔雲は有無を言わせず刑吏を呼ぼうとしたのだが──
「あ、あの。栴池宮──皇太后様より、陛下に取り急ぎのお願いがあるとのこと……なの、ですが」
歪んだ鞠のような体形の隗太監が、転がるように玉座の前に平伏したので、翔雲は舌打ちをした。皇太后が陽春皇子の不在に気付いて、また虐めているだの何だのと言われるのだろうと考えたのだ。皇太后の心証などもう構わないと決めてはいるが、老女の哀願を平伏する者たちに聞かせるのは、都合が悪い。
「後にせよ」
「いえ! 疎かにして良い御方ではございませぬ! 隗よ、皇太后様は何と……!?」
翔雲が短く吐き捨てたのに被せて、瑞海王が喜色に満ちた声を上げた。皇帝と皇族の間でおどおどと視線をさ迷わせることしばし──隗太監は、肥えた身体を投げ出し、床に口づけるような態勢で奏上した。
「陽春殿下の陵墓を建てるように、と……」
弱々しくくぐもった宦官の声が立ち消えた後、沈黙が降りた。誰もが声もなく表情も動かさず固まっている。顔を顰めて宦官を見下ろす翔雲も首輔も、険しい表情でかつての弟子を睨む梁雨文も。一筋の希望を見出した笑顔の瑞海王も陸高なる詐欺師も。いったい何を聞いたのか、誰も理解できなかったのだ。
(義母上が……陽春を諦めた、のか……?)
戸惑いの後に、翔雲はようやくそう了解した。陵墓は、言うまでもなく貴人の霊を安らがせるためのもの。陽春皇子を偽物と認め、死罪はやむを得ぬことと受け入れた上で、せめて丁重に弔えと言うことなのか、と。その上で、了承できることではとてもなかったが。
「馬鹿げたことを。大罪人の死体は埋葬を許さず打ち捨てるものだ」
「あの、いえ……そうではなく」
隗太監の顔から滴った汗が、敷物に染みを作っていることに気付いて翔雲は眉をいっそう顰めた。そもそもさして信頼していない宦官だが、重大事を扱う場に割って入ったことくらいは分かるだろうに。この歯切れの悪さは何ごとか。だが、翔雲が咎めるよりも隗太監が再び口を開く方が早かった。
「その、喬驪珠の幽鬼が現れて、我が子は死んでいると訴えたとのことで。そう……だから、安らかに眠らせて差し上げたい、と……」
聞けば、言いあぐねるのも当然の荒唐無稽な話ではあった。だが、だからこそ皇太后が言ったのだろう、と信じられる。裁きを妨げようとして思いつけることではないし──そもそも、隗太監は翔雲が帝位にあるのを疎んじているのだろうに。
どういう訳か、皇太后は突然に目を醒ましたのだ。愛した皇子を死んだと認めた。ならば、もはや偽物が顧みられるはずもない。
「私はまだ生きている! ここに、こうして! 義母上だけが頼りなのだぞ!? どうかひと目お会いして……そうすれば……っ!」
もはや陽春皇子の仮面を完全に剥ぎ取られた陸高という詐欺師の叫びは悲痛で、かつ虚しく愚かしかった。半ば正気を失った老女を惑わせて得られるものなど儚く脆い幻に過ぎぬと、初めから分かっていただろうに。今やその男は、卑しい宦官にも哀れまれるように首を振られるていどの存在でしかなかった。
「ひどくお嘆きで取り乱しておられるとのことで……誰にもお会いになりませんでしょう」
「馬鹿な……」
その呟きには、翔雲も心から同意するが。皇太后の思い違いさえなければここまでの大事にはならず、皇太后を憚っての手ぬるい取り調べにずっと歯噛みさせられてきたというのに。今になって突然目を醒まされても反応に困るというものだ。ただ──これで不快極まりない茶番劇に幕を下ろすことが、できる。
「この者は罪人として取り調べる。異存がある者は申し出よ」
徒労感に苛まれながらも問いかけると、平伏した者たちは無言で応じた。陸高と瑞海王に申し開きのしようがないのはもちろんのこと、ほかの者たちも保身の道を考えるのに忙しいだろうから。誰にどこまでの罪を問うか、落としどころを探るのはまた頭の痛いことになるだろう。
前途に待ち受ける面倒ごとを思って苛立つ翔雲は、心中で唸る。
(役者の幽鬼だと!? 馬鹿馬鹿しい……!)
そんな都合の良いことが起きるとは信じがたい。皇太后は何かを見間違えたに違いない。たいそう美しく、歌も舞も見事だったという稀代の役者──そんな存在を演じることができそうな者について、彼には重々心当たりがあった。




