7.燦珠、落ちる
闇に身を投げた燦珠の、逆さになった視界に霜烈の白い顔が浮かび上がる。目を見開いて、焦りと驚愕を露にした表情は、彼女が初めて見るものだ。それでも、一瞬の落下の合間にも見蕩れてしまうからつくづく尋常でない美貌だと思う。
(綺麗な人は、どんな表情でも綺麗……)
白鶴の衣装は、上層の舞台に脱ぎ落としてきた。そもそも、いくら神鳥を舞った後でも人が飛べるはずもない。それでも恐怖を感じることがなかったのは、霜烈を信じているからだ。あと、単純に綺麗な顔が迫ってくるのが嬉しかったから。腕を差し伸べる霜烈に応えて、彼女も手を伸ばし──
「────……っ」
全身を襲う衝撃に歯を食いしばりながら、燦珠はどうにか霜烈の腕の中に収まった。彼女の身体は中層の舞台に叩きつけられることなく、怪我もない──と、思う。
(良かった、上手く行った……!)
安堵して手足の力を抜いた燦珠の耳元を、霜烈の深い溜息がくすぐった。次いで、どこか非難がましい囁きが。
「そなたは……少しは、躊躇わないのか」
心の準備ができなかった、と言いたいらしいが、燦珠にも言い分がある。暗い中、しかもしっかりと抱え込まれてはろくに顔が見えないのは承知で、唇を尖らせてしまう。
「だって……あの流れで躊躇うの、変でしょ……?」
驪珠の幽鬼は、我が子を亡くした悲しみに暮れながら姿を消すのだから。ぐずぐずと観客の視界に居座っては格好がつかない。生身の人間かも──驪珠ではないかも、と疑わせる余地を作ってしまっては、大がかりな芝居を打った意味がなくなってしまう。
「……大丈夫?」
芝居、と言えば。霜烈も重要な黒子を務めていたのだった。ようやく思い出して、燦珠は恐る恐る、彼の顔を見ようと身体を捩った。
幽鬼の出現と消失の仕掛けは、月のない夜にしか通用しない、ごく単純なものだった。
万寿閣は三層の舞台を擁し、さらには上下の舞台を役者に行き来させる演出もできる。天界から冥界までを股にかけた大活劇──それを実現させるためには、当然、相応の機構がそもそも建物に備わっているのだ。
最上層の舞台の床は、昼間のうちに取り払っておいた。芝居中に舞台を替えることもあるから、人ひとりでも操作できる軽くて簡易な仕掛けになっているのだ。その上で、本来は縄を下げるために天井に設置された鈎針から、黒い幕を垂らしておいた。穴を隠しつつ、さらに中層の舞台まで届くように。
闇の中で幕の影に潜んでいたから、燦珠は──幽鬼は、突然現れたように見えただろう。そして登場した後は、うっかり足を踏み外さないよう、そして階下の皇太后たちに驪珠の姿を見せつけるよう、舞台の前面で唄い、舞った。そして演技が終わると、衣装を脱ぎ捨てながら黒い幕の裏側に回り込み、中層で待つ霜烈目掛けて飛び降りたのだ。
真っ当な華劇なら、布団なりを積み上げておくか、もっと大勢で待ち構えるかしていたのだろうけれど。この演目の痕跡はできる限り残してはならなかったし、極秘の計画ゆえに余人に漏らすことはできなかった。
……つまりは、霜烈はたったひとりで一階分の高さから落ちた燦珠を受け止めたことになる。口を利けたから大丈夫、と考えて良いのかどうか。燦珠を抱え込んで蹲るような格好のまま、黙り込んでいられると不安になってしまう。
(私……重くなかったかしら? 落ちた側でも結構痛かったのに……楊奉御は……?)
もう一度声を掛けるべきか、迷っていると──ばさり、という音と共に上からかさばるものが落ちる気配がした。様子を見に行く、という名目で万寿閣に登った隼瓊が、幕を落としたのだ。
皇太后たちのもとに報告に上がる前に、彼女は床の穴を元通りに塞ぎ、燦珠が残した白鶴の衣装と、置いておいた驪珠の翠牡丹を回収してくれることになっている。驪珠が亡くなって以来、行方不明になっていた──と思われていた──品々があれば、幽鬼にもより説得力が出るだろう。
「……なぜ、予定にない台詞を言った?」
やっと霜烈の声が聞けた、と思った瞬間、燦珠の視界はいっそう深い闇に包まれた。霜烈が、落ちて来た幕を彼女に頭から被せたのだ。白鶴を舞うために、燦珠は内衣まで純白で揃えていたから、闇の中だとどうしようもなく目立つのだ。それを隠すために、かつ証拠隠滅を兼ねて、燦珠はこれから黒い布にぐるぐる巻きにされて、荷物のように運ばれることになる。
相手の表情が窺えない心細さに瞬きながら、燦珠はそっと口を開いた。
「え、っと……ごめんなさい。勝手なことをして。驪珠は、あんなことを言わないかしら……?」
隼瓊と霜烈の予想では、皇太后はすぐに認めてくれるはず──内心では不審も募っているだろうし、驪珠への後ろめたさもあるだろう、ということだった。それが、思いがけずあの御方は強情で、しかもひどいことも言われたから、頭に血が上ってしまったのだ。地上では隼瓊が狼狽える気配もしたような。まして、実の子である霜烈にしてみれば、母を汚された気分になったかもしれない。
裁きを待つ罪人の思いで霜烈の反応を待っていると──ちょうど燦珠の手のあたりに、布の塊がぽんと置かれた。彼女が着てきた衣服と、化粧道具を纏めたものだ。彼女たちがここにいた痕跡は、何ひとつ残してはならないのだ。
持たされた荷物を燦珠が抱え込んだのを確認してか、霜烈は無言のまま彼女を抱き上げた。しっかりとした足取りに、やはり怪我はしていないようだという点では安心できた。けれど、彼の内心についてはそうはいかない。
(なんで何も言わないの……?)
怒っているのだろうか、と思うと、怖い。けれど、霜烈が階段を降り始める気配を感じると、もう口を開くことはできなかった。
役者や黒子が使う通路を通れば、皇太后たちの目には触れずに脱出できるのは確認済みだ。とはいえ、迂闊に口を開いて聞き咎められる危険を冒すことはできない。何より、灯りを携えることができない暗闇の中での道行きは、明るいうちに何度も通って段数や歩数を身体に刻んだ霜烈の記憶にかかっている。無駄口で彼の集中を乱す訳にもいかないのだ。
霜烈が再び言葉を紡いだのは、平らな場所を歩き始めてから、だった。万寿閣を抜け出て、搬出入用の隠し通路に入ったのだろうか。
「──あれで義母上が落ちたようだから、それは良い。なぜ、驪珠としてあのようなことを口にした?」
抱きかかえられていると、魂を直に撫でられるような美声が、とても近い。しかも身体に響く。身体と心臓が同時に跳ねるのを感じながら、燦珠は慌てて問い直した。
「……どの辺り?」
「すべてだ。見る者がいてこその役者だということ。我が子のために演じていたということ。《鶴鳴千年》を、私のために唄ったということ」
「よく覚えてるわね……」
一度聞いただけの台詞をすらすらと並べられて、燦珠は感嘆の溜息を吐いた。やはり、霜烈には役者の才があるとしか思えない。
(どうにかまた唄ったり舞ったりしてもらえないかしら……?)
おねだりの口実を真剣に検討しはじめていた燦珠は、けれど霜烈が続けた言葉を聞いて凍り付いた。
「義母上が常々仰っていたのだ。驪珠は華劇が第一だから、邪魔をしてはならない、と」
暗さと、彼女を包む幕のお陰で、霜烈の表情を見ることができなかったのは、良かったのかどうか。彼が過去を語る時、声はいつも平坦だ。けれど、今は微かに震えてはいないだろうか。深い悲しみや寂しさや、覚える必要がないはずの自責の念や罪悪感が聞こえるのは、気のせいだろうか。
「私はずっと、驪珠の時間を奪ったのだと考えていた。ただでさえ短い命だったのに、子を産むために──いや、だからこそ命を縮めたのではないか、と」
「……驪珠や隼瓊老師が、そんなこと言った……?」
そんなはずはない、と思いながら尋ねると、霜烈が首を振る気配が身体に伝わった。
「子供に言う方々ではない。こちらから聞けることでもない」
では、彼はずっと密かに恐ろしく悲しい疑いを心の中に抱えていたのだ。たったひとりで。
(皇太后様は本当にひどいことをなさったわ……)
「陽春皇子」を我が子だと言い張るあの御方の声を思い出して、燦珠は唇を噛んだ。尊い方にも、余人には計り知れない悩みや苦しみはあるのだろうけれど──でも、あまりに残酷だ。
「……皇太后様の仰りようがあんまりだったから、言い返したくなっちゃったんだけど。でも……私だけの台詞じゃないと、思う」
即興で紡いだ台詞は、決して間違ってはいないと思う。驪珠が本当に現れたとしても同じことを言ったはず。けれど、二十数年に渡って凝り固まった疑いを解くことが、小娘にできるだろうか。子を持ったこともない身で、上手く説明できるだろうか。
恐れながら、迷いながら──それでも燦珠は、必死に考えを纏め、言葉を選んだ。
「喜燕にも言ったんだけど。役者は、足が折れても喉が潰れても演じ続けるものよ。まして、子供ができるのは素敵なことじゃない。お腹が大きくなったって、唄うことはできる。時間を奪われたなんて、思うはずがない」
「そうだろうか」
案の定というか、霜烈は疑わしげに相槌を打った。懸命に訴えたのがまったく伝わっていないのを知って、燦珠はもどかしく手足をばたつかせた。たぶん、外から見たら黒い大きな芋虫が暴れているように見えたはずだ。
「そうよ! だって、芝居は客がいなければ成り立たないじゃない。爸爸も言ってたわ。千練不如一串──千回の鍛錬も一度の実演には及ばない、って!」
霜烈は、どうやら燦珠の父、梨詩牙を高く買っている節がある。名優の言を借りると、今度はさすがに反論がなかった。その隙に、燦珠は畳みかける。
「私も、秘華園でよく分かったもの。歌も舞も見てもらうためのものよ。見て、聞いて──感じてもらわないと。そうだ、お客が増えるんだから、子供ができるのはやっぱり素敵なことよ。そう思うことはできない?」
称賛を浴びて嬉しいのは、芸が認められたからだけではないだろう。自分のためだけではなくて。客の笑顔に、感動の溜息に、心を動かすことができたと分かるからだ。歌で、舞で。声で手足で眼差しで、夢を紡いで見せることができたなら。その相手が演じ手にとっても特別な存在なら、その喜びも格別のはず。──驪珠を演じた先ほどの燦珠は、たぶんそんなことが言いたかった。
「自分が演じた何もかもが、その子の『初めて』になるの。月を見ても花を見ても、自分のことを思い出してもらえたら──きっと、誇らしく思う。そうなるように頑張ろうと思う……と、思うわ……?」
霜烈がずいぶん長く黙っているから、燦珠はふと不安になった。遮られなかった代わり、相槌さえ聞こえてこない。彼は気を悪くしていないか、いったいどんな顔をしているのか。彼女たちは、いったいどの辺りにいるのだろう。万寿閣から十分に離れたなら、下ろしてもらったほうが良いのではないだろうか。
(そのほうが楽、よね……?)
運ばれている身で何を呑気に長々と喋っているのか、と思われている可能性に気付いて、燦珠は慌てて声を上げた。
「楊奉御! 私、もう歩け──」
「そなたは大役を果たしたのだから、休んでいると良い」
今宵の霜烈は、訳が分からなかった。ずっと何も言わなかったのに、口を開いたと思ったら言い切らせてもくれないなんて。彼女の言葉をどう受け止めたのか、納得したのか、それさえ教えてくれないなんて。
(何なのよ、もう……!)
少しだけ、面白くなくはあるけれど──でも、燦珠を抱える彼の腕に力がこもったのが答えだ、と思うことにした。否応なく彼の胸に頭を寄せる格好になれば、鼓動が速いのにも気付く。舞台が終わった以上は緊張や不安を感じる必要はないはずだから、喜んでいてくれるなら、良い。
(皇太后様は今ごろどうなさっているかしら……)
ごめんなさい、と。罅割れた老女の声が耳に蘇る。あの響きに嘘はなかったと思うけれど。だから、分かってくれたと思うけれど。──今宵の一幕の結果がどうなるかは、後は皇帝に委ねるだけだ。




