6.白鶴、悲哭する
万寿閣に白く佇む幽鬼──驪珠の言葉に、霓蓉は目を見開いた。ひどい思い違いを正さなければと思うと、自然、声は高くなる。
「何を言っているの!? 陽春は帰って来たのよ。栴池宮に、今も……!」
「あのような者を、私の子とお間違えになったのですか。陽春が無事に育ったとして、あのていどの者になるとでも……?」
「そなたにあの子の何が分かるの!? わたくしの子よ!」
驪珠が、陽春を我が子と呼ぶのが耐え難くて、霓蓉は沓で草を踏み躙って、叫んだ。大空を飛翔する白鶴の衣装そのままに、美しく軽やかに舞った驪珠と違って、彼女の老いた身体のなんと鈍重で見苦しいことだろう。でも、言わずに済ませることなどとうていできない。
陽春は美しい青年に成長して帰って来てくれた。怪我のことが心配だったけれど、無事だったと笑って首を振ってくれた。では、ひどいことは起きなかったのだ、と霓蓉は納得していた。夫が命じた恐ろしいことが実行に移される前に、あの子は身を隠すことができたのだと。
それに何より──陽春は、霓蓉を母と呼んで慕い敬ってくれた。かつてのように、実母や隼瓊を恋しがって彼女を困らせたり悲しませたりはしない。霓蓉の──彼女だけの、可愛い子。
「わたくしが育てたもの……そなたは華劇のことばかりで……だから、わたくしが!」
夫を亡くした后として、霓蓉は本来は哀家、と自称すべきだった。けれどその倣いを忘れるほどに、彼女は激昂していた。彼女の心は、十五年前に戻っていたのだ。可愛い子を抱き締める振りで、実母のほうへ駆け出して行かないように、必死に腕に閉じ込めていた、あのころに。
「霓蓉様……? 驪珠が、栴池宮の方について語っているのですか?」
「隼瓊! 驪珠に言ってあげて! 驪珠がひどいのよ。陽春が……死んで、しまったなんて……!」
いまだ幽鬼の声も姿も認めていないのか、首を傾げる隼瓊に縋って、霓蓉は訴えた。
侍女たちは、頼りにならなかった。高みから聞こえる死者の声に、縮み上がっては抱き合って震えるばかりで。あるいは、夫の御代での後宮の倣い通り、優れた役者に異を唱えることなど思いもよらないだろうか。
そして夫が死してなお、霓蓉の言葉が通ることはなかった。隼瓊は、冷たく、そしてあっさりと首を振ったのだ。
「実の母の言うことでございます。私ではなく霓蓉様に伝えたいのだとしたら、真実なのではございませんか? 驪珠に、間違いないのでしょうか」
「《鶴鳴千年》を唄って、舞ったのよ。驪珠以外にはあり得ない……」
隼瓊の深い声は、心を落ち着かせる作用がある。さらに宥めるように抱き留められて、霓蓉は渋々と認めた。十五年前の記憶と、見たばかりの舞を心の中で反芻すれば、ぴたりと重なる。あれほどの舞を見せられるのは、驪珠しかいない。けれど、それでも──
「でも、違うの! あの子は陽春に間違いないわ! そなたたちは忘れられてしまったから認められないだけよ……!」
傍らの隼瓊と頭上の驪珠を交互に睨んで、霓蓉は言い募った。陽春が死んでしまっただなんて、帰って来たのが偽物だなんて、許しがたい中傷だ。呪詛とさえ呼べる。いや、そうに違いない。幽鬼が性懲りもなく繰り返すのも、生者を惑わせるためだけだ。
「陽春は、死にました。亮堅様と霓蓉様がなさったことです。小さな子に、どうしてあのような惨いことを?」
「していない! あの子は無事だったのよ。そう言っていたもの!」
「それを申し上げた者は、陽春ではございません」
驪珠の幽鬼の声に、責める口調はなかった。ただ、深い悲しみが聞こえるだけで。でも、だからこそ霓蓉の胸に深く刺さった。それに、隼瓊や、十五年前を知らない侍女たちの目が、怖かった。驪珠を亡くした夫が、その子に何をしようとしたか──多くの者が眉を顰めることなのは、分かっていたから。
『陽春は驪珠の才を継いでいる。あの声が、歌が、男になって失われる前に──良い考えがある』
夫は、久しぶりに霓蓉と目を合わせて熱く語ってくれたのだ。それも、彼女の大事な子のことで。夫婦としてやっと心が重なった気がして、だから頷いてしまった。あの子の食事に薬を盛って眠らせた。でも、それは──母がすることだっただろうか。
「偽物の言葉を信じて、あの子を弔ってもくださらないなんて。だから私も休まることができずに、こうして彷徨い出たのです」
霓蓉が口を閉ざす間も、驪珠は悲しげな声で斬りつけるのを止めなかった。陽春が本当に死んでしまったなら、墓を建てることさえしないのは不憫ではあるだろう。でも──本当なら、の話だ。
「……嘘よ。そなたはあの子をわたくしから奪おうとしているだけ。亮堅様だけでは飽き足らずに、今になって……!」
隼瓊が目を大きく見開くのが、視界の端に見えた。薄暗い中でもはっきりと分かる眼差しの力強さが、実に妬ましい。驪珠も隼瓊も、美しくて凛々しくて、清々しいほどひたむきに歌舞を究める生を送っていた。だから霓蓉の裡に渦巻く醜さを、これまで吐露することはできなかった。
(思ってもいなかったのでしょう。皇后が役者と張り合うなんて。そんな、愚かしくて、身のほど知らずなこと……!)
身体ひとつで天上の美を描く最高の役者たちに、絹と玉と金銀で飾り立てただけの彼女が太刀打ちできるはずがない。口に出したところで、尊い身が卑賎の者を気に懸けるなど、と窘められるだけなのは分かっていた。
そしていっそう惨めな思いを味わうことになるのも分かっていたから、霓蓉は夫に倣って華劇に耽溺したのだ。歌も舞も芝居も美しくて楽しくて──彼女を苦しめる役者たちこそが、嫉妬を忘れる夢を紡いでくれたのだ。
「亮堅様の御心と、名誉と称賛だけで十分ではないの? 陽春はわたくしに譲りなさい! 望んだ子でもなかったでしょう!?」
生涯をかけて築き上げた夢の楼閣が崩れ落ちるのが恐ろしくて、霓蓉は悲鳴のように叫んだ。けれどそれはやはり幻に過ぎないのだろう、古の廃墟の壁が風雪に晒されて剥がれ落ちるように、覆い隠したはずの想いが記憶の奥底から姿を覗かせる。
夫が驪珠に働いた狼藉を、霓蓉は知っていながら黙認した。役者としての驪珠はあまりに眩しすぎたけれど、老いた皇后に代わって若い妃嬪が皇帝の寵を得るのはよくあること。だからまだ耐えられるかもしれないと思ったのだ。
けれど、陽春を産んだ後、驪珠はすぐに秘華園に戻った。本人の意向でもあり、夫の命令でもあった。たとえ皇后の位でも、驪珠には相応しくなかったのだ。彼女はあくまでも、役者でなければならなかった。夫が、そう望んだ。
霓蓉が育てることになった陽春は愛らしく、彼女の心を慰めてくれた。けれど、実の母に成り代わることはできなかった。驪珠との絆を夫が教えたのは当然のことだ。驪珠が我が子に会えるのは、歌や舞の褒美としてだけだったから。褒美になるていどには、母子の間に情がなければならなかったから。それは、つまり──
(……驪珠も陽春を愛していた……? あの可愛い子に会えなくて、どうして耐えられたの……?)
初めて過ぎった疑問は、なぜか不吉な予感を伴っていた。何か、気付いてはいけないことに気付いてしまったかのような。篝火が焚かれているのにひどく寒いのは、夜風に冷えたからか、幽鬼の技によるものなのか。それとも、罪を犯した者は後ろめたさを凍える寒さとして感じるのだろうか。
「私が──華劇のことばかりだったと、仰いましたか……?」
驪珠の澄んだ声が、確かに怒りを孕んで波立つのを聞いて、霓蓉は震えた。よろめく彼女を支えながら、隼瓊も叫ぶ。
「──珠、何を……!?」
隼瓊の声に滲んだ動揺に、霓蓉の恐怖は一段と深まった。先ほどまでは怪訝そうに首を傾けていたのに。今や、隼瓊は目を見開いて万寿閣を見上げている。幽鬼が恨んでいないはずの者にも届くということは──それだけ、死者の強い念がこめられた言葉ではないのか、と思えたから。
「見る者がいてこその芝居、見せる者がいてこその役者でございます……!」
強く言い切ると、驪珠は水袖を翻して速く回った。激昂を表してか、闇を切って閃く白い影の動きは鋭く激しい。響くのも、清らかな歌の声ではなく怒りと悲しみを湛えた叫びだった。
「私は、我が子のためにこそ唄い、舞いました! 母として接することはできずとも、だからこそこの手足で教えられることを教えようと。月も星も花も鳥も、喜びも悲しみも愛しさも……!」
言いながら、驪珠の手足は言葉通りの幻を生み出した。欠けては満ちる月、満天の星。蕾が綻んでは花が開き、舞い散る花弁を追って鳥が舞う。白一色の衣装が、翻るたびに花の赤にも空の青にも染まるかのよう。春を迎える喜びも、秋に覚える寂しさも、すべて、かつて驪珠が演じたものだ。母が子を抱き上げて世界に触れさせるのを、驪珠は歌舞を通して行っていたのだ。
霓蓉の目に映る驪珠は、もはやぼんやりとした白い塊だった。夫をして倫を踏み外させたほどの美が、涙に曇った目では見えない。けれど、声はまだ聞こえる。驪珠は、《鶴鳴千年》の一節をもう一度歌い上げた。
千年万年永永遠遠 この幸いが世々限りなく続くように
後宮中──否、都中に響くのではないかと思うほどの絶唱だった。美しく、けれど悲痛で絶望に満ちた。末永い幸福を願うその詞の通りにはならなかったのだと、問わずとも分かる。
声が途絶えた後も、驪珠は長く佇んでいた。翼を──腕を広げた白鶴の姿のまま。けれど、その両腕はやがて力なく垂れさがる。舞う時は誇らかに伸びていた背が萎れて、首もうなだれる。
「私は、亮堅様ではなく陽春のために千年の幸福を願ったのです。慶賀の意味を捻じ曲げるのは呪詛と同然の罪深いこと──命が尽きたのもそのためでしょう」
ほう、と零れた吐息が落ちたのを聞いた時、霓蓉はずしりと重いものを頭に乗せられた気がした。子を失った母の想いは、彼女にも分かる。驪珠の悲しみは真実のものだと、この声を聞けば分かってしまった。
「けれど罪を犯した甲斐もなかった。あの子は死んでしまった。だから私は悲しいのです」
「……驪珠。ごめんなさい」
霓蓉の目から、涙がこぼれ落ちた。彼女が愛した子供はもういないのだと、認めたからこその涙だった。少しだけ晴れた目で見つめる先で、驪珠はゆっくりと首を振る。意味するのは、許す、でも許さない、でもないだろう。何をしても何を言っても、我が子が戻る訳ではないのだから、と──ひたすらに悲しみと諦めだけを滲ませた仕草だった。
事実、白い影は悄然と肩を落としたまま背を向けた。もう二度と会えないのを予感して、霓蓉は震える声を張り上げた。
「待って、驪珠! わたくしは、そなたに──」
謝るべきことは幾らでもある。夫のこと、陽春のこと、彼女自身の振舞いについて。驪珠の死に悲嘆する夫を慰めながら、涙の影では密かに喜んでいたこと。
それに──それでも、やはり驪珠の舞をもっと見たかったし、唄って欲しかったということ。嫉妬や羨望だけでなく、哀惜の想いも確かにずっと持ち続けていたということ。
遅すぎるとしても、言わなければならないと思ったのに。
驪珠は、一度も振り返ることなく姿を消した。万寿閣は、星空を背景に静かに佇むばかり。けれど、夢などではなかったのは、地上に残された誰もが涙で頬を汚していることから、知れる。
「驪珠──」
「お待ちを! 御身がいらっしゃるのは危のうございます!」
「隼瓊……でも、驪珠が……!」
ふらふらと万寿閣に足を踏み出した霓蓉は、隼瓊の腕に止められた。抱えられる格好になると、隼瓊の鼓動も呼吸も早まっているのが分かる。旧い親友の幽鬼を目の当たりにして、冷静ではいられないのだろう。
「私が様子を見て参ります。そなたたちは、霓蓉様を頼む」
「え、ええ……」
「皇太后様、こちらへ──」
隼瓊の声に打たれたように、侍女たちは慌てて霓蓉の手を取って席に押し込めた。侍女たちに手を擦られ、上衣を着せられて初めて、身体が冷え切っていたことに気付く。慌てた彼女たちは、温めた酒を勧めてくれたけれど、霓蓉は断った。悲しみに凍てついた心を溶かすのに、酒精が何の役に立つだろう。
* * *
ほどなくして万寿閣から戻った隼瓊は、《鶴鳴千年》の真白い衣装と、一輪の翠牡丹を携えていた。翡翠の花に刻まれた文字は、霓蓉には間違えようのない夫の手跡で、三文字。──喬驪珠と。
驪珠は、確かに自らが現れたという証拠を残していったのだ。確かに死者と会ったのだと突き付けられて、その言葉を真実と認めた時。霓蓉は声高く哭いていた。




