5.幽鬼、星夜に唄う
万寿閣で星見の舞を献上したい、という宋隼瓊の進言を、霓蓉は快く容れた。
三十年に渡って格別の寵愛を注いだこの役者は、彼女にとって代えがたい存在だった。洗練を究めたその芸は、常に霓蓉を慰めてくれたものだ。
夫の寵が彼女以外の妃嬪に向いた時も、その女たちが子を儲けた時も。さらに、一応は夫の血を分けたその子たちが死んでいった時も。──喬驪珠が泉下に旅立った時も、彼女が遺した可愛らしく利発な子が、いなくなってしまった時も。
年齢も身分も位階も越えて苦楽を分け合った──いわば同士のような存在だからこそ、翠牡丹を使って栴池宮に参上した隼瓊に、霓蓉は鷹揚に微笑んだのだ。
『阿陽も連れて行きましょうか。きっと、懐かしいでしょう』
『いいえ。あの御方は、私のことを覚えていてくださっていないご様子ですから』
跪いて応えた隼瓊の整った顔に、伏せているからだけではない翳りが落ちていたこともまた、霓蓉の機嫌を上向かせた。
十五年振りに会えた彼女の愛し子は、実母の驪珠のことも、常にその傍らにいた隼瓊のこともほとんど覚えていないようだった。彼女の膝の上にしっかりと抱いてはいても、陽春は実母たちのほうへ身を乗り出したり手を振ったりして、霓蓉の胸を痛ませたものだ。でも──愛情がちゃんと伝わっていたなら、良かった。
『そなたの舞を見れば思い出すかもしれないのに……。でも、良いでしょう。賑やかなのは若い人に任せて、年寄りはのんびりしましょうか』
『御意』
栴池宮の近ごろの華やかさを、霓蓉は誇らしく好ましく捉えていた。どういう訳か渾天宮に居座っている知らない子は、陽春に辛く当たって彼女を憤らせるのだけれど──でも、多くの者は分かっているのだ。陽春は、近く必ず身分に相応しい扱いを受けられるようになるだろう。いずれは帝位に就くことさえあるかもしれない。皇帝と皇后の子なのだから、とても自然なことではないだろうか。
(万寿閣に行くのは久しぶりだわ。亮堅様が身罷られたのは……いつだったかしら……?)
夫の横顔を思い出そうとしても、霞みがかったようにぼんやりとして像を結ばなかった。横顔──そう、彼女たちが連れ添ったおよそ五十年というもの、霓蓉の夫君はほとんど常に華劇の絢爛さだけに視線を注いでいた。だから記憶が褪せるのも早いのだろう。
でも──仕方のないことだ。歌も舞も芝居の筋書きも、美しく楽しく心躍らせるものだから。華劇は、亡夫にも霓蓉にも等しく甘い夢を見せてくれた。憂いを忘れさせてくれた。
それだけで、十分だ。
* * *
万寿閣もその客席たる無憂閣も、しばらく人が入っていなかった。よって、夜に立ち入るのは危ういということで、隼瓊はふたつの楼閣の間の院子を舞台として整えていた。霓蓉と侍女たちの席を風除けの幕で覆い、地に延べた敷物の四隅に灯りを点す──たったそれだけの設えも、後宮の奢侈に倦んだ身にはかえって新鮮だった。
万寿閣の壮麗な装飾は、闇に沈むと千古の時を経た遺跡めいて興趣深い。虫除けに焚いた香は芳しく、桃か桜か海棠か、夜風に吹かれた白い花弁が篝火に舞うのが美しい。月のない夜だからこそ、小さな星のひと粒に至るまで、その冴え冴えとした灯りを惜しみなく地上に注いでくれる。微かな光を受けて、黄の瑠璃瓦の屋根は、砂金を湛えた深い淵のようにひそやかに輝いている。
そして、その星明りの下で舞うのは隼瓊なのだ。楽師は、霓蓉が信頼する京胡の奏者がひとりきり。けれど、隼瓊ならば打楽器の音などうるさいだけだろう。
「これほどに暗ければ粗も目立ちませんでしょう」
生涯に渡って研鑽を重ねた役者が悪戯っぽく言うのは、謙遜に過ぎないのを霓蓉はよく知っている。煌びやかな衣装や伴奏なしで演じたがる者がどれほどいるだろう。篝火が顔に落とす陰翳が、化粧よりもなお端整な容貌を惹き立て、艶を匂わせる者は? 今宵の隼瓊が纏うのは、緋色の衣装。炎に映えるその色が化けるのは龍か花か──霓蓉だけでなく、古参の侍女たちも年甲斐もなく浮き立っている。
「そなたならば舞う影だけでも美しいでしょう。──何を演じてくれるのかしら」
杯に注いだ甘い酒を舐めながら、霓蓉は促した。応えて、隼瓊は仮の舞台の中心で拝跪する。
「今宵は──」
けれど、隼瓊が演目を口にすることはできなかった。霓蓉の侍女のひとりが、高い悲鳴で役者の低く深く艶のある声を遮ったのだ。とんだ無粋を、と──彼女が咎める前に、けれどその侍女は腕を掲げて上を指さした。万寿閣の、最上層の舞台を。
「皇太后様! あれを……!」
万寿閣の三層の舞台は、上から順に天界、地上、冥界を表す。演目によって舞台を使い分けるし、時には上層の舞台の床を一部取り払って、縄で役者を吊り上げたり、飛び降りさせる演出もある。天地を縦横に駆け巡る大活劇に、夫も霓蓉も夢中になったものだ。
けれど、それはもう過去のこと。何か月か何年か──忘れてしまったけれど。夫が亡くなってから、万寿閣には楽の音が鳴り響くことおろか、人が立ち入ることさえなかったはずだ。
無人のはずの舞台、屋根に遮られて星明かりさえ届かぬ深い闇のただ中に、白い人影が佇んでいるのを見て取って、霓蓉の肌は粟立った。
「驪珠……?」
まさか。いや、彼女以外にあり得ない。相反する激しい感情が、霓蓉の老いた心臓を不穏に軋ませた。死者の霊が現れるとしたら、冥界の舞台ではないのか、と思うと同時に、驪珠なら常に天から舞い降りるだろうと容易に納得できる。
驪珠の舞はこの上なく軽やかだった。風に舞う花弁、春天に溶けながら降る淡雪、空を翔ける鳥の、青を透かす風切り羽根。演じ終われば人の姿をしているのが不思議なほど、息もすれば飲み食いもする肉体があるのが信じられないほど──まるで、仙境に住まう天女が、戯れに人界に遊びに来たかのような。だからきっと、夫は地に引きずりおろさなければと考えたのだ。
「幽鬼よ!」
「恐ろしい……!」
霓蓉が息を呑んで立ち竦む横で、漆黒の闇にも浮き上がる白い姿を認めて、侍女たちが口々に悲鳴を上げて抱き合っている。楽師も京胡を投げ出して震えている。慌てふためく人のざわめきで篝火が揺れる中──隼瓊だけが、平静な表情で首を傾けていた。
「どうなさいましたか、霓蓉様。万寿閣に、何か……?」
「隼瓊、だって……!」
確かに幽鬼が見えるはずの角度に首をもたげて、けれど隼瓊の目が凪いだままなのを目の当たりにして、霓蓉は言葉に詰まった。白い影は、今も微動だにせず彼女たちを見下ろしているというのに。
「驪珠がいるのよ! あそこに! 白鶴──《鶴鳴千年》の衣装で!」
もどかしく、手を振り回しながら言い募るうちに、霓蓉の確信は深まっていった。天界の舞台に佇む幽鬼、その衣装には確かに見覚えがある。
(そうだわ……あの時の驪珠よ……)
夫の六十の賀で、ひと際見事に舞った驪珠の姿が、その時の感動が蘇って、霓蓉の目の奥が痛んだ。
雲を掻き分けて舞い降りた、真白い鶴の舞い。美しい声で夫の治世の久しく安らかであることを祝い、祈った歌。驪珠の手足は、大きな鳥の翼に、長く優美な首や脚に化して翻り、しなり、天高く舞い上がった──と、見えた。紛うことなき神鳥が飛来したのだと、だから安寧も平穏も永久に続くだろうと、誰もが確信したのだろうに。
それから間もなくして驪珠は地上を去り、陽春は姿を隠し、夫は抜け殻のようになって残りの生を燻らせた。そして霓蓉自身も、また。そのすべてを間近で見てきた隼瓊だろうに──なのに幾つになっても美しい役者は心の底から不思議そうに首を振るのだ。
「私には、何も」
「そんな──」
「驪珠ならば私に姿を見せてくれぬなどあり得ぬこと。その……白鶴は、何か申しておりますか」
問われて、霓蓉は万寿閣を仰ぎ見た。すると、地上の人間の視線に応えるように、白い衣装の幽鬼はふわり、と手を持ち上げた。流れる水袖が、衣装に施された羽根飾りが、闇の中でおのずから輝くようだった。あるいは、洗練された動きそのものが光を放っているのだろうか。
ぴんと伸ばした指の先が、離れた距離でもはっきりと捉えられた気がした。白鶴が、長い嘴を天に向けて、高らかに歌うのを模した舞い。優雅に広げる大きな翼を表す動きは、決して早いものではない。けれどあらゆる瞬間が緊張に満ちている。傾けた首、眼差しの角度、捻った胴が描く曲線──身体のあらゆる部位を使って奏でる妙なる調べ。静謐な中にも聞こえる音があるのだと、その白い影の舞は見る者に教えていた。
「驪珠だわ……」
「何ということ……」
侍女たちの囁きが、潮騒のように夜の静寂を微かに乱した。霓蓉に古くから仕える者も、《鶴鳴千年》の舞台をよく覚えているのだ。地に頽れて祈りを捧げる格好の者がいるのは、幽鬼を恐れるからではないだろう。陽光の下でなくても、伴奏がなくとも、白鶴の舞はそれ自体だけで美しかった。神々しかった。見蕩れるに留まらない、ほとんど尊崇に近い感情の込められた視線を地上から集めておいて──白鶴は、静かに歌い始める。
九天戴日輪歓無極 輝かしい主君を戴いた皇宮では喜びが極まることなく
蒼生絶戦乱楽未央 戦乱が絶えた世では民の楽しみが尽きることがない
千年万年永永遠遠 この幸いが世々限りなく続くように
連連唱唱太平之歌 太平の歌を唄い継ぎましょう
楼閣から降る歌声を、侍女たちは天からの恩寵のようにひれ伏して受け止めている。十五年前のあの日と同じように。無憂閣の最上層は、舞台をわずかながら見下ろすようにできているけれど、天上の歌と舞を前にして頭が高いと、誰もが自然に頭を垂れたのだ。席に着いていたのは、夫と霓蓉と、彼女がしっかりと手を握っていた陽春だけだった。
けれど、今、すすり泣く声がそこここから聞こえるのは、歌舞の美しさゆえではない。白鶴の──驪珠の声は、慶賀の詞に似つかわしくなく憂いに満ちていた。夜空に高く響く声が聞く者の胸に呼び起こすのは、喜びではなく深い悲しみだった。それが不思議でならなくて、霓蓉は恐れも忘れて声を張り上げた。
「驪珠……そなたでしょう? どうしてそのように悲しい声で歌うの? 亮堅様の時のように、寿いではくれないの……!?」
驪珠は死してなお高く澄んだ声で唄うのに、彼女の声はなんとみっともなく聞き苦しく罅割れていることだろう。
(こんなことだから、亮堅様は……陽春も──)
訳の分からない悲しみに喉を塞がれて、霓蓉は侍女たちの列を離れ、万寿閣のほうへよろめいた。驪珠も彼女も、悲しむ理由などないはずだった。ほんのしばらく前までならまだしも、陽春が帰って来てくれたのだから。驪珠は笑って、霓蓉に我が子を託してくれるべきだ。なのになぜ、遥か高みから見下ろす眼差しが、深い悲嘆に満ちていると感じるのだろう。
「霓蓉様……」
驪珠の幽鬼の、ささやくような声でさえ、なぜかよく響いてはっきりと聞こえた。生きている存在ではないからか、それとも侍女たちも口を噤んで天界の舞台から降る声に聞き入っているからか。──驪珠は、わずかに下界へと身を乗り出して、首を大きく左右に振った。霓蓉が間近に見たこともある、白い羽根の飾りが闇の中で跳ねる──その残像に目を瞬く間に、いっそう切々とした声が地上の者たちに降り注ぐ。
「私は、我が子を悼んでいるのです。可哀想な陽春のこと、死んでしまったのに誰にも顧みられないあの子のことを……!」




