4.万寿閣、黄昏に燃ゆる
燦珠の父、梨詩牙は、梁という役者を連れて藍田の街を発ったそうだ。その役者は確かに「陽春皇子」と似た背格好の若者に教えたことがあるそうで、皇帝の玉璽が捺された詔書に慌てふためき、延康の都へと急ぎ上ってくれるとのことだった。
皇帝の権威によっていかなる関所も門を開くし、早馬も替え放題だから、数日のうちには梁氏は皇宮に到着するだろう。もちろん、彼が知るのが本当に「陽春皇子」かどうかは、面通しをしてみるまで分からないけれど。
(でも、もたもたしてると天子様が危ないから……香雪様も……)
燦珠にその情報を教えてくれたのは、香雪だった。あの夜以来、華麟の強い要望もあって警備は厳重になったけれど、翠牡丹の威光は変わらない。よって、少なくとも日中なら、これまでとさほど変わらず香雪の殿舎を訪ねることもできたのだ。
『貴女たちのお陰ね。ありがとう……』
そう言って微笑みながら、香雪の顔色はその名の通りに雪の色をしていた。初めて会った時よりもなお白く、消えてしまいそうで──毒殺を警戒しているという皇帝に倣って、自ら食を断っているのではないか、という気配さえした。
(華劇じゃお腹はいっぱいにならないし!)
気晴らしに歌や舞を見せたところで、香雪の顔色が良くなる訳ではないのがもどかしかった。
喜燕がまだ動けない今、ひとりでできる演目も限られてしまっているし。皇帝や香雪の身体のためにも、偽物を擁する一派に対策する余地を与えないためにも、事態の収拾は急がなければならない。梁という役者が到着し次第、皇帝はあの偽物を糾弾する席を設けるだろう。
だから──それに間に合わせるべく、燦珠は舞台に立たなければならない。
華劇の芸で政に介入すること、罪を暴くことは本来はできないけれど、演目と観客を選べば可能性はある。皇太后の甘い悪夢を醒めさせるのだ。「陽春皇子」が偽物だと認めていただけたなら、最大の庇護者を失わせることができたなら。皇帝にとって有利な風を吹かせることにもなるだろう。そう信じて、燦珠は密かに鍛錬を続けた。そして──
「ここまでとしよう。今夜と明日はゆっくりお休み。明日の夜に──万全の調子で臨めるように」
「は、はい……」
練習終わり、を告げる隼瓊の声に、燦珠はその場にしゃがみこんだ。今日だけの話ではない。本番までに振り付けや歌詞をさらえるのはこれで最後だ。
燦珠が演じる《鶴鳴千年》はあまりにも特別な演目だから、秘華園の中でちらりとでも人目に晒す訳にはいかない。これまでの練習も、人気のない一角に入り込んで行ってきていた。
信じがたいことに、燦珠が声を張り上げてもひたすら木々や築山に吸い込まれるだけという、人里離れた仙境さながらの庭園も、後宮にはあるのだ。あまりに人気がないから、夕暮れの気配を感じたらすぐに離れたほうが良いくらいだ。うっかり足を踏み外しでもしたら、真面目に遭難の恐れがあるから。
水袖がついた練習着を脱いで畳み、ほつれた髪を手櫛で直し。夕方の涼しい風が熱い頬を冷ますのを感じながら、燦珠は呟いた。
「皇太后様は、信じてくださるでしょうか……」
立ち上がって身づくろいするだけで、身体の節々がぴりぴりと痛んだ。練習を始めたばかりのころは、一日が終わると身動き取れなくなるほどの疲労と筋肉の痛みを覚えていたから、これでもだいぶマシになったけれど。
隼瓊や霜烈の指導に従って舞おうとすると、使ったことがない筋肉を使ったことがないように動かさなければならないのだ。指先の表情、腕の角度、首の傾け方、胴の使い方──これまでに収めた功夫は当然のこととして、さらにその一段も二段も上を要求されるかのよう。
でも、確かにそうすると舞の美しさも嫋やかさも格段に上がるのも、分かる。
(驪珠に直接習いたかったな……!)
こんな風に、急ごしらえで形だけ叩き込むのではなくて。生きた手本を前に、時間をかけて自身を磨いていくことができれば、良かった。歌と舞を通して亡き人の姿を捉えようとしても、あまりに眩しくて──その人がもういないという喪失を、彼女を演じることの困難を、何度でも思い知らされるのだ。
せめて安心できる言葉が欲しくて、問うたのだけれど。隼瓊の答えは冷静かつ慎重なものだった。
「暗い上に遠目だからな。《鶴鳴千年》の衣装と振付は覚えていてくださっているだろうから、まず驪珠と結び付けてくださるだろう」
「そうだと、良いです……」
距離と暗さと衣装に助けられて初めて、どうにか誤魔化せるだろう、くらいの練度らしい。驪珠という遥かな頂の高みと輝きを思うと、改めて目眩が燦珠を襲う。彼女の顔も強張っていたのだろう、隼瓊は少しだけ口元を緩めて微笑んでくれた。畳んだ練習着を抱えた燦珠の代わりに、灯篭に火を入れながら。
「歌と舞だけではない。台詞もあることだし、気負わぬことだ。……そちらのほうが重要なくらいかもしれない」
「はい」
《鶴鳴千年》で注意を惹き付けておいてから、驪珠として語るのが今回の舞台の目的だ。皇太后が還って来たと信じている息子は偽物で、本物はとうに死んでいるのだと。
言葉遣いや口調についても、本人を知る人たちが細やかに指導してくれているから、歌や舞をなぞるよりはまだ演じやすい、のかどうか。
いまだ表情が硬い燦珠を案じてか、隼瓊の微笑に苦い色が混ざる。端整な顔に翳りが過ぎるのは、傾きつつある日のためだけではないだろう。
「……私はずっと勇気がなかった。喜燕には徳の高きを求めておいて、口を閉ざしていた」
喜燕が足を折られても口を閉ざしていたのは、徳高くあらねば、と考えたからでもあったらしい。彼女を縛る言葉をかけていたのだと知った隼瓊は青褪めていた。後宮にあって常に正しくあることはとても難しい。この短い間でも嫌というほど知ってしまっていたから、燦珠は師を非難する気にはなれなかったけれど。
先帝が驪珠にしたこと。皇太后がその子に──霜烈にしたこと。間近に見て誰よりも心を痛めてきたのは隼瓊なのだろうから。
「文宗様にも霓蓉様にも御恩がある。けれど、驪珠と阿陽については話が別なのだ」
隼瓊は──それに驪珠も──、皇太后を名で呼ぶ名誉さえ許されていたのを、燦珠はこの間に初めて知った。燦珠や喜燕に対する香雪のように、星晶に対する華麟のように、役者を認めて尊重してくれていたのだとしたら、ますますどうしてあんなことができたのか分からない。あんな、母にとっても子にとってもひどくて可哀想なことを。どうして、というのは、まさに隼瓊がずっと問い続けてきたことに違いなかった。
「……あの者が現れた時に、あの御方が喜ばれるだけだったのが信じられなかった。大変に、驚いた」
「……はい」
おずおずと相槌を打ちながら、燦珠は悟る。隼瓊の憤りの理由は、偽物が「陽春皇子」を名乗っていることだけではない。皇太后が、可愛がっていた子を見分けられなかったこと、その子につけた取り返しのつかない傷を、すっかり忘れてしまっていたようにしか見えないことについても、偽物に対してと同じくらい怒っているのだろう。
(真っ先にごめんね、って言って……それから大丈夫だった、って聞くところだったわ……本当なら)
そうしないで、単純に再会を喜ぶことができるなんて──都合の悪いことは忘れる、という霜烈の評は、確かに当たっているのかもしれない。偽物を疑うことをしないのも、そうすれば過去の過ちをなかったことにできるから、ということなのかも。それなら、まずは都合の悪いことを思い出させて差し上げなければ。それこそが、燦珠の役どころだ。
「私は、あの方にせめて悪かったと思っていただきたい。若い者に重責を負わせるのは、大変に情けないことだが──どうか、頼む」
「はい……!」
隼瓊の鋭くも必死な眼差しを受けて、燦珠は三度目にしっかりと頷いた。その瞬間──ふたりの間に、黒い影が割って入る。巨大な鴉が舞い降りたかのようなその影は、黒衣を纏った霜烈だ。彼には、本番に備えて舞台の準備を整えてもらっていた。隼瓊が点した灯篭の灯りを見て、帰りの時間だと察したのだろう。
「お待たせいたしました」
「いいや。……首尾は?」
「仕掛としては整えました。危険ですので、事前に試すことはできないでしょうが」
今となってはなんの不思議もないことだけれど、彼は隼瓊に対してはとても礼儀正しく恭しい。秘華園の役者と皇子として、後には宦官として、ふたりはどのように接してきたのだろう。燦珠が思いを馳せていると、霜烈の目が燦珠を捉えた。ただでさえ深い色の目は、夕闇が迫る中で見るといっそう黒く、深い淵に誘われるような気持ちになる。
「明日は、明るいうちに十分に仕組みを見ておいたほうが良いと思う」
「ええ、そうね」
もちろん見蕩れている場合ではないから、燦珠は頷きながら視線を上げた。霜烈が現れたほう──明日、彼女が立つことになる舞台を改めて目に収めるために。
(三階建ての舞台を備えた大楼閣──いつか登ってみたいと思っていたけど、こんな形になるなんて)
彼女が見上げる先に、壮麗な楼閣が聳えている。
黄色の瑠璃瓦が、翡翠色に塗られた柱が。紅や碧で描かれ、あるいは彫られた種々の花や鳥獣が。夕日によって燃えるように赤く染まっている。翳り始め、炎の色に紫紺の色が忍びよる空を黒々とした影で切り取るその建物の名は、万寿閣。その影には、貴賓が観劇するための無憂閣が双子のように佇んでいる。後宮に建造された中でも最大の舞台となると、客席そのものがひとつの建物になるのだ。
万寿閣は、驪珠が《鶴鳴千年》を舞い唄った晴れがましい場所。先帝の御代の華やかさとは裏腹に、今上の御代では顧みられることがなくなっていた場所。──けれど、明日の夜には久方ぶりの芝居の幕が上がるのだろう。隼瓊が、皇太后を誘い出してくれることになっている。
(絶対に、成功させるのよ……!)
舞台そのものも演じる役も、かつてなく重く大きなもの。でも、潰されることなんて許されない。震えそうになる足を、俯きそうになる足を叱咤して、燦珠は万寿閣を睨め上げた。




