1.梨詩牙、咆哮する
延康の都の一角に、当代一の将軍役者として名高い梨詩牙の屋敷がある。
常ならば、屋敷は来客で賑やかなはずだった。梨詩牙の高名を慕って弟子入りを志願する者、出演の交渉に訪れる者。地方から役者仲間が訪ねてくることもあるし、裕福な芝居オタクが押しかけて贈り物と引き換えに一曲合わせてもらおうと懇願することもある。
だが、ここしばらくは梨家の屋敷はどこか活気に欠けている。弟子たちの鍛錬の声は響いても、彼らを圧倒するはずの詩牙の声に今ひとつ張りがないのだ。それに、近隣の住人の耳に馴染んだ少女の高い唄声が聞こえない。さらに言うなら、鍛えた役者の朗々とした声がぶつかり合う、派手な親子喧嘩が。
名優、梨詩牙の愛娘──娘ながらに男の役者顔負けの歌や舞の才を持つ燦珠という少女が姿を見せない理由については、まことしやかな噂が囁かれていた。曰く、口煩い父親に愛想を尽かせて、見目麗しい青年と手に手を取り合って駆け落ちしたらしい、と。
「でも、実際は秘華園から来た宦官だったんだろう? 駆け落ちでもないし、居場所も分かっている。そのうち顔を見せに帰って来ることもあるだろうに」
梨家の客庁で、主人の詩牙と向き合っているのは、青蘭という役者だった。女形──特に花旦として名高く、燦珠にも師として、身内の小父さんとして慕われている。だからこそ噂の実情も知っていて、気が抜けたような有り様の詩牙を冷やかしに訪れているのだ。
「忌々しいことに、顔が良いというところは合っています」
燦珠がたびたび市中で舞い唄った時に、衣装の手配や化粧を手伝ったのが青蘭だった。彼にとっても弟子で娘のようなものだから、腕試しをさせたい、とか何とか言って。そうして人目を集めた結果、要らぬ虫を引き寄せたのだと思うと、役者の先達とはいえ、詩牙が青蘭を見る目は恨みがましいものになる。当の青蘭は、涼しい顔で茶を啜っているのだが。
「燦珠は顔だけの男に靡くような娘じゃないさ。何しろ梨詩牙の顔を見慣れているのだから。要らぬ心配というものだよ」
「……声も良かったんですよ、とてつもなく」
先輩役者の慰めを、詩牙は頭を抱えながら呻くように退けた。
娘を言い包めて後宮に攫っていった、楊霜烈とかいう宦官の美貌と美声を思い出すと、彼は何度でも腸が煮えくり返る思いを味わう。
あんな顔であんな声で、若い娘が甘い言葉を囁かれたら逆らえないに決まっているのだ。特に彼の娘については、喜ばせる言葉を知っている男はほとんどいないのだから。
「おやまあ」
青蘭の同情を込めた呟きと眼差しが、父が把握する娘の気性は傍目にも間違っていないのだと教えていた。燦珠が顔だけの男に惹かれることはあり得ないが、声も良いとなると非常に怪しい。
(宦官の毒牙にかけさせるために大事に育てたんじゃないぞ……!)
霜烈という宦官は、自身の声の響きがどう聞こえるかを知り尽くしていたに違いない。絶妙な緩急と絶妙な抑揚で言葉巧みに誘われて、燦珠はあっさりと目を輝かせていた。娘が、初対面の男に気を許して笑みかけるのを見てしまった父親の、悔しさと腹立たしさは八つ当たりのような罵倒として詩牙の喉からあふれ出た。
「宦官は這いつくばって皇帝だの妃嬪だのの機嫌を窺うものなんじゃないのか!? どうして背が高い上に姿勢も良いんだ……!?」
「道化役ではなく二枚目役ということかな。見たかったねえ」
華劇を生業にする彼らは、何ごともそれに当てはめて考える癖がある。宦官と聞けば自然に道化役だな、と思うし、美形だと聞けばどんな役が似合うかで喩えようとする。詩牙にとっては仇敵のようなあの男は、というと──
「……いや、やらせるなら女形、それも姫君役でしょうな。燦珠では太刀打ちできそうにない色気があった……」
「ほう、それはますます見たい」
四十を越えてなお、青蘭が演じる花旦は初々しく可憐の極致と評判である。競争心を煽られたのか、舞台の上での役柄そのままに、優美な仕草で茶器を持ち上げながら、青蘭の目が興味深げに鋭く光る。
「──まあ、芸を仕込んでおいて舞台に出さないなんて無理な話だったんだ。さっさと秘華園に入れておけば良かったんじゃないのかね」
「秘華園が後宮にあるのでなければそうしていましたが!」
長く役者をやっていれば、王侯貴族や金持ちの横暴の例はうんざりするほど見聞きすることになる。青蘭からして、風邪を引いているところを舞台に引きずり出されて、肺炎にまで拗らせたことがあるというのに。嗄れた喉を回復させるのに、たいそう苦労したというのに。
「後宮など……妃嬪どもが足を引っ張り合う蠱毒の庭で……燦珠には絶対に合わないのに……!」
だから、娘が秘華園の存在を知ることがないよう、詩牙は役者仲間にも緘口令を敷いていたのだ。だが、まさにそのせいで、霜烈の誘いが燦珠に甘く響いたのも分かってしまう。
(あの時の話の持って行き方も良くなかった……が、どうしていれば良かったんだ……!?)
もはや取り返しのつかないこととは知っていても、詩牙は何度となく考えずにはいられなかった。そもそもの話で言うなら、娘に芸を仕込まなければ良かったということになるのだろうが──だが、燦珠の才を見ればそんなことは決して言えない。だから余計に困る。
「燦珠は利発な子だよ。わざわざ騒動には首を突っ込むまい。……というか、華劇のことしか頭にない子だから」
「そう願いたいものです」
素面にも関わらず、酔い潰れたように卓に突っ伏す詩牙に、青蘭は柔らかく笑ったようだった。
「梨詩牙の覇気がないのでは延康の都もつまらない。気付けに、私の薬湯を呑むかね?」
「結構です」
肺炎で損ねた喉を治すために、青蘭は薬の調合に凝っていた。楽屋で配られる特製の膏糖は役者の間でも評判が良い。だが、塞いだ心に効く薬などないのを、詩牙はもう承知している。あと、青蘭の薬は苦いのだ。
「ふむ、それは残念──」
「あの、詩牙老師!」
青蘭が溜息を吐いたところで、詩牙の弟子のひとりが客庁に顔を覗かせた。傷心の師の不機嫌ぶりに、屋敷の中の誰もが腫れものに障るような近ごろではあるが──それにしても、顔色が悪いし全身ががくがくと震えている。醜態の理由は、その弟子の背後から迫る、慌ただしくもいかにも権高で物々しい足音にあるのだろうか。顰めた顔を見合わせる詩牙と青蘭に、弟子が不躾な客の正体を囁く。
「あの……皇宮からの遣いということなんですが」
「皇宮……燦珠か!? あのお転婆が何かしでかしたのか!?」
詩牙が椅子を蹴立てて立ち上がり、吼えたまさにその時、豪奢な絹の刺繍の煌めきが客庁に閃いた。孔雀の補子は、いったい何品を示すものだったか──とにかく、帯びるのは輝かしい高官の地位にある者だと庶民たちに教えていた。
その官吏は客庁を睥睨し──屋敷の主人に目星をつけたようだった。
「華劇役者の梨詩牙であるな。そなたの名を見込んでの皇帝陛下直々のご命令である。謹んで拝命せよ」
「皇帝が、役者ふぜいに何を命じる? 本当に皇宮からだという証拠があるんだろうな」
皇帝の威光を笠に着た官吏の偉そうな態度に、詩牙は反射的に噛みついた。役者ひとりを欺くために、補子の偽造という罪を犯すことなど割に合わないだろう。だが、そうと分かっていても、今の彼にとって皇宮はまとめて娘を攫った敵だった。不敬を承知で、平伏もせずに横柄な客を睨んでいると──その官吏は、なぜか微笑した。
「……そう申すであろうと、そなたの娘からも書状を預かっている」
「何だと……」
燦珠に言及された驚きのあまり、詩牙は不覚にも官吏が差し出した書状を大人しく受け取ってしまった。広げれば、確かに彼の娘の奔放な筆跡が踊っている。我親愛的父親、という書き出しは良いとして──文字を追ううちに、詩牙の手は震え出す。芝居以外のことには関わらないだろう、という親の予想が、完全に甘いものであったことに気付いてしまったのだ。
(なぜ燦珠が皇帝と関わり合いになっている!? 後宮の一大事とやらに、なぜ役者の力が必要なんだ!?)
天子様はとても良い方だから、という一文を読むに及んで、詩牙は思わずよろめいていた。気分ひとつで庶民の首を飛ばせる存在に、どうしてこうも気安く言及できるのか。燦珠は何も分かっていないとしか思えなかった。
「あの……バカ娘が──!」
詩牙が腹の底から吼えた声は、屋敷を揺るがせた。娘が家を出て以来、本当に久しぶりに、名優・梨詩牙の本調子が復活したのだった。




