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【書籍1、2巻発売中】煌めく宝珠は後宮に舞う  作者: 悠井すみれ
第一部 七章 深更、安らぐ者のなく
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5.薔薇、棘に毒を孕む

 ちょう貴妃きひ瑛月えいげつは、咲き誇る薔薇しょうびを思わせる華やかで艶やかな美女だった。手足を縛られ、芋虫のように転がされた喜燕きえんを見下ろす今も、結った髪も白い肌も紅い唇も、一分の隙もなく美しく装っている。恐らくは、虜囚に威圧感を与えるために。薔薇には棘があるものだ。


陽春ようしゅん殿下は今が大事な時なのよ。分かるでしょう?」


 嫋々(じょうじょう)とした京胡きょうこの調べのように、瑛月の声の調子もゆるやかで優美なものだった。そのほうが喜燕の恐怖と不安を煽るのだと、たぶん彼女は知っているのだ。猫が鼠を甚振いたぶる時に全力を出さないのと、きっと似たようなことだ。


不逞ふていやからを近づけさせて、要らぬ疑いを招いては大変。しっかりと見守って後宮のならいを教えて差し上げなければと──わたくし、伯父様から仰せつかっているのよ。殿下に擦り寄る悪い虫は、しん昭儀しょうぎなのかしら。陛下のご寵愛を受けていながら節操のないこと……!」


 どこまでも美しく優雅なのに、喜燕の肌を、それこそ蠅でも這うような不快感が騒めかせるのが不思議だった。悪意に塗れた声は、響きの美しさに関わらず聞き苦しいものだと、喜燕は初めて知った。


(沈昭儀は貴女とは違う……!)


 瑛月の伯父とは、()()()()()()()()()と主張している瑞海ずいかい王だ。栴池せんち宮の饗宴を見て、喜燕たちが感じたことは間違っていなかったのだろう。


()()と趙貴妃様たちも一枚岩じゃない……あの人がほかの者と手を組むことを、この方たちも警戒している……)


 瑛月にとって教えて差し上げる、とは監視して行動を縛ることと同義だ。沈昭儀のもとに喜燕を送り込んで間者スパイに仕立てようとしたのと同じく、夜ごとの宴は()()()の勝手な行動を封じるためのものなのだ。


(馬鹿馬鹿しい。どちらにしても、悪人なのに……!)


 身動き取れない姿で捕らえられて囲まれて、見下ろされる状況は、怖い。けれど、沈昭儀をあて擦る瑛月のもの言いへの憤りが、喜燕に口を開く勇気を持たせてくれた。


「──栴池せんち宮の御方は、皇子殿下と決まった訳ではないと存じます。早まった判断をなさっては、瑞海ずいかい王殿下にも趙貴妃様にも不名誉になるかと……!」


 手が使えないから腹筋の力だけで上体を起こして、先ほど蹴られた腹の痛みに耐えながら。喜燕は精いっぱい瑛月を睨みつけた。


 ()()()もこの貴妃も、真っ赤な嘘を真実として語るから気持ち悪い。何百回繰り返しても、嘘は嘘のままだろうに。信じるのは哀れな皇太后くらい、従う者がいたとしても利害ゆえでしかないだろうに。


「そうねえ、陛下はご不安でしょうとも。文宗ぶんそう様の御子が生きていらっしゃったのですもの、本来ならばあの御方が玉座に登ることはなかった、ということになってしまうものね」


 そもそもの建前からして間違っているはずだ、と。喜燕の糾弾に、瑛月の軽やかな笑い声が応えた。まるで、皇帝が玉座を惜しんで()()()を認めようとしないのだと言わんばかりに。不当に貶められる皇子を、皇帝の敵意から庇護してやるのだとでも言いたげに。


 瑛月の頭の中では、()()()の行いは手ひどい裏切りであり許しがたい忘恩なのだろう。誰とも知れない役者崩れを皇子に仕立てて、大それた詐欺の片棒を担がせるのを恩と言うなら。


「陛下の御目があるからこそ、殿下には身を慎んでいただかなければならないのに。気鬱は、喜雨きう殿の役者が晴らして差し上げようと思ったのに。得体の知れない者を侍らせるなんて困った御方……!」


 くすくすと嗤いながら、瑛月は金糸の刺繍が彩るくつの爪先を上げて、喜燕の肩を軽く突いた。無理な姿勢で身体を起こしていた喜燕は、それだけで呆気なく倒れてしまう。傷の痛みに呻いた彼女の腹を、豪奢極まりないくつが容赦なく踏みつける。


「そなたたちは、何を聞いたの? 言われたの? わたくしに報告なさい。陛下の御為おんためにもなるでしょう。伯父様から叱っていただければ、殿下はおかしな真似はなさらないもの」


 それはつまり、()()()の独断専行を許さないということだろう。改めて瑞海王と趙家の管理下に置いた上で、皇帝が()()の立場を認めざるを得ないように追い込もうというのだ。先帝の御子、皇帝にとっても従兄弟にあたる方を冷遇するのは聞こえが悪いとか何とか言って。


 喜燕は、身体をよじってどうにか残酷な爪先から逃れようとした。痛いほどに首を上げて目を見開いて、かつての主に、もはや従うことはないのだと全身で伝える。


「沈昭儀様にお伝えします。あの方は、陛下に正しく伝えてくださいますから」


 ()()()の身元を暴くための、役者としての師の情報。あの男が星晶せいしょうに命じたこと。


 いずれも瑛月に知られてはならないことだ。後者については、仲間割れを誘えるのかもしれないけれど──でも、目的の相手はよう奉御ほうぎょなのだろうから。あの綺麗な人、燦珠さんじゅとも親しいらしい人を危険に晒す訳にはいかない。


(拷問……するなら、すれば良い)


 耐えられるかは分からなくても、少なくとも、燦珠か星晶せいしょうがしかるべき御方のもとに辿り着けるまでの時間稼ぎになれば良い。目を閉じて口を閉ざした喜燕の耳を、瑛月ではない女の鋭い声が鞭打った。


「趙家に育てられた恩を忘れたのか。妓楼に売られるか、飢えて死ぬほうが良かったとでも? 今のお前があるのは誰のおかげだと思っている?」


 こちらも、嫌というほど聞き覚えがある声だった。喜燕の華劇ファジュの師であるはく秀蘭しゅうらんも、この場にいたらしい。


(恩……恩だって?)


 秀蘭の声を聞くと瞬時にもの心ついてからこの方の記憶が蘇る。不打ブーダー不成材ブーチョンツァイ──叩かなければものにならない、が趙家の掟だった。叩いてものにならないのなら、その者が悪い。


 渾天こんてん宮に召された時に百人にひとりでも元が取れると述べたのは、残りの九十九人は売られたり下僕に落とされたりしたということだ。玲雀れいじゃくを陥れてまでそのひとりに残ったことを、かつての喜燕なら誇っていたかもしれない。でも──


(違う……!)


 燦珠さんじゅは、名高い役者の父に大切に育てられたという。母を早くに亡くしても、明るく可愛らしく芸も巧みな彼女は、きっと役者たちに愛されただろう。


 しゃ家に仕えていた、星晶せいしょうの背の高い父と美しい母は、自分たちに似た娘を喜んで主家に捧げたという。といっても親子は同じ屋敷の中に暮らしていたし、謝家のほうでも忠誠には篤く応えたのだとか。


 秘華園ひかえんの私室で聞いた友人たちの生い立ちは、喜燕のそれとは違い過ぎて羨ましいという感情さえ湧かなかった。ただ──違う世界があるのだということは、分かった。彼女が当たり前だと思っていた趙家の掟はいびつなものだったのだと。


「そなたは、望んで沈昭儀に仕えた訳ではないでしょう? あの花旦むすめやくの子に言われて、それに皇太后様の命令で逆らえなかっただけ。わたくしに乞えば、皇太后様に執り成してあげるわよ?」


 だから、瑛月の猫撫で声に、喜燕が心動かされることはない。


「……優れた役者は貴妃にも皇后にも勝るとの仰せでした。貴女様には燦珠の願いをくつがえす御力はありません」


 燦珠が褒美をねだったあの場に、喜燕もいたのだ。訳も分からないまま平伏して、隼瓊しゅんけいや皇太后の言葉を聞いていた。


 徳の高きは芸の高きにかず、と教えられたのもあの時のこと。正しいことを為さなければ、喜燕は役者ではいられない。だからこそ──旧主に対しても非があるなら正さなければ。


「それに──私は、沈昭儀様にお仕えできて嬉しく思っています! 清らかで優しい──正しい方だから。私に、得意を聞いてくださったから!」

「何ですって?」


 言われた意味が本気で分からなかったのだろう、首を傾げた瑛月に、喜燕は心から笑う。この御方は、主の器ではないと、自ら証明してくださった。


「貴女様は一度たりとも私の歌も舞も望まなかった。見ようとも聞こうともしなかった。そんな主を役者が望むとでも思っていらっしゃるのですか……!?」

「生意気な……!」


 叫んだのは、そして喜燕の頬を蹴ったのは、瑛月だったか秀蘭だったか。頭を思い切り床にぶつけて、視界が揺らいだ彼女には分からない。ただ──投げ出した右足首が何かに押さえられるのを、感じる。さやさやと優雅な衣擦れの音からして、瑛月に踏みつけられた、のだろうか。


「良いわ、それでは役者でいられなくしてあげる。足を折ればもう踊れないわね? ただのげじょになったそなたを、思う存分問い質すことにしましょう」


 瑛月は、喜燕に乗せた足に体重を込めた。華奢で、優美を極めた姫君といえども、全体重を乗せれば小娘の足を折ることはできるだろう。


「どうするの? 泣いて謝れば許してあげなくもないわ?」


 喜燕の顔に恐怖の色が広がるのを見て取ったのだろう、瑛月はこの上なく愉しそうに笑った。

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2025年1月24日 角川文庫より1、2巻同時発売!

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