3.秋霜、春光を覆う
いつの間にか、燦珠は椅子に座り直させられていた。衣擦れと椅子が軋む音に、霜烈も同じことをしたのだと分かる。霜烈──本当の名はそうではないと、聞かされたばかりなのだけれど。
(そんなこといきなり言われても──)
これまで馴染んできた呼び方や認識をすぐに変えることは難しい。ただ、思い当たることはあった。
「……皇太后様が阿陽、って仰っていたわ。隼瓊老師もそうだったのね……? 楊の、阿楊じゃなくて──」
阿、は子供の名につけて親しみを込めて呼ぶ時のものだ。姓にも、名の一字を取ってつけることもある。そして、陽と楊は同じ音だ。
隼瓊や段叔叔は、楊霜烈という宦官を呼んでいたのではなく、実は違う文字を想定していたのではないだろうか。
「そうだ」
霜烈は頷きながら、ふたつの箱に蓋をしてくれた。眩すぎる白い衣装と、眩すぎる名前を帯びた翠牡丹と。気持ちの上での光源が隠れたことで、ほんの少しだけ肩の力を抜いて彼の声を聞くことができるようになった。
「義母上だけでなく、親しい侍女や役者や宦官にはそう呼ばれていた。万が一呼び間違えても言い訳できるようにと姓を選んだのだ。名は……どうせなら真逆の意味にしようと考えた」
「どちらが似合っているかしら。分からないわ……」
何度見てもいまだに慣れない美貌を目の前に、燦珠は溜息混じりに呟いた。麗らかな春を名乗るには鋭い印象が勝るけれど、かといって凍てつく霜と呼ぶほど冷たくはない。油断できない人ではあるけれど、情も優しさもあるのをもう知っているから。
「陽春皇子は十五年も姿を見せていない。もう死んだのだろう。死者の名は騙られるべきではない」
けれど、霜烈自身にとっては悩む必要のないことらしい。陽春という名を紡ぐ口調はどこまでも冷めて、突き放したものだった。
(でも、貴方は生きてるじゃない!)
そんな言い方をするくらいならどうして明かしたのか、と。いまだ霜烈の真意が見えないもどかしさに、燦珠の声は少々ささくれて尖る。
「幽霊は華劇を見て喜んだり、唄ったりしないわ」
それは、かの喬驪珠の血を引いているからこそではないのか、と言いたかったのに。霜烈は面白い冗談を聞いたかのように、ふ、と口元を綻ばせた。
「そなたは、しそうだな」
「それは……そうかも、しれないけどっ」
例えば燦珠が今宵命を落としていたら、死んでも死にきれない、と思って化けて出ていたことだろう。観たい演目もやりたい演目もまだまだあるし、歌も舞も喉も手足も、まだまだ磨き上げられると分かっているのだから。
(でも、皇子様は違うの? 心残りなんて何もないの? どうして──)
どうして、死んだはずの皇子が宦官として生きているのか。自身の名を騙られても沈黙を守るのか。
(教えてくれるのは、そこじゃないの……!?)
燦珠の無言の詰問が届いたのか、霜烈の唇が引き結ばれた。彼は、この期に及んでも躊躇っていたのかもしれない。軽口を挟まなければ、とても口にできないような何かがあるのかも。
母の遺品を収めた箱に目を落とす霜烈の横顔に、どこか張り詰めた風情を感じて──彼が口を開くまで、燦珠は辛抱強く待った。
「……驪珠が亡くなった後、先帝は少しおかしくなったのだと思う。あの歌と舞を二度と見られぬとなれば無理もないが。だから私を宦官に仕立てようと思いついたらしい」
「なんで、そんなことになるの」
思う、だのらしい、だの。自分と自分の父親のことなのに、霜烈は人から聞いた話のように語った。でも、燦珠が焦れることはもうなかった。先を促す声も、ごく抑えた囁き声だ。
(我が子を傷つける親がいるの? それも、お母様を亡くしたばかりなのに?)
信じられない、と思う。当の本人にしても、思い出したくもないとか想像もしたくないとか考えるのも当然だろうと、分かってしまうのだ。それをあえて言わせてしまうのが苦しいくらいなのに。霜烈は表情を変えないまま軽く首を傾げるだけだった。
「私は驪珠に似ていたから。姿も、声も。だが、男は成長すれば変わってしまうから──だから、母親の名残を少しでも留めようとしたのではないかな」
そうだ。霜烈はとても綺麗なのだ。顔かたちや背丈ばかりでなく、白い滑らかな肌も、不思議な高さの涼やかな声も。燦珠だって何度も見蕩れたし聞き惚れた。
でも、それは取り返しのつかない深い傷と引き換えのもの。それを改めて突き付けられては霜烈の顔を直視することなどできなかった。でも、顔を伏せても、彼の声は容赦なく耳に入ってしまう。
「……食事をしていたら急に気が遠くなったのだ。薬を使われたのだろう。それで……気付いたら──」
「皇太后様は」
霜烈が言い淀む気配を感じると、聞きたくない、よりも言わなくて良い、の気持ちが勝った。だから、燦珠は強引に彼の言葉を遮った。
「……皇太后様は! 皇子様を可愛がっていたんでしょう。止めなかったの……!?」
「確かにたいそう可愛がっていただいた」
顔を上げて──そうして目に入った霜烈の笑みの冷ややかさに、燦珠はまた慌てて俯いた。それでも、低く笑う響きははっきりと聞こえる。鋭い刃でじわじわと切り裂くような、怖い響きの声。
夜の闇に刃を滑らせて、そこから何かどろりとしたものが滲み出てくるような気がして、燦珠は身体を強張らせる。霜烈の、魂を直にくすぐるような声の美しさは変わらないのに。口調も、ごく穏やかなものなのに。なぜか、その奥底にとても冷たくて恐ろしいものが潜んでいるのが聞こえてしまう。
「加冠して封土を賜れば、皇子は皇宮から出るものだ。当時は上の皇子がたも存命で、『陽春皇子』が帝位を得る見込みはなかった。……宮して役者に紛れ込ませれば、ずっと手元に置けるし帝位争いからも遠ざけられるとでも思われたのかな」
「……ひどいわ」
そんなひと言では足りないのは百も承知で、それでも燦珠は憤った。
先帝も皇太后も、とても勝手だ。小さい子供のことを、都合の良い人形だとしか思っていなかったかのよう。先帝にとっては美しく唄って踊る人形で、皇太后にとっては犬猫のように甘やかして愛玩するためだけの。彼は生きた人間なのに。母を思って悲しい時だったろうに。さぞ怖くて痛かっただろうに。
風のない水面のように表情を動かさない霜烈は、その時の思いなんて燦珠に窺わせはしなかったけれど。
「隼瓊老師や段叔叔もそう思ってくださった。だから傷が癒えて義母上のもとに戻される前に、救い出してくださったのだ」
先ほど見た、宦官たちの黒衣を思い出す。影のようにさざめいて、音もなく現れては去って行った男でも女でもない人たち。後宮に数知れずいて諸事をこなす彼らの協力があれば。隼瓊の翠牡丹があれば。きっと不可能ではなかったのだろう。
(でも、恐ろしいことだわ。見つかっていたらどうなっていたか……!)
本来は、皇子の誘拐に当たるのだろう。今回の事件とは種類が違っても、大罪に問われることは間違いないのに。
それでも隼瓊や宦官たちは、見過ごすことはできなかったのだ。霜烈と彼らの間の親しげな空気も、もはや何の不思議ではない。血の繋がった先帝や、母代わりの皇太后よりも、ずっとちゃんとした家族だったのだから。それはきっと、良いことだ。母を亡くした皇子様を、愛して育ててくれる人たちがいたなら。
残る、疑問は──
「皇太后様を、恨んでいるの? だから名乗り出てあげないの……? あの偽物の人、歌を聞いたけど素人にしては上手い、ていどだったわ! ……楊奉御が唄えば、絶対、誰にでも分かるのに!」
霜烈に比べればあの陽春皇子は案山子も同然だし、声も鶴と鴉ほどに雲泥の差があった。苦労して偽物の正体を探らなくても、ふたりを並べれば一目瞭然だろうに。燦珠たちの出る幕なんて、本当はなかったはずだ。
(──そうだ。あいつ……!)
と、陽春皇子の命令を思い出して燦珠ははっと顔を上げた。開け放した窓を憚って、声が大きくならないようにしながら、身を乗り出して霜烈のほうへ身を乗り出す。
「あの人、貴方を探してたわ。二十五、六の見た目の良い宦官って、そうよね!? どうして、貴方のことが知られてるのよ……!」




