2.霜烈、箱を開ける
霜烈が燦珠を導いたのは、宦官の宿舎と思しき建物だった。妃嬪の殿舎とは比べるべくもないのはもちろんのこと、秘華園の役者の部屋と比べてもさらに質素な佇まいだった。きっと婢たちの暮らしも似たり寄ったりなのだろう。後宮の華美を支える者たちの暮らしぶりを目の当たりにすると、燦珠の胸は後ろめたさに似た感情でちくちくと痛んだ。
深夜とあって、大方の宦官たちは眠りに就いているようだった。霜烈に目で命じられるまでもなく、燦珠は足音を殺して彼の後に続いて建物の──その中の一室に入る。灯りが点されて、中の様子が照らし出される。
(ここ、もしかして……)
霜烈の私室、なのだろう。室内にあるのは卓と椅子が二脚、隅に書物や筆記具を収めた棚があるくらい。ものの少なさからして、ほぼ寝起きするだけの場所なのかもしれない。たまには段叔叔とでも茶や酒を楽しんだりするのだろうか。
他人が生活している気配を確かに感じたから、不躾な目を向けないように、燦珠はできるだけ中空をぼんやりと見るように努めた。
と、木材が軋む音が耳に入って我に返る。音のほうへ目を向ければ、霜烈が窓を大きく開いていた。夜風を頬に感じながら、燦珠は彼に駆け寄る。
「どうして開けちゃうの? 誰かに聞かれたら──」
「……今の私が言うのもどうかと思うが」
霜烈が、じっとりとした眼差しで燦珠を見下ろした。白い頬に睫毛の濃い翳が落ちて、整った顔立ちがいっそう強調される。
「若い娘は用心深くあらねばならぬ。男の部屋にほいほいとついて行くなど、本来はもってのほかだ」
「でも」
「宦官だからと油断してはならない。その……乱暴狼藉にも、色々あるのだから」
「で、も! 私は誰にでもついて行く訳じゃないし、楊奉御は私にひどいことはしないでしょう……!?」
よく分からないけれど、どうやらお説教をされているらしい。抗議も聞かずに言い聞かせられる理不尽に燦珠が唇を尖らせると、霜烈は深々と溜息を吐いた。
「……私が落ち着かぬのだ。梨詩牙に顔向けできぬことはしたくない」
「パパが、どうかしたの……?」
「いや、何でもない」
形の良い唇からこぼれる溜息が、またひとつ。首を傾げる燦珠が見つめる先で、霜烈は諦めたように頭を振った。
「しばらく座って待っていておくれ。……ここに招くことになるとは思っていなかった。水くらいしか出せないが」
「私は、別に──」
良いのに、と言い終える前に、霜烈は続き部屋に姿を消した。そちらはどうやら寝室のようで──何だかいけないものを見てしまった気がするから、燦珠は慌てて口を噤んで目を逸らした。
* * *
ほどなくして、燦珠の目の前には水を湛えた器と、箱がふたつ、並んでいた。箱は、ひとつは両掌に収まるくらいの小さなもの。もうひとつは、衣装を収めていそうな大きくて平たいもの。霜烈が寝室から持ち出して来たのが、それだった。
(何だろう……教えてくれることに関係がある、のよね?)
霜烈の目が勧めるままに、器を口に運ぶと、ひんやりとした水が喉を滑り落ちていった。栴池宮で味わった緊張と、その後の疾走によって喉が乾いていたことにやっと気付く。……緊張は、これから何を聞かされるか分からないから、でもあるのだろうけれど。
「見てもらうのが一番早いと思うのだ」
「ええ……」
燦珠が神妙に頷くのを待ってから、霜烈は大きいほうの箱に手を掛けた。
蓋が除かれた瞬間に、室内の明るさが増した。
月を夜空から摘み取ったかのような、輝かしい眩さの源は、箱に収められた白い生地だった。艶やかな絹の生地には一点の染みもなく、全体を銀の刺繍と、これもまた白い羽根が飾っている。華劇の姫君役の衣装に見える。燦珠が纏う予定だった、鳳凰の意匠にも通じる雰囲気がある。白い、神鳥の衣装。
「これ──」
こんな衣装を使った演目の心当たりは、ひとつしかない。といっても燦珠は自身で見たことはなく、しかもこの十五年ほどは誰も舞ったことがないという。それは──
「《鶴鳴千年》の衣装だ」
燦珠が言いあぐねた名をさらりと告げて、霜烈はもうひとつ、小さいほうの箱を開けた。中に詰まった紙を開くと、見覚えのあるとろりとした艶の翠が覗く。
「そして、こちらが──母の、翠牡丹だ。隼瓊老師が、私に持たせてくださった」
先帝の御代では、特に優れた役者は翠牡丹にその名を刻むことを許されたのだという。隼瓊の翠牡丹に触らせてもらったという喜燕が、憧れの眼差しで語っていた。
霜烈の長い指が、翡翠の牡丹を取り出して燦珠の手に委ねてくれる。震える手で花弁の裏を検めると、確かに文字が刻まれている。
「喬、驪珠……」
その三文字を読み上げた瞬間、ひんやりとした翡翠が熱した炭のように熱く感じられた。跳ねるように──それでもこの上なく慎重に、輝かしい名を帯びた翠牡丹を箱に戻すと、燦珠は椅子から滑り落ちるようにして跪いた。卓上の白い衣装と翡翠の花を伏し拝む格好になった彼女の頭上に、霜烈の不思議そうな声が降ってくる。
「……何をしている?」
「あの……ええと、すごい方のものだから、畏れ多いというか有り難いというか……」
今宵だけでももう何度目になるのだろう、霜烈は呆れたように苦笑したようだった。衣擦れの音がして──彼も、燦珠のすぐそばに膝をつく。目線を合わせるためだろうか、底知れない深い色の目に間近に覗き込まれると、魂まで吸い込まれそうで息が苦しくなってしまう。
「その思いは嬉しいが、やはりそなたの反応は変わっているな……?」
「だって、喬驪珠よ!? 隼瓊老師も星晶も、謝貴妃様もあんなに……!」
皇帝や皇后をして絶賛させる、伝説の花旦。死してなお、長く語り継がれるほどの。秘華園で出会った人々が、口を揃えて惜しんでは憧れる人。燦珠たちを涙させるほどの歌を披露した霜烈をして、遠く及ばないと言わしめた──
「あの驪珠が……お母様?」
「そうだ」
遅ればせながらとんでもないことを聞いてしまったことに気付いて恐る恐る尋ねると、霜烈はごくあっさりと頷いた。そこを認めると、さらにもうひとつ、とんでもないことに気付かなくてはならなくなるというのに!
「じゃあ──」
それでも信じ難くて、言葉にするのは憚られて、燦珠は言葉を途切れさせてしまった。代わりに霜烈は、またもあっさりと頷いた。そして、他人のことについて語るかのような淡々とした口調で、呟く。
「十のころまでは陽春と呼ばれていたな」




