1.黒影、月下に舞う
燦珠の背に、複数の足音が迫っている。喜燕と星晶と別れて目くらましをしてもなお、これだ。小娘三人に、いったい何人の追手を狩り出しているのだろう。
(どこか、高いところに登れれば良いのに!)
後宮はいたるところに回廊が通り、庭園も高い壁で区切られている。壁を越えるなり、その上を走るなりできれば追手を撒くこともできそうなのに。市井の広場なんかとは違って、ここでは都合よく木箱だの樽だのがそこらに放置されてはいなかった。
「く……っ」
背後から伸びた腕を、燦珠は辛うじて地に転がって避けた。肩から転がり、その勢いを使って起き上がる──毯子功のひとつ、軟搶背だ。
敷物を敷いた舞台の上なら何でもない動作だけど、屋外でやると石が肩に食い込んで、痛い。それに、再び走り出す体勢を整える前に、ただでさえ暗い視界に濃い影が落ちる。立ち上がり切れていない燦珠の背に、追手が圧し掛かろうとしている。
(捕まる……!?)
歯噛みしながら身構え、ぎゅっと目を閉じた時──燦珠の傍らを、疾風が駆けた、と思った。え、と思って目を見開くと、彼女に手を伸ばしていたと思しき黒衣の宦官が、身体をのけぞらせていた。
それを為したのは、風の迅さで飛び出した影が放った掌底が顎に決まったから、らしい。燦珠が目を見開く間に、その影は身を翻して次の追手に対峙している。一瞬だけ見えた白い横顔は、燦珠もよく知る、そして栴池宮で思い浮かべたばかりの美しいもの。
(えっ、えっ、嘘……?)
霜烈が、どうしてここにいるのだろう。こんなにも見事な立ち回りを見せているのだろう。何も分からないまま、燦珠は闇の中で踊る影に見入った。
華劇の立ち回りの所作は、武術に由来するものも多い。名高い役者の中には、武人としても道を修める者もいるという。それは、燦珠も当然のように知っていたけれど。でも、武と同時に美を究めることができるなんて知らなかった。
霜烈の動きは、武術というより洗練を極めた流麗な舞だった。敵を叩きのめそうというよりは、手足を舞わせたその先に相手がいるかのような。舞の軌跡の先にいる無粋者が、勝手に倒れていくような──舞台の上での立ち回りのように、あらかじめ打ち合わせたはずは絶対にないのに、灯火に惹かれる羽虫のように、燦珠を追っていた者たちが次々と地に倒れ伏していく。
足を高く上げて振り下ろす正腿、足を跳ね上げながら回転する飛脚。手も腕も、一時も止まることも力むこともなく常にしなやかな軌跡を描いて踊り続ける。
闇を背景に黒衣で舞うから、目を凝らさなければならないのだけれど。黒の色調のわずかな違いが描き出す手足の線、翻っては斬るように流れる衣の裾の軌跡。暗中に時おり閃く白い手や頬や首筋は、白刃が煌めく様や花が舞い散るのを思わせて。何もかもが美しく、息をするのも瞬きをするのも惜しいと思わせる。
彼はきっと、燦珠を助けるために飛び出してくれたのだ。ほどなくして、追手のすべてが倒れたのは喜ぶべきことだ。
でも、真っ先に終わってしまった、と思うのはどうしてだろう。月の光の下で、音楽もなく演じられた舞を、いつまでも見ていたい、だなんて。
「楊奉御……」
倒れた者たちの呻き声を耳障りに思いながら、燦珠はよろよろと霜烈のほうへ足を踏み出した。客が舞台に上がるのは無作法極まりない。素晴らしい舞の余韻を自ら壊してしまうのはもったいないし畏れ多いし。でも、これは華劇の筋書きではない、はずだ。燦珠たちは陰謀を暴くための危険な策を続けている最中で、霜烈が現れたのもそれに関係しているに違いないのだから。
「……無事か?」
「え、ええ……」
燦珠を振り向いた霜烈の頬は微かに朱を帯び、呼吸も乱れているようだった。いつもは深い水を湛えた淵のように密やかに落ち着いた美貌の人だから、生きて血が通った気配を感じると何だか安心してしまう。そう、それに、彼には言いたいことが山ほどあった。まずは──
「今のもう一回やって! あ、できれば明るくて広いとこで!」
以前、《別久離》を唄ってもらった時と同じ調子で詰め寄ると、霜烈は苦笑した。
「そなたは、このような時でも変わらないな」
「だってすごく綺麗だったもの! もっとちゃんと見たいわ……!」
ほかに聞くべきことはあるのに、自身の欲求を最優先した自覚は、ある。呆れたように小さく溜息を吐かれて、燦珠の頬は熱くなる。
(でも、仕方ないじゃない! あんなのを見せられたら!)
「どうして今まで何も──」
霜烈の隠し事を詰ろうとした燦珠は、闇に溶け込むような影に囲まれているのに気付いて、身体を強張らせた。追手に加勢が現れたのだと思ったのだ。でも──宥めるようにそっと彼女の肩に触れてから、霜烈は闇を見透かすように首を巡らせ、静かに告げた。
「梨燦珠は私が保護する。この者たちは捕らえて、夜明けを待って渾天宮へ。あとは──謝貴妃と沈昭儀のもとにも遣いを。燦珠の無事を伝えるのと、ほかのふたりの安否も確かめねば」
闇のあちこちから、応、と答える密やかな声を聞いて、燦珠は目を見開いた。独特の高さの声、それに蠢く影の背格好からして、宦官たちなのだろう。彼らは霜烈に言われた通り、倒れた同輩──なのだろう、たぶん──を縛り上げ、また、何人かは遣いの役を果たしに去っていったようだった。まったくもって、迷いなく忠実な仕事ぶりだった。
(奉御は最下級の役職だって言ってたじゃない……!)
そして、霜烈の立ち居振る舞いには似つかわしくないと、ずっと思ってはいたのだ。けれど、宦官たちを意のままに操る姿をさらりと見せられて、どうして驚かずにいられるだろう。
だって、これは後宮と皇帝の進退に関わる陰謀のはず。それぞれ役目や立場や、本来の主がいるはずの宦官が、こうも一糸乱れぬ動きを見せるなんて信じがたい。貴妃である華麟でさえ、最初は傍観を決め込もうとしていたくらいなのに。
燦珠が絶句していると、宦官のひとりが小さく囁いた。
「そなたも、くれぐれも気を付けるのだぞ、阿楊」
「ああ。ありがとう、段叔叔」
霜烈が呼んだ名を聞いて、燦珠はようやく気付いた。あの、道化役めいたちょこまかとした動きの段叔叔もこの場にいたらしい、と。霜烈を案じる声音も、彼が返した率直な礼も、心がこもった温かなものだと聞こえたから、ほんの少しだけ気を緩めることができる。でも、本当に少しだけだ。燦珠は霜烈の白皙の横顔を見上げて、おずおずと問いかける。
「楊奉御……よね? ねえ。貴方って、誰なの……? あの──」
見目の良い宦官を探せ、と。陽春皇子が言っていたのは、やはりこの人のことだとしか思えない。でも、たとえ周囲に人気がなくても、こんな吹きさらしの場所で口にできることではなかった。
それに──はっきりと尋ねてしまったら、彼の秘密を暴いてしまったら。これまで見知ったと思っていた霜烈という人が、消えてなくなってしまうかもしれない。そんな埒もない不安が、燦珠の舌を凍らせた。
「これから教える」
彼女の恐れをあやすかのように、霜烈は微かに笑みを浮かべた。嫦娥もかくやの美貌は、けれど今宵は新月を思わせて翳っているのはどうしてだろう。
「……そなたにしか言えぬのだ。隼瓊老師にお願いしようと思っていたが、今宵のことがあって良かったのかどうか……」
ああ、そうか、と。霜烈が言い訳のように呟くのを聞くうちに、燦珠は気付く。彼も恐れているのだろう。何かは分からないけれど、教えた後で彼女がどう反応するのかを。それだけの秘密を、彼は打ち明けようとしてくれている。
「ついて来ておくれ」
今はこれ以上は何も聞かない。──聞けない。だから、燦珠は唇を結んで霜烈の背に従った。




