5.皇帝、下問する
皇宮の奥にあってもっとも豪奢かつ荘重な建物──渾天宮は、深夜になっても灯りが絶えていなかった。これが戯迷を通り越して芝居狂いと名高い先帝、文宗の御代であったなら、秘華園の役者を召して後宮の寵妃と共に唄や踊りや芝居を愉しんでいたことだろう。だが、即位したばかりの今上帝は、あいにくそのような娯楽、あるいは無駄とは縁がなかった。
今上帝──翔雲は、書類の山をひとつ片付けたところで一度、筆を置いた。彼が息を吐いた隙を見計らったように、煎じた薬茶の香りがふわりと室内に漂った。連日連夜の激務に没頭する皇帝を慮って、休息を促しに参じた者がいるらしい。
「陛下──お疲れのご様子でございますな」
影のような黒衣を纏い、茶器を乗せた銀盆を器用に頭上に掲げたその男は、司礼監の長──太監を務める隗長平という。男の形で後宮にいるところから明らかなように、男としての機能を斬り落とした宦官である。
ゆえに、本来は男と呼んで良いかどうか微妙なところではある。さらに言うなら、殊勝げに皇帝を敬い気遣う態から忠臣と呼ぶのも早計かもしれない。
「太監自ら給仕とは。ご苦労なことだな……?」
「もったいない御言葉でございます。奴才は陛下の手足でございますれば」
確かに隗長平を重職である太監に任じたのは翔雲だから、忠誠心を期待することもできなくはない。だが、先任の太監は先帝の崩御に伴ってその職を辞したため、隗長平は空いた地位にほぼ自動的に昇格しただけなのだ。
翔雲自身がこの男の人柄や能力を吟味する機会はほぼなかった──というか、先帝の放逸を止めなかったのを踏まえれば、隗長平を見る目は自然と厳しくなる。隙あらば更迭してやろうという意思は恐らく相手にも伝わっているから、彼我の間に漂う空気は探り合うような冷ややかなものになっていた。
「ご精勤はまことに頼もしくはございますが、度を越してはお身体にも障りがございましょう。たまには秘華園に遊ばれるのも良い息抜きになるかと存じますが」
「秘華園か……」
ほら来た、と思いながら、翔雲は薬茶を口に運んだ。隗長平との関係は、毒殺を警戒するほどには冷え切っていない。少なくとも、今のところは。
宮内で湯を沸かしたのだろう、薬茶はまだ温かくて強張った神経をほぐしてくれるし、苦みやえぐみは花の香りと蜂蜜の甘味で和らげられて呑みやすい。とはいえ、隗太監が切り出した話は彼の心を逆撫でるものでしかないのだが。
先回りで皇帝の勘気を和らげようというのだろうか、隗太監は大仰に身体を床に投げ出してへりくだる姿勢を見せた。が、口を止める気配はない。
「無論、陛下の時は黄金にもまして貴いものでございます。一幕すべてのご天覧が叶わぬならば──そう、近々役者の選抜試験がございますな。妃嬪がたやご実家が選りすぐった娘が競う様はきっと見ごたえがあるものと──」
太監を平伏させたまま、翔雲はしばらく指先で卓を叩いた。
(役者の、選抜試験だと? 科挙でもあるまいに、皇帝の臨席が必要なはずはあるまいに)
彼は、先帝の実子ではない。秘華園を開いた戯迷こと仁宗帝の後継者、成宗の孫に当たる。先帝の死がいよいよ近いとなった時に適齢の皇族の中から選ばれ、皇太子として喪礼を執り行い、伯父にあたる先帝のために哭き、その遺骸の口に玉蝉を含ませた。
ゆえに皇族とはいえ皇宮に住まったことはなく、女だけの華劇の舞台とやらにも無縁だった。先帝の崩御の後、晴れて玉座を得た彼は、この数十年の間に秘華園に注ぎ込まれた金額を見て仰天した。
(ただでさえ後宮の妃嬪の数は大きすぎるというのに……その上、閨に侍る訳でもない女たちを抱えるのはどういうことだ?)
栄和国の財政は決して余裕がある訳ではない。むしろ逼迫している。過分に豪奢な舞台装置や衣装、役者に与える豪邸や褒美──先帝の芝居狂も確実にその一因であろう。
後宮に明るくない翔雲にもひと目で分かることだというのに、数多の妃嬪も官吏も宦官も、口を揃えて皇帝の権威のためには必要なことだと主張するのが彼には信じがたいことだった。
「あえて秘華園を置く意味はいずこにある? 申し述べてみよ」
「ははっ」
この際、連中の言い分を吐き出させてみよう、と。隗太監に命じてみると、肥えた体躯が震えて喜びを表した。生意気な若造を説得する好機とでも思ったのだろうか。
「第一に──古来、後宮とは女の欲望が渦巻くものでございました。妃嬪同士の諍いばかりでなく、畏れ多くも皇子や公主、時には皇帝さえもが嫉妬の毒に晒された例は枚挙にいとまがございません。その点、秘華園があれば、妃嬪は役者を通して争います。技の研鑽は役者の本分でございますから、競争の在り方としては健全と申せましょう」
「健全な争い、だと? ならば先帝の皇子が誰ひとりいないなどということにはなるまいに」
「第二に」
隗大監は、皇帝の言葉が聞こえなかったことにするという非礼を犯した。が、翔雲はあえて咎めない。相手の耳に痛いことを呟いたのは承知しているから、どう言い訳するか挽回するか見定めてやろう、という肚だった。
「皇宮にあっては市井の暮らしを知ることは難しゅうございます。役者とは各地を旅してその風俗や事情にも通じるものでございますから、身近に接することで皇族がたや妃嬪がたの見聞を広げ、民心を知ることができましょう」
「秘華園を開いた仁宗の御代であれば、あるいはそれも通ったかもしれぬ。だが、今では貴族の諸家は独自に邸内で役者を養成しているとか。高い塀の内で過ごし、豪奢な衣装に身を包み、土を踏んだこともない者が下々の生活について語る言葉は持つまいな」
「……第三に」
隗大監の忍耐力だか面の皮だかは順調に擦り切れているようで、今度は翔雲の反論を流すまでに少々の時間を要した。
「芝居とは軽佻浮薄ではございます。宸襟を拝察する非礼をご寛恕いただければ、陛下の思し召しの通りと存じます。つまりは、言葉を変えれば分かりやすく面白い──恐れながら、御身のように書を一読して十を知る才知は稀でございます。御幼少の皇子がたなどは、芝居を通して歴史に親しみ、道徳を学ぶことも肝要かと存じます」
「今の皇宮に幼少の皇族はおらぬはずだが。それに──」
聞き飽きた類の追従に心を動かすことなく、翔雲は冷静に指摘した。
「先日、趙貴妃が抱える戯班が、皇太后に一幕献じていたな? その題名と筋を申せ」
「…………」
「どうした? 太監が知らぬはずもあるまい?」
隗長平は、書に埋もれた新皇帝は後宮について何も知らぬとでも思っていたのだろうか。
(ならば舐められたものだな……!)
後宮の──ひいては宮廷の、国の将来を憂える本当の忠臣は、翔雲に期待を寄せてくれている。彼の意志に反した後宮の華美や退廃について、注進に及ぶ者もいるということだ。
翔雲の促す視線を感じてか、隗太監は渋々ながら、といった様子で口を開いた。
「……《掲露狐精》──美女に化けた狐の精を酔わせて正体を暴く、というものであったかと……」
「朕が子を儲けたとして、好んで見せたいものではないな」
無論、場末の見せ物ではないのだから、華劇で役者が肌を見せることはない。だが、件の演目は、狐が化けた美女が酔い潰れる様を演じる舞がたいそうしなやかで艶めかしく色めいて、伴奏の弦の調べも煽情的だったと聞いている。
「恐れ入ります……」
「庶民の娯楽を取り締まる気はないが、皇宮で嗜むものとしては品位が足りぬのではないか?」
ひと回り小さくなった気がする隗太監を見下ろして、翔雲はわずかに口元を緩めた。宦官ひとりを言い負かしたところでさほどの意味はないが、敵の論陣がこのていどならば理を持って押し通すことも可能であろうと思えたのだ。だが──
「ですが、恐れながら」
言葉とは裏腹に恐れ知らずに、隗太監はまだ皇帝に抗弁した。不敬と承知してはいるのだろう、額を床に擦りつけて、自らの衣服で床掃除せんばかりの体勢だ。そこまでしてなお、この宦官は翔雲にもの申そうとしている。
「妃嬪様がたの意識を一朝一夕に変えることは難しいと存じます。四貴妃はそれぞれ戯班を抱え、嬪は少なくともひとり以上の役者を戯班に献じる、それが仁宗帝以来の伝統でございます……!」
「たかだか百年弱のことだ。それほど重要な伝統か?」
敬うべき祖とはいえ、百年近く前の戯迷《芝居オタク》のために、どうして当代の皇帝たる彼が無駄な出費を容認せねばならぬのか。妃嬪に与える手当には、現状、お抱えの役者を養うための費用も加味されている。体面を保つために必要な費用があるのは理解するが、役者が妃嬪の食事や衣装や化粧道具と同等の必需品とは信じがたい。
「次の試験は、沈昭儀様付きの役者を選ぶためのものでもございます! 陛下のご寵愛を受けながら抱えの役者がいなくては、昭儀様もほかの妃嬪様がたの間で肩身が狭いことと存じます……!」
宦官風情が何を叫んでも、翔雲の考えは変わらない。だが、挙げられた名は、彼としても聞き捨てられないものではあった。
沈香雪。
現在の後宮において、ただひとり、翔雲が自身の意思で召した女だ。
実家を憚ったからでも、後見人に推されたからでもなく。清楚な美貌に浮かべる控えめな微笑みと優しげな眼差し、見識高い官吏である父に教えられたという教養滲む受け答えが気に入った。だから傍に置きやすいように昭儀の地位を与えた。
一定以上の位の妃嬪にはお抱えの役者がいなければならないなどという訳の分からない伝統は、その後で教えられた。
(あの者を後宮の風に染めたくはないというのに……!)
「くだらん。実にくだらんな」
苛立ちのままに吐き捨てる。だが、先ほど隗太監が述べた通り、後宮とは女の嫉妬が渦巻く毒の園だ。昭儀への抜擢で、ただでさえ香雪は後宮の注目を集めてしまっている、のだろう。この上、ほかの女たちから攻撃する口実を与えるのは確かに好ましいことではない。
「陛下、何卒──」
「……香雪を困らせることは本意ではないな。善処する」
「御意。沈昭儀もさぞ安心なされることでしょう……!」
翔雲が唸るように告げたのを聞いて、隗太監はあからさまに安堵した風を見せた。縮みあがっていた身体も緩んで、脂肪がぷるんと揺れた気がする。
一仕事終えた気になったらしい宦官が退出すると、翔雲はまた新たな書類の山に取り掛かった。墨痕も鮮やかに筆を振るいながら、心の中で彼は吼える。
(役者の選抜だと? 勅命で全員落とせば良いのだ。皇帝の意向となれば皆、黙るだろう……!)