5.星晶、傾国の微笑
「わたくし、殿下にお目にかかれて大変光栄に思っておりますの……!」
陽春皇子の顔を上目遣いに覗き込んで、星晶は蕩けるような笑みを浮かべた。
立てば、皇子との背丈の差は頭半分あるかどうか、くらいだろうに、もっと小柄な少女のように振る舞えるのは、隼瓊の指導の賜物だった。女だけで男女を演じ分ける秘華園において、女役が本来以上に小柄に見せる技は色々あるということで、燦珠や喜燕もたいへん参考になった。
もちろん、客の目に違和感を覚えせないための技術だから、陽春皇子は何も気付かず、ごく単純に間近に輝く美姫の微笑に相好を崩した。
「そうなのか? そなたに気付かぬとは従兄上も見る目がなくていらっしゃるな」
皇帝と陽春皇子とは、同い年の従兄弟に当たるらしい。もちろん本物なら、という但し書きがつくから、皇帝にしてみればどこの誰とも知れない者に勝手にそう名乗られるのは不愉快極まりないことだろう。
一方で、この詐欺師にしてみれば、尊い方々との血縁をことあるごとに強調することで、追及する者の気勢を削ごうという肚積もりもあるのかもしれない。
「今上の陛下は関係ございませんわ。殿下だからこそ、でございます」
「ほう?」
いくら役者を侍らせて遊んでいるように見えても、陽春皇子は焦っているし恐れてもいるはずだ。皇太后の鶴の一声で後宮に入り込むことこそ成功したけれど、まだその地位を認められた訳ではない。
だからこそ、星晶の言葉は甘く響くだろう。清雅な舞で酒気を払ってもらったところで悪いけれど、もう一度──今度は美辞麗句に酔ってもらわなければ。
先ほどの舞によって微かに頬を染めた星晶が、うっとりとした眼差しで陽春皇子に囁く。それこそ星が煌めくような潤んだ目に見つめられれば、男女を問わず理性が溶けるというものだろう。
「殿下はあの喬驪珠の御子でいらっしゃるのですもの! 驪珠はわたくしたちにとっては女神にも等しい名でございます」
「今の秘華園で、我が母の名が語り継がれているとは。それこそ光栄だな」
それでも、驪珠の名を聞いた皇子は、わずかに警戒の色を見せた。星晶を疑ったというよりは、下手なことを口走って皇帝の耳に入ったら、と考えたのだろう。
その怖れを解くために、燦珠はすかさず彼の杯を酒で満たした。さらには、駄目押しとばかりに星晶が身を乗り出し、皇子の耳元に唇を寄せる。
「殿下の麗しいご尊顔も、母君の面影がおありなのでしょうね。先帝がご存命の間にお戻りになられていたら、きっと──」
「滅多なことを口にするでない。私は、義母上にひと目お会いしたかっただけなのだから」
確かに陽春皇子は割と整った容姿をしているけれど、星晶が見蕩れるなんてあり得ない。男装した自身の姿を、毎日のように鏡で見ているのだから。
あっさりと信じ込んで頬を緩める皇子様は、よほど顔に自信があるのか、それとも男とはこういうものなのか。いずれにしても、燦珠にはまったくもって格好良いとは思えない。
(皇太后様にはもうお会いしたんだから、後宮に居座る理由はないんじゃないの~?)
ともあれ、この場は星晶の舞台であって、燦珠と喜燕は黒子に過ぎない。
もうひとりの役者である陽春皇子が我に返ることがないように、代わる代わる酒杯を満たし続けるのがふたりの役目だ。幸いに、星晶の美貌に動揺しているのか、彼は手持ち無沙汰を恐れるように、注がれるたびに酒を干してくれている。
「……母の歌や舞について聞きたかったのかもしれぬが、あいにく記憶が薄れていてな。後宮を出た後、市井の名優に接してきたことも大きいのだろうが。喬驪珠がいかに優れた役者といえど、秘華園の中の話であろう? 華劇とは本来男が演じるものなのだからな」
都合の悪いことは覚えていない、で逃げるのがこの男の手だと、皇帝も立腹していた。実母についても同じように濁すつもりらしいのは、あるいは皇太后への遠慮のつもりなのだろうか。
(でも、それにしても驪珠や秘華園を貶さなくても良いんじゃない!?)
翠牡丹を授かった役者の端くれとして。いまだに驪珠を惜しみ懐かしむ隼瓊を思って。憤りのために、燦珠が酌をする手つきはほんの少しだけ乱暴なものになってしまった。
「わたくしたちは、しょせん井の中の蛙でございますものね」
その点、演じる役どころに従ってへりくだる星晶は、役者の鑑だった。腹の中は、燦珠と同じく煮えたぎっていても不思議ではないのに、陽春皇子に向ける笑みも眼差しも、どこまでも蕩けるように甘かった。
「……あの、もしや殿下も舞台に立たれたことがおありなのでしょうか。畏れ多いお願いなのですけれど、本物の華劇というものを見せてはくださいませんか……!?」
「ふん、確かに大胆なねだりごとだな」
星晶や仙狐の舞を見た後では、普通の神経ならじゃあ自分も、だなんて恥ずかしくて言えないだろう。
実際、唸って酒を啜った皇子だって迷ったはずだ。けれど、星晶の熱い視線と酒精が、彼の理性を揺るがせたのだろう。ややあって、彼は足をふらつかせながらも立ち上がった。断りもなく肩を支えに掴まれて、喜燕が迷惑そうに眉を寄せる。
「……良いだろう。ひとつ、唄ってやるか。──《与君長命》だ」
上座でのやり取りは、花庁中の注目を浴びていた。だから、陽春皇子の手ぶりに応えて、京胡担当の楽師がすかさず弓を構えた。扮装なしで京胡の伴奏だけで唄う──清唱だ。
我欲与君長命無絶衰 そなたと絶えて別れることのなきことを願う
山無稜江渇水 山の峰が崩れ落ち、川の水は涸れ果てて
冬雷夏雪、天地合 冬に雷が鳴り夏に雪が降り、天地が溶け合う──
乃敢与君絶 そのような奇跡が起きぬ限りは、決して
何があっても離れない、という恋歌を、陽春皇子は星晶を見つめて唄い上げた。華麟がこの場にいたら、たぶん蹴り飛ばされている。貴妃たる御方がそんな乱暴はなさらないかもしれないけれど、とにかくそれくらいの身のほど知らずの暴挙だろう。だって、星晶に捧げるに相応しい唱ではまったくないから。
(一応、まったくのド素人ではないみたいだけど……?)
素面の時なら、もう少しマシな出来だっただろうか。高貴な方が、酒席で戯れに唄ったということなら、まあ上手いほうなのかもしれないけれど。
役者腹の皇子、という設定のために多少は練習したのか、語った通りに役者崩れなのか──見極めるべく、燦珠はいっそう目と耳に神経を集中させた。
「ああ……わたくし、これほど感動したのは初めてですわ……!」
水袖で目元を拭った星晶は、たぶん先日の霜烈の歌を思い出しているのではないか、と燦珠は密かに思う。たった今の歌だけでこんなに感動した演技ができるなら、役者として羨ましすぎる。
皇子に熱心に語り掛ける星晶の声も表情も、絹の袍をそっと摘まむ指先も、相手のことが知りたくて、近づきになりたくて堪らないとしか感じられなかった。
「いったいどなたに習われたのでしょう。尊い御身をお守りした者でもあるのでしょう? しかるべき褒美をやらねばなりませんわね」
「梁老師と言う方だが、私の正体は何も知らぬ。今さら教えたところで腰を抜かすだけだろうな」
「まあ、驚かせてひれ伏させればよろしいのに。殿下に教えた光栄を、噛み締めさせると良いのですわ」
「藍田は遠いし合わせる顔もないからな……」
星晶の演技はとても上手くて、そして彼女はとても綺麗で──だから、まんまと陽春皇子の口を滑らせてくれた。彼が漏らした名を、燦珠はしっかりと脳に刻む。
(藍田の、梁老師……!)
この情報を皇帝に、ひいては父に伝えれば、この男の正体を暴くこともできるはずだ。喜燕とも頷き合って、後は時機を見計らって上手いこと退出するだけ──その、はずだったのだけれど。
「酔ったな──庭へ出ようか。夜風に吹かれながらもう少し唄ってやろう」
陽春皇子の手が、水袖に隠れた星晶のそれを、しっかりと握りしめていた。さらに強引に引っ張られて、彼女は立ち上がらせられる。
皇子に抱き込まれるような形になった星晶に、花庁の役者の妬ましげな視線が注がれる。庭へ、というのは──暗いところでふたりでゆっくり、ということに違いなかった。
作中の詞は「宋書」の「上邪曲」を改変したものです。
参考文献:「中国の恋の歌 『詩経』から李商陰まで」 川合康三 岩波書店 2011年




