2.華麟、断固拒否?
秘華園の役者に授けられた翡翠の花──翠牡丹は、妃嬪のお召しに応じていつでも参上するためのものだ。けれど、後宮内の通行が自由ということは、裏を返せば役者のほうから主のもとへ押しかけることもできるということだ。
もちろん、常ならばそんな非礼を犯す者はいないだろうけど、今は場合が場合だった。
燦珠と喜燕、そして男装の袍と褲子に着替えた隼瓊と星晶は、永陽殿に急いでいた。殿舎の主である謝貴妃華麟に、星晶が女の姿で栴池宮に潜入して、陽春皇子の出自を探るという策の許可を得るためだ。
幸いにして華麟はすでに身支度を整えていたし、来客の予定もなかったということで、貴妃との面会自体はすぐに叶った。けれど、愛しの星晶と会えて顔を輝かせたのも一瞬のこと、用件を聞いた華麟は、すぐにふいとそっぽを向いて言い放った。
「絶対に嫌よ。そんなことは許さないわ!」
華劇好きの貴妃は、今日もまだ芝居の筋書きに浸る余裕を取り戻していないようだった。
たっぷりとした袖の長襖に、細かな刺繍の比甲。裙の裾に踊る花鳥の文様も春らしく華やかで軽やかで──それでも、きっと富裕な権門の姫君にしてみれば、その辺にあったものか侍女に差し出されたのを適当に纏っただけなのだろう。
つまりは、自身を華劇の役柄に見立てて着飾って楽しむことができないほどに、華麟も後宮の現状が気に懸かっているということであって。解決の緒を掴むための行動は認めてくれるのではないかと、燦珠は期待していたのだけれど。
(やっぱり、星晶が心配でいらっしゃるのね……?)
若い役者三人がそっと不安の視線を見交わす間に、最年長者として隼瓊が貴妃の説得を試みる。
「ご心中は重々お察し申し上げます。ですが、ことは国の大事でございます。皇族の僭称などという大罪を、知っていながら見過ごすことはできませぬ。陛下の秘華園への覚えを良くするためにも、役者が功績を上げた、という形にするのは重要でございましょうし──僭越ではございますが、ご実家の謝家にとっても、きっと同様かと存じます」
隼瓊が理と利の両輪で攻めても、華麟が首を縦に振る気配はなく、寄せられた眉が解けることもなかった。
「その考え自体は反対しないわ、もちろん。何なら謝家の抱えの役者から、口が堅い子を推薦しても良い。でも、星晶は駄目よ。女の姿でもとても綺麗になるに決まっているもの。あの悪党の前で舞ったり唄ったりして──それもわたくしが見ていないところで! ──、口に出すのも恐ろしいことになったらどうするの!?」
喜燕が息を吸ったのは、華麟の頑なさを前にして、ではやはり自分が、と言おうとしたのだろうか。でも、彼女が口を開くより早く、星晶が静かに主を見据えて、首を傾げる。
「燦珠に頼まれたからでも、隼瓊老師に命じられたからでもありません。私自身の望みです。──それでも、叶えてはくださいませんか?」
そういえば、この主従はいつもは並んで座っていたものだ。燦珠をお嫁さんに喩えた華麟だけれど、舞台の外での相手役は譲らないとでも言うかのように。でも、今日に限っては星晶は主の華麟に対峙する位置にいる。星晶は、今は華麟の役者ではなく、秘華園のそれとして発言しているのだ。
星晶の顔を正面から見ることの意味に気付いたのか、華麟の満開の牡丹のような麗貌が悲しげに萎れる。
「……星晶のおねだりは、とても珍しいもの。叶えてあげたいとは思うけれど。でも、わたくしの気持ちも分かってちょうだい」
「はい。私を案じてくださっているのは承知しております。ですが……それなら、私の身体だけでなく心も慮ってはくださいませんでしょうか」
どういう意味だろう、と。恐らくその場の全員が同時に考えた時には、もう星晶の独り舞台が始まっていた。
涼しげな眼差しで華麟の目を覗き込みながら、滑らかに語る彼女は、きっとこうなることを予想して台詞を考えてきていたのだ。聞き入らずにはいられない声の調子や絶妙な緩急も、計算の上で。
「舞台で勇将や忠臣や侠客などを演じておりますと、何かと正義を唄ったり語ったりしますでしょう。観客が大いに喝采し、肩入れするような──華麟様が私を贔屓してくださるのも、役柄ゆえの部分もあるかと思っております」
「……ええ、そうよ。わたくしの星晶は、いつも格好良くて素敵なのよ……」
名前の通りに水晶を触れ合わせるような玲瓏たる声で、煌めく星のような眼差しで。切々と語りかけられたら、うっとりとして頷くしかできないだろう。まさに、今の華麟のように。狙った答えを引き出したことに安堵してか、星晶の口の端が少しだけ持ち上がった。
「翻って、舞台を降りた私は無力な小娘に過ぎません。大悪に目を伏せるしかできませんし、今も危険な役目から庇っていただきました。まして同輩の役者を代わりに差し出すなどと仰られては、私が演じてきた英雄に顔向けできません。その娘に何かあったら、私はどう詫びれば良いのでしょう」
星晶の指摘に、燦珠は目を見開いたし華麟は小さく喘いで立ち上がった。
「違うわ! 違うの、星晶。わたくし、そんなつもりじゃ……!」
必死に首を振りながら訴える主を、星晶も立ち上がってそっと腕の中に迎えた。握った白い小さな拳に胸を叩かれても微笑んで。拳に込められた言葉にならない思いを、分かっている、というかのように頷いて受け止めて。
「私は、常に華麟様が愛してくださるに足る私でありたいのです。自らが演じる役柄、唄った歌や詠じた台詞に対して恥じることがないように。徳の高きは芸の高きに如かず──小娘ながら正義を為せる機会を、舞台の外でも英雄を演じる機会を、どうか与えてくださいますように」
《鳳人相恋》を舞った後、星晶も平伏したまま隼瓊の言葉を聞いていたのだ。芸よりも先にまず正しくあるべきだ、と。それはきっと、芸を美や家門や位階に置き換えても同じこと。貴妃たる華麟も、もはや否定することはできないはずだ。星晶に、こうまで言われては。
星晶の胸に縋り、顔を伏せることしばし──やがて華麟は、俯いたままで震える声を絞り出した。
「……そんなことを言われては、もう駄目なんて言えないじゃない……!」
「華麟様。では──」
星晶が声を弾ませると、華麟はゆっくりと面を上げた。恥じらいに目元と頬を染めた微笑は可憐そのもので、翳りはもはや見えなかった。
「わたくしだって、星晶に相応しい主でありたいわ。星晶はとても格好良いのだもの。徳高くあれというなら、わたくしだってそうなのよ……!」
それこそ華劇の一幕さながらに、美しく寄り添う主従の姿を前にして、燦珠たちもようやく安堵の息を吐いた。星晶の言葉を、華麟はしっかりと受け止めてくれたのだ。
「むろん、星晶をひとりで栴池宮に送り出したりなどはいたしません。信用できる者を侍女の体でつけましょう」
華麟を安心させようとするかのように、隼瓊が力強く言い添えた。それに乗じて、燦珠はすかさず手を挙げる。
「あ、それなら私が……! 後宮では侍女や婢は家具や背景のようなもの、なんですよね!? ずっと顔を伏せていれば、大丈夫だと思うんですけど……!」
「私も行きます。これ以上、この件を知る者は増えないほうが良いと思いますし、星晶の花旦姿も見たいですから」
喜燕が述べた理由については、いずれも燦珠もまったく同感だった。たぶん華麟も、なのだろう。燦珠と喜燕は、冗談交じりの嫉妬が混ざった目で軽く睨まれた。星晶と華劇に夢中な、いつもの華麟がようやく蘇ったようだった。
「まあ、ずいぶん見た目も立ち居振る舞いも綺麗な侍女もいたものね? ……良いわ、永陽殿の侍女の衣装を出させましょう。お揃いにして──それに、所作も見て参考になさい。星晶もそなたたちも……くれぐれも、無事で」
星晶と並んで心配してもらえる光栄に、燦珠と喜燕は顔を見合わせて微笑んだ。答える声が、自然と重なる。
「ありがとうございます──はい、必ず!」
「必ず良い報せを持ち帰るようにいたします」




