8.皇帝、一筋の希望
梨燦珠なる役者の、派手な化粧に彩られた面を、翔雲はまじまじと見下ろした。
つくづく彼の意表を突く娘だ、と思う。無理難題のはずの出題をあっさり乗り越えた時も、不正で衣装を損なわれたはずなのに、即興で見事な舞を披露した時も。
今も、そうだ。香雪に語り掛けていたのを横から割って入られても、なぜか非礼を咎める気にならない。
(あの者が、何だというのだ……?)
それどころか、彼女の真意を量りかねながらも、つい、素直に答えてしまうくらいだった。
「……そうだ。母譲りの芝居の才があったゆえに、旅の一座に身を潜めていたと主張している」
「例えば、双江や藍田を巡ったりしたのでしょうか? 延康の都に立ち寄ったことは……!?」
物怖じせず彼を見上げ、はっきりと──いっそ問い質す勢いで直言するこの娘を、彼は先ほど香雪に重ねたのだ。月下に祈りを捧げる貞節な夫人の姿を見て、寵姫の想いを知ったと思った。だからこそ心を動かされた。
なのに、舞い終わってみれば、燦珠という娘は淑やかさの欠片もなく、いっそ騒がしい。常に慎ましく穏やかな香雪とは似たところなどないというのに、どうしてあのようなことを考えたのか──その点も、芝居とは恐ろしいと感じた理由の一端だった。
「主要な都市の名は挙げていたはずだ。だが、詳細を問い詰めようとすると幼かったがゆえに記憶が曖昧で、の一点張りでな……」
埒があかない、陽春皇子を名乗る詐欺師への取り調べの次第を思い出して、翔雲は酒杯を苦々しく干した。
奴の供述は、まことに都合が良いものだった。後宮の庭園や建物や折々の行事について、やけに具体的な思い出を語ったかと思えば、世話をされていた侍女の名や容姿についてはろくに覚えていないと言い出す。一方で、十歳かそこらで別れたはずの父文宗帝については、仕草や口癖を見てきたかのように語るのだ。
(瑞海王が入れ知恵できるのがそこまで、というところなのだろうな……!)
皇族が後ろで糸を操っているなら、後宮についての大まかな知識を授けることは難しくない。
そして、詐欺師めを問い詰めるには早急に片をつけなければならない、ということでもある。今や、皇太后付きの侍女や古参の役者によって、十五年前の生の証言がいくらでも得られるようになっているのだろうから。翔雲にはそのようなつもりは毫もないが──万が一、諸官の目に晒す事態になった時に、皇族としてもっともらしいなどと思わせてはならないのだから。
せめて栴池宮から追い出したいと思っても、皇太后が許さないから儘ならないのが苛立たしい。役者相手に愚痴めいたことをこぼすなど、まったくもって情けない、と。翔雲は自嘲しかけたのだが──
「私の父は、国一番の将軍役と呼ばれております。諸州を旅したこともありますし、地方の名優が都に上れば必ず挨拶に来ます。役者だけでなく、楽師も黒子も、客の富商も官吏も、父からの照会なら応じてくれるはず──あの人の人相を伝えて聞いてもらえば、本当の身元が分かるかもしれません……!」
梨燦珠の進言に、彼は思わず身を乗り出した。娘のほうも、勢い込んでか平伏した姿勢から背伸びするような格好になっているから、思いのほかに、顔が近い。とはいえ、若い娘と顔を突き合わせる不躾さよりも、思わぬ情報を得た興奮が勝った。
「それができるならば心強い。だが、それでは奴の言葉を証明してやるだけではないか? 事実、役者であったと──身を窶して偽りの姓名を名乗っていただけだと、言い逃れるだけではないのか?」
「貴い方々はご存じないかもしれないですけど、まったく身元の分からない子を弟子に迎えることは、あまりないんです。顔が綺麗なら良いというものじゃなくて、身体つきとか喉の具合とか気性とか、成長したらどうなるかの見極めが大事だから。攫ったり買ったりするのは割に合いません」
娘が訴えるのは、確かに皇族に生まれついた身には縁のないことだった。調査にあたる官吏たちにとっても恐らくは同様だろう。ゆえに、今回の件とどのように繋がるかが判じ難くて、翔雲は眉を寄せた。すると、梨燦珠は彼の鈍さに焦れたように──これも驚くべき不敬だ──、もどかしげに声を高めた。
「だから──弟子を取る時には、親と証文を交わすんです。衣食住の保証と引き換えに、遊び歩かないとか、舞台に上がった時のご祝儀の分け方とか! こんなことに関わるなら、たぶん修行を放り出して出奔したと思うんですけど、もしも証文が残っていれば、家族まで辿れるかも……!」
……つまりは、後宮を逃れた皇子などという存在が、役者の弟子に転がり込むことは考えづらい、ということのようだ。たとえ偽でも身元や親役を用意しなければならないのなら、手配をした者から欺瞞を暴くこともできる、だろうか。
(いや、違うな。奴は皇子ではないのだから。父も母もいる、庶民の子に過ぎぬはず。役者の弟子に入った時にはこのような事態になるとは想像もしていなかったと、考えて良いのか……?)
と、翔雲の思考を補強するかのように、男装したほうの役者も口を開いた。
「私は、趙家に育てていただきましたが、歌や舞の才がなくて屋敷を去る娘も多くおりました。女児なら、百人にひとりでも秘華園の役者になれば……あの、元は取れるのでしょうが、男児ではそういうことはないでしょうから……」
「瑞海王が育てた駒ではない──あやつの過去を知る者がいるかもしれぬ、ということか」
そうだ、瑞海王とて先帝の皇子をすべて始末するほど野心を燃やしていた訳ではあるまい。傍系の翔雲が帝位を得て、かつ後宮と秘華園の反感を買っていた。そこに、利用できる亡き皇子の名を思い出して企んだと考えるのが自然だろう。ならば、栴池宮にいる陽春皇子は、役者崩れと断じて良いし、掴む尻尾もあるはずだ。
「消されていなければ、ではあるが……探る価値はあるな」
首輔が献じた、子供の死体を使う案は道義上の理由だけによらず、現実的ではなくなっていた。この十五年というもの、愛し子の死を認めらない皇太后は、たびたび庭園を捜索させていたというから。今、この時になって遺体が見つかったなど、余人に対しても信憑性のある話には聞こえないだろう。
(確たる証拠さえあれば……たとえ義母上は納得せずとも、諸官と後世への言い訳にはなろう)
広い栄和国の中から、奴を知る者を探し出すなど雲を掴むようなあてのないことだと考えていたのだが。不意に、かつ思わぬ指針を得て、翔雲の裡に気力が満ちた。
「あの、ですが、件の方は詳細は覚えていないと言い張られている、と……正直に答えれば危ういことは自身が誰より分かっているでしょうから……」
「そうだな。義母上の手前、強引に問い詰めることもできぬ。それも、見切った上でやっているのだろうが」
とはいえ、香雪が不安げに述べたのも、もっともではあった。彼女を慮って拷問、などとは口にしないが──そろそろ、強引にでも奴を獄に引き出すべきなのかもしれない。それはそれで、強引に自白を引き出したという謗りが予見できるから厄介だが。
「でしたら、私にやらせてくださいませんか!?」
そこに響いた梨燦珠の声は、どこまでも明るかった。瑞々しい頬に浮かぶ笑みも、朗らかで眩しくて。化粧によってくっきりと強調された眼差しは、いつも以上に力強い。女で、役者に過ぎぬ癖に堂々として誇らしげで──なぜか、頼もしいとさえ、思ってしまう。
「あの人は毎晩のように役者を召してお楽しみとか。その中に私が紛れ込んでも分からないでしょう。どの街でどんな舞台に出たとか観たとか、誰に習ったとか──少しでも情報が増えれば、父も探しやすくなると思います!」




