7.絶演、心を酔わす
我与君生別離、各在天一涯 生きながら君と別れて 天の果てにそれぞれひとり
希望君也在仰望同様的月辰 君もこの夜空を見上げているだろうか
喜燕の歌に導かれるように、燦珠はゆっくりと舞い始めた。
彼女が演じる小佳夫人は、彼方の戦地にいる夫の無事を祈って踊る。嫦娥がその舞を嘉するように。褒美に、夫を加護してくださるように。
夫への想いを胸に、神に捧げる舞は静謐なものだ。夫の志勇将軍の勇猛果敢な舞を、嫋やかさで引き立てなければならない。派手な跳躍や速い回転もないけれど、だからといって楽だとか簡単だとかいうことは、決してない。
ゆるゆると足を運びながら、常に水袖を翻すために、燦珠は全身の筋肉と神経、頭の先から爪先にまで意識を集中させる。あらゆる瞬間、どの姿を捉えられても、優美と典雅を極めるように。
在夢中抱着君、醒来識到孤臥 夢で会えても目覚めればひとり
不敢悲哀 けれど嘆くことはない
遠離戦戟君在笑容 君は健やかに微笑んでいるのだろうから
志勇将軍もまた、妻の姿を知らないのだ。彼女が、どれほど切なく哀しく舞っているか。夫の無事を希い、夜も眠られずにいるのかを。
留まることなく流れる水袖は、小佳夫人の想いを語る。
頭上に大きく弧を描いては、天への切なる祈りを示し、螺旋のように身体に絡みついては忍び寄る不安と怖れを表す。さざ波のように揺れ──時に希望を見出しては、綻ぶ蕾のようにぱっと宙に開く。
水袖を操る間も、燦珠の──小佳夫人の目は眼前の光景を映してはいない。
霜烈の、あのすさまじい恋慕の歌を手本にして、ひたむきに彼方を見る眼差しを演じられていると、良い。雑念をすべて振るい落した無心さ必死さこそが、小佳夫人の想い。それに重ねるべき、香雪の皇帝への想いを表して、伝えなければ。
喜燕の歌も、終幕に近づいて高まっていく。常よりやや低く作った声が、妻への想いを、勝利を携えての帰郷の決意を歌い上げる。
在天比翼在地連理、無義無値 死して結ばれることに何の意味があるだろう
何当迫伏夷狄、再将回去到君 いつの日か敵を下し君のもとへ還ろう
最後に──ひと際大きく高く、背を反らせながら水袖に弧を描かせる。その場に膝をついた燦珠の左右に、水袖は降り注ぐ月の光のようにふわりと落ちた。
* * *
舞い終わって、喜燕と並んで平伏した燦珠の鼻先を酒肴の良い香りがくすぐった。肉の脂と、丁子や八角といった香辛料の甘辛い香り。きっと、ずっと花庁に漂っていたのだろうに、気付かなかった。彼女の意識だけでなく、肉体までも彼方に旅していたかのようだ。
あるいは、観客のほうも、演者と同じくここにはない情景を見てくれていたのだろうか。ほう、と。皇帝が漏らした溜息が、舞の後でただでさえ高鳴る燦珠の心臓を跳ねさせた。言葉にならないその吐息に込められたのは、果たして満足なのか落胆なのか──
「芝居とは──華劇とは恐ろしいものだな」
「あの……お気に、召しませんでしたでしょうか……?」
皇帝の第一声を聞いて、香雪が声を震わせた。身を乗り出したのだろうか、さやさやという衣擦れが空気を揺らす。
「そのようなことはない! 見事な舞、見事な歌であった。そなたの想いは確かに嬉しく受け取った」
「翔雲様……」
少し異なる響きの衣擦れの音は、皇帝が香雪を抱き寄せでもしたのだろうか。何しろ役者も含めた使用人は、後宮では家具や道具のようなものらしいから、燦珠たちの存在を憚ってはくれないのかもしれない。
皇帝のお気に召したようなのも、ふたりが仲睦まじいのもとても素敵なことだけれど──ただ、少しだけ気恥ずかしい。
「俺も、弱気にはなっていたのだろうが。歌舞にこうも酔わされたのは初めてのことだ。そなたらは誇って良い」
自身を指すのに砕けた人称を使った皇帝は、確かに上機嫌のようだった。そう、確かめられて安堵しながら、燦珠はいっそう額を床に近づけ、感謝の意を示した。
(やった! やった! 認めていただけた! 酔わされた、なんて──最高の御言葉だわ!)
礼儀に適うであろう所作と裏腹に、心の中で快哉を叫ぶ。本当は飛び跳ねて喜びを露にしたいところだけれど、今は我慢しなくては。彼女たちはまだ、皇帝の言葉を賜る光栄に浴しているのだから。
「そなたらは清冽な味わいの美酒であった。宋隼瓊も、先日鳳を舞った娘もそうなのだろう。政務に疲れた時に癒しを求めるのは──先帝がそのようにしたのも、暗愚や放蕩だけが理由ではなかったのだろうな」
隼瓊や星晶のことも、覚えていてくれた。あまつさえ、華劇の良さを認めてくれた。彼女自身と喜燕の芸に対してだけではない、華劇そのものへの称賛に、燦珠の頬は舞の高揚によってだけでなく熱くなる。今の御言葉を霜烈が聞いたら、どれほど喜ぶことだろう。
けれど、酒杯を傾けたらしいわずかな間の後、皇帝は声を低く険しいものに改めた。
「だが、溺れる者にとっては酒は害悪だろう。さらには、その酒に毒を注ぐ者もいる」
皇太后の目を眩ませる、瑞海王と「陽春皇子」の企みのことだ。あれを芝居になぞらえられていると知って、燦珠の頭に血が上る。
(一緒にされちゃ困るわ……!)
せっかく華劇を認めていただけたのに。役者とも呼べない下手くそかつ悪辣な輩とは一線を画すべく、燦珠は声を上げていた。
「華劇も役者も、楽しく酔っていただくためのものです! 時に憤ったり涙したりするとしても、芝居の中だけのことであって──阿片を混ぜた酒を無理に呑ませるような者は役者とは呼べません!」
「さ、燦珠……」
許しを得ずに皇帝の御前で発言する不敬に気付いたのは、喜燕の震える声を聞いてから、だった。
直言ばかりか、声を上げた拍子に燦珠は顔を上げてしまっている。皇帝と、彼に寄り添う香雪が目を丸くしてこちらを見下ろしているのがなんとも気まずかった。たぶん、こんな暴挙をしでかす者を、この方々は見たことがないのだ。
平伏し直して寛恕を乞うべきとは分かりつつ、燦珠が動けないでいると──皇帝は、苦笑を浮かべつつ軽く手を振った。
「良い。顔を上げよ。ふたりともだ」
言われて恐る恐る身体を起こした喜燕が、恨めしげにこちらを横目で睨んだのが視界の端に見えた。燦珠は二度目になってしまったけれど、天を戴く御方のご尊顔はそうそう直視するものではないのだろう。道連れでとんでもない不敬を働くことになってしまった、と抗議されている気がした。
娘ふたりの顔をしげしげと眺めて首を傾げる皇帝は、間近で見ると整った容姿をしているとしみじみ思う。霜烈の妖艶な美貌とは種類の異なる、精悍で爽やかな──華劇で言うなら二枚目役といったところか。もちろん、皇帝は舞台に立ったりはしないのだろうけれど。
「ふむ、では、そなたらは栴池宮で演じたいとは思わぬのか? 今の後宮の情勢を、知ってはいよう。義母上の盃に、阿片の酒を注ぎ続けようとしている者も多いようだが。それが秘華園を利するのではないか、とは?」
皇帝の下問は、燦珠たちを試すものだった。
「陽春皇子」を推したほうが得ではないのか、と。今の皇帝を退けるということは、彼のやり方が気に入らないということであって──だからきっと、陰謀が成功すれば、これまで通りに芝居を収賄に利用し続けられるのだ。
だから栴池宮に参じて陽春皇子の機嫌を伺う者が絶えない。誰も皇太后に真実を告げようとはしないのも、怒りを恐れるからだけではないだろう。あえてあの方の誤解を深めるようにしている者も多いはず。阿片の酒とは、そういうことだ。
(一緒にされちゃ、困るのよ……!)
先と同じ言葉を胸の中で繰り返してから、燦珠は居住まいを正し、口を開いた。
「役者が演じるのは舞台の上でだけです。舞台を降りた後も演じ続けるなら、しかもそれが悪い企みがあってのことなら、ただの詐欺師だと思います。詐欺師に見せるほど、私の芸は安くはありません」
客が役者の出来をあれこれ言うのと同様に、役者だって客を選ぶのだ。嫌な客に無理強いされれば、燦珠の父の梨詩牙のように長く忘れず恨むこともある。香雪のため、ひいては皇帝のために後宮に入っておきながら、皇子の偽物に芸を見せることなどできるはずもない。
「わ、私は──芸なくして翠牡丹を賜りました。明らかに悪事を為す者に与しては、そうして徳を失ったなら、もはや役者ではいられません。卑しい役者も、ものの道理と是非は弁えております」
歌とは打って変わった掠れる声で、それでも喜燕も毅然と訴えた。卑しい、だなんて自らを貶める辺り、彼女の老師について聞きたいことはまだまだあるけれど──それでも、喜燕も同じ思いでいてくれていたと確かめられたのが心強い。
「なるほど」
役者ふたりに、香雪も加えた女三人の視線を集めておいて、沈黙することしばし──皇帝は、ようやく小さく頷いた。
「そなたらの言葉を聞かねば、華劇や役者を纏めて嫌っていたかもしれぬ。歌舞に溺れる義母上を、愚かと断じていたかもしれぬ。だが、違うのだろうな……」
皇帝が目を向けた方角は、東。その先にある栴池宮では、今宵も役者を侍らせた「陽春皇子」が美酒に酔っているのかもしれない。放蕩を尽くす彼の姿を見ても皇太后の夢は醒めないのか、あるいは、誰もが「我が子」の帰還を祝ってくれていると、信じて疑っていないのだろうか。
「華劇に魅入られている間は憂いも悲しみもお忘れになれたのだろうな」
「皇后の位にありながら御子を得られぬことも、我が子同様に慈しんだ御方を失うのも、耐え難いことと存じます……」
燦珠の目に映る皇太后は、ただの華劇好きの上品なおばあちゃまだった。けれど、人の心の裡なんて傍からは見えないものだ。香雪が声を落としたように、皇帝が哀れみの表情を浮かべたように。たとえもっとも高貴な女性だろうと、華劇の幻に溺れなければやっていられないこともあったのかもしれない。
憂いを帯びた表情の香雪を抱き寄せて、皇帝は頷いた。
「うむ。だからこそ許せぬと、改めて思った。役者上がりの破落戸が玉座を掠め取ろうなどと、そもそも不遜極まりないが──」
「あの」
皇帝の言葉を遮るのもまた、とんでもない不敬なのだろう。でも、そうと分かっていても、燦珠はその罪を犯さずにはいられなかった。皇帝が言った中に、聞き捨てならない単語があったからだ。
「あの人は、役者だったんですか……!?」




