6.燦珠と喜燕、千里を越えて
皇帝の寝殿である渾天宮が戴く黄色の瑠璃瓦は、夕日を浴びて燃えるような黄金の輝きを放っていた。
当然のことながら、昭儀である香雪の殿舎や貴妃の永楊殿よりもなお眩く壮麗な、後宮の中心に聳える威容に、燦珠と喜燕は揃って息を呑んだ。
焚かれ始めた篝火を映して、獅子の像の眼が炎を抱いた炭のように力強く光る。小娘どもを威圧しようとでもいうかのように。
「梨燦珠と崔喜燕か」
渾天宮の内部に通され、いたるところで体躯をうねらせる龍に見下ろされながら、燦珠たちは肥った宦官に引き合わせられた。隗太監という、宦官の中で一番偉い人、らしい。
つまりは霜烈の上司にあたるのだろうか。肥った人や痩せた人、綺麗な人や──そうでない人。宦官にも色々な人がいる。
失礼な感想はともかくとして、燦珠は喜燕と声を揃えて拱手の礼で応じた。
「はい」
皇帝は、今宵は香雪を召し、香雪は慰撫のために燦珠たちを秘華園から召す。その話はごく滑らかに通ったらしい。
翠牡丹は、役者を皇帝の寝殿にまで立ち入らせるほどの威力があるのだ。とはいえもちろん、武器を隠し持っていないか、喜燕が舞で使う双剣は確かに芝居用の作り物であるかは念入りに検められた。
「着替えと化粧を済ませて待て。いつお召しがあっても良いように」
身体検査が終わって、襖衣と馬面裙を整えるふたりに、隗太監は厳かに告げた。その言葉と同時に、黒衣の宦官たちがすっと動いたのは、先導してくれるということだろう。控室というのか、楽屋というのか──とにかく、しかるべき場所へと。
「……渾天宮に役者が召されるのは当代様の御代で初めてのこと。心するように」
ふたりの背を、隗太監の不思議な高さの声が追いかけてきた。
そうだ、先帝の御代ならば、夜ごと役者が舞い唄い、天下を治める御方を慰めたのだろう。その倣いは今上帝の御代になって断ち切られた。太監は単に往事の華やかさを懐かしんでいるのか、それとも秘華園に集まる利権を欲しているのか──燦珠には分からない。
分かるのは、太監が言ったのが余計なお世話だということだけだ。
「気負わせなくても良いじゃない、ねえ!」
「ね。でも、燦珠はかえって燃える質でしょう」
化粧を終えた燦珠が、衣装を纏いながら憤然とこぼすと、喜燕は苦笑で宥めた。小佳夫人の衣装は、姫君役に多い、文字通りの青い衣。対して、志勇将軍を演じる喜燕は、鎧を模した緋色の靠衣姿だ。
翎子──雉の尾羽──を施した被り物は、頭をきつく締めて眦を釣り上げる効果もある。本来は花旦で華奢な喜燕の男役は、軽やかで、勇壮な剣舞に健気さが加わって、これはこれでとても良い。
「まあね。喜燕は、大丈夫?」
靠衣の衣装を固定するための紐を強く引っ張りながら、燦珠は問うた。喜燕の技量を知ってはいても、渾天宮で、皇帝の御前での演技は色々と特別だろうから。
けれど、燦珠に応える喜燕の微笑は、余裕たっぷりのものだった。しかも、力強く頼もしくもあって、格好良い。
「沈昭儀のためだもの。──私の小佳は燦珠と香雪様のふたり。剣を振るう甲斐があるというものじゃない?」
「じゃあ、私の志勇もふたりいるのね。とても素敵だわ」
今宵のふたりの舞は、香雪から皇帝への贈りものなのだ。あの御方の真心を、難局にある皇帝に伝えるための。ならば、彼女たちが見つめるのは相手役のさらに先、観客でもある。そう、分かるように演じなければ。
燦珠と喜燕は微笑み合って、力強く頷いた。
* * *
空が完全に闇に染まったころ、燦珠と喜燕は、花庁に通された。庭園を望む比較的大きな房室は、本来は私的な宴会に使うものだろう。けれど、ここ百年ほどは、もっぱら役者を召して演じさせるための場になっていたに違いない。
吉祥の模様を描いた透かし格子からは、月と星に輝く池の水面の煌めきと、春を盛りと咲き誇る花の香が入って来る。室内の装飾も、もちろん贅を凝らした煌びやかなもの。四方の壁面は四季折々の美が精密に描かれて、いかなる季節の席にも相応の興趣をもたらすのだろう。不遜を恐れてほんの一瞬しか目を向けることができなかった天井でさえ、金銀で彩られた瑞獣と瑞鳥の装飾が縦横に飛び交っているようだった。
けれど──絢爛豪華なこの花庁は、今宵は荒涼とした原野に変わる。燦珠と喜燕の歌と舞で、そう変える。戦う夫と祈る妻、千里の距離に分かたれても思い合うふたりの心を、届けなくては。
「そちらの娘は初めて見るな。宋隼瓊曰くの、徳が高い者か」
「はい。喜燕と申します。軽やかな舞が得意で──翔雲様にご披露できてとても嬉しく思います」
皇帝の声を聞くのはこれで三度めだ。これまでで一番柔らかく穏やかに聞こえるのは、やはり香雪がいるからだろう。香雪が皇帝の字を呼ぶところといい、仲睦まじい様子が窺えて燦珠も勝手に嬉しくなる。
「先日の舞は──予定になかったのだろう。練習の成果を見せられぬのでは、役者としても本意ではないだろうからな」
「もったいないお心遣いでございます。あの……わたくしからの捧げものでもございます。どうか、お気に召しますように」
「うむ、楽しみだ」
香雪の言葉に、皇帝は優しく頷いた。燦珠の衣装のことも覚えてくださっているらしいのは驚くし、とても公正な、ありがたい御言葉ではある。けれども楽しみだというのは誇張だろう、と燦珠は推し量る。寵姫からの贈り物だから嬉しいのであって、歌舞を楽しみにしている訳ではないのではないか、と。
(見せてやろうじゃないの……!)
香雪だって、教養溢れるお嬢様、なのだ。書画や詩歌で想いを伝えることもできたはず。それでも燦珠と喜燕に頼ってくれた──華劇の力を信じてくれたのだ。その信頼には、答えなくては。
「楽師は、呼んでいないのだな」
「互いの歌を伴奏に舞う趣向とのことですので。──では、燦珠、喜燕。お願いします」
「はい!」
声を揃えて応えてから、燦珠と喜燕は立ち上がり、それぞれの配置についた。喜燕が花庁の中央へ、燦珠は下がった位置へ。《天一涯》は、夫が舞う間は妻が唄い、妻が舞う間は夫が唄う趣向の演目だ。筋書きの上で別離しているふたりは、同じ舞台に立ってはいても視線を交わらせることはない。
最初は無音の中で、喜燕が──彼女が演じる志勇将軍が舞い始める。二本の剣を重ねて右手に掲げ、夷狄を払う勇敢な剣舞を。銀に塗られた剣身が三日月のような閃光を描き、柄を飾る黄色の房が躍る。戦況が激しくなるにつれて動きも速く、激しくなり──奮戦する夫を、彼方の妻の歌が護るのだ。
我与君生別離、各在天一涯 生きながら貴方と別れて 天の果てにそれぞれひとり
希望君也在仰望同様的月辰 どうか貴方もこの夜空を見上げていますように
喜燕が演じる志勇は、剣を掲げたまま跳び、回転する。銀の剣身が一閃するたびに敵を斬り倒していくのが観客にも見えるだろう。一方で、伴奏たる燦珠の──小佳夫人の歌はどこまでも静かで切々として。相手役の舞に引きずられて走らないよう、細心の注意を払わなければ。
小佳夫人はあくまでも夫の戦いぶりを知らないのだ。喜燕の舞が勇ましいほど、燦珠の歌が切ないほど──夫婦が互いに見えないと伝えるほどに、会えないふたりを隔てる距離が観る者の胸を締め付けるだろう。
君在睡覚、在戦斗 貴方は眠っているの、戦っているの?
也許在想我 私を思ってくれているかしら
即使相隔幾千里 彼方の距離を越えて
我一直想着君 いつも貴方の無事を祈っています
何度目かの回転の瞬間に、喜燕はこれまで片手に束ねていた双剣を、両手に持ち替えた。花庁に疾る銀光が一瞬にして倍に増えたように見えたのだろう、皇帝が軽く息を呑むのが燦珠の耳にも届いた。観客を驚かせたことで力を得たのか、喜燕はひと際高く跳び、横一字に開脚して双剣を構える見得を決めた。
敵を薙ぎ払い──反撃を剣先を地について耐え、そこから斬り上げながら、後空翻。身体の回転につれて二本の剣も躍る。喜燕の手によって閃くだけでなく、時に投げ上げられ、宙に交錯する。落ちてきた剣を、喜燕は足で受け止めてまた蹴り上げ、回転してから受け止める。
通宵達旦我唱我舞 夜を徹して舞い、踊りましょう
以便嫦娥作為祭品 月の女神への捧げものとして
以便君免受任何害 貴方に加護がありますように
燦珠の声が細く高く歌い上げ、喜燕が双剣を構えて見得を決める。これで、《天一涯》の前半部分は終わり。次は、燦珠が前に出て舞い、喜燕が下がって唄う後半になる。




