5.霜烈、春を嘆く
恐らくは初めて霜烈と対面した喜燕と星晶は、揃って目を瞠った。そしてすぐに、燦珠の耳に唇を寄せて、ひそひそと囁いた。
「楊奉御って……あの?」
「燦珠を秘華園に入れたっていう人?」
役者としてそれぞれに部屋を与えられてはいても、互いの部屋を行き来して夜更かしすることもある。そうして互いの生い立ちを語ることも、もう何度もあった。
だから、霜烈は喜燕と星晶にとってはすでにちょっとした有名人だったのだ。後宮の妃嬪にも劣らぬ美貌、との評に、ふたりは半信半疑だったのだけれど──
「そう! 綺麗でしょう?」
「うん、とても。あんな宦官がいるなんて知らなかった……」
喜燕が無言で大きく何度も首を上下させ、星晶が溜息と共に呟くのを聞いて、燦珠は胸を張る。
(ほら、言った通りじゃない!)
霜烈の美貌は、もちろん何ら彼女の手柄ではないけれど。ふたりが見蕩れているのがなぜか我がことのように得意で嬉しくて、燦珠は胸を張った。
当の霜烈は、目の色を変える娘たちの姦しさを前に、柳眉──としか形容できない──を寄せているけれど。
「娘たちがいるとは聞いておりませんでしたが」
「言っていたら、そなたは来てくれなかっただろうからな」
とても綺麗な顔の霜烈が、じっとりと睨むとたいそうな迫力だ。なのに隼瓊はまるで動じず、それどころかにこやかに微笑んで応じた。
「燦珠と喜燕が《天一涯》を演じるのだが、箱入りの娘たちには想像しづらい役どころだろう? 手本が必要かと思ったのだが」
「お手本──もしかして、楊奉御がやってくれるんですか!?」
そこまで聞いて、黙っていることができなくて。燦珠は思わず、霜烈の前に進み出ていた。
(やっぱり! この顔と声で芝居をやらないなんてもったいないと思ってたのよ!)
天鵞絨の美声で唄ってくれるのか、長い手足で舞ってくれるのか。いずれにしても、絶対に見逃しても聞き逃してもならない一幕に違いない。燦珠が期待に目を輝かせ声を弾ませると、霜烈はいっそう顔を顰めた。
「手本など──」
「では、先日の《鳳人相恋》への褒美、ということでは、どうだ? 口で褒めたくらいで足りる一幕ではなかったと思うが」
そう──あの後、確かに霜烈は燦珠と星晶の舞を褒めて、労ってくれた。即興で歌詞も振り付けも変えたのに見事だったと、鳳凰が焦がれるのも当然の可憐な花旦ぶりだったと、白皙の頬を珍しくも紅潮させて。その時の彼も、いつもの黒衣姿だったけれど、眩い笑顔は大輪の花が綻ぶように美しくて燦珠を見蕩れさせたのだ。
(あんなに褒めてくれたんだから、ね……?)
熱いおねだりの視線で見つめる燦珠を見ない振りで、霜烈は隼瓊に対してだけ抗議した。
「それではなおのこと、下手な歌では相応しくないでしょう」
けれど、隼瓊は何も言わずに彼の目を燦珠に向けさせた。ここぞとばかりに、「そんなことないから、良いからやって!」の一念を込めて、笑顔で圧を加える、彼女のほうへ。
「…………」
何か言おうと口を開きかけ──そして、霜烈は諦めたように目を伏せた。それでも、顔も言葉も、燦珠ではなく隼瓊だけに向けるのが彼の意地らしい。
「《久別離》でよろしいでしょうか」
「ああ。小佳夫人の参考になるだろう」
《久別離》は、旅に出て帰らない夫を思う妻の想いを詠った詞だ。
(小佳夫人の役作りには本当にぴったりだわ!)
どんな手本を見せてくれるのか、と。浮き立つ思いに駆られて、燦珠は跳ねるように壁際に下がった。喜燕と星晶も彼女に続いて、そして、代わって霜烈が練習場の真ん中に進み出る。
黒一色の装いに、密やかな足取りは後宮を行き交う宦官のそれでしかない。女形を演じるなら纏うべき水袖も、目元を彩る化粧もない。
(でも、楊奉御はとても綺麗だし)
想像で補うのに苦労はないだろう、と。燦珠は安心して彼の姿を眺めていた。でも──霜烈が手を目の高さに掲げた瞬間に、ぞくりと寒気に似た感覚が背筋を走る。
(……え?)
霜烈の視線が、壁に並んだ娘たちを撫でる。燦珠の心臓に、切ない痛みを残しながら。
その痛みの源は、憂いと悲しみ。孤独と愛慕。そんな苦しく辛い感情が、にわかに練習場を満たす。水が忍び寄るように、手足を絡め取って息を詰まらせる。観客を孤閨の嘆きに溺れさせておいて──霜烈の形の良い唇が、そっと開く。
別来幾春未還家 何度春を過ごしても貴方はまだ還らない
高く通る、澄んだ声だ。男の役者でも裏声で唄うものではあるけれど、宦官であるゆえか、霜烈の声はさらに高く、よく響く。それでいて込められた情感はどこまでも暗く低く地を這うようで、「妻」の重く寂しげな溜息が耳元に聞こえるよう。美しい歌と悲しい想いに同時に頭を揺さぶられて、燦珠は引き裂かれる心地になった。
今年又落櫻桃花 櫻桃花は今年も虚しく散っていく
起き上がる気力もなく寝台に寝そべり、結わないままの髪をかき上げる女の姿が、確かに見える。霜烈の髪はしっかりと結われて冠に収まっているはずなのに。掲げた手に乱れ髪が絡んでいるのだろうと、なぜか分かる。
額に垂れる髪の間から覗く目には、きっと薄桃色の櫻桃花の、可憐な花が映っているのだ。霜烈の流し目はどこまでも鬱々として嘆きに満ちて──けれどその視線の先で、春は麗しく和やかに訪れている。その痛ましく残酷な明暗を、彼は美しい声と憂いに満ちた眼差しによってくっきりと描き出す。
再開錦字書、只使人嗟 大事な手紙を読み返しても、嘆きは深まるばかり
身体の前に差し伸べた手は、書簡の微かな重みがそこにあるのをありありと表現していた。
わずかに伏せた目に宿る狂おしさが、夫からの一字一字を食い入るほどに見つめているのだと伝えてくる。胸にかき抱きたいけれど、紙を損ねるのを恐れてできないでいる、そんな葛藤さえ見えるような。
風兮風、為我吹使他再還 風よ風よ、あの方を私のもとに還しておくれ
決して、声を張り上げた絶唱ではない。けれど、なんて深く聞く者の心に刺さる唄声だろう。
遥かな空に祈り、訴え、希う声は、たなびく煙を思わせる。
離れて会えない夫に捧げる、消えない恋慕の熾火から立ち上る煙は、風に乗って愛する人のもとに届くだろうか。旅路に倦んだ男は、ふと、別れて久しい妻の切ない吐息を聞き取って目を上げるかもしれない。異国の風に、なぜか懐かしい香りを感じて──そうして、誘われるように故郷の方角へ足を向けるのだ。そうあって欲しい、と。耳に残る残響をいつまでも名残惜しく聞きながら燦珠は心から願った。
霜烈が唄い終わっても、しばらくの間、誰も何も言わなかった。
「……すごい」
そう呟いたのは、誰だっただろう。喜燕か星晶か、それともどちらかが漏らした溜息に込められた思いを、言葉として認識しただけだったのかも。とにかく、それを聞いてやっと、燦珠は動くことを思い出した。
「なんで──」
口を開いて、霜烈のほうへ足を踏み出す──と、なぜか彼の姿がぐにゃりと歪んだ。溢れるほどの涙が込み上げていたのにも、気付いていなかったのだ。それほどに惹き込まれて、聞き惚れていた。
(ずるいわ、ひどいわ……!)
美貌と長身と美声に加えて、演技の才にまで恵まれているなんて。こんな素晴らしい歌を仕草を、隠していたなんて。感動と羨ましさと、少しばかりの憤りの涙を流しながら、燦珠は霜烈に詰め寄って問い質す。
「なんで黙ってたの!? そんなにすごいのに! ねえ、立ち回りも、できるの? できない訳ないよね? 《天一涯》のお手本なら、志勇将軍の剣舞のほうも──」
「お、お願いします! できるなら……!」
絶対にまだ隠し玉があるだろう、と。霜烈の胸倉を掴む勢いの燦珠に釣られたように、喜燕も進み出た。目元を擦りながらだから、彼女も今の歌に心揺さぶられたのだ。
「あまりの熱意だから余芸を見せただけのことだ。つまらぬものを見たがるよりは、しっかり隼瓊老師に習ったほうが良い」
けれど、霜烈はするりと燦珠の手から逃れてしまう。そのしなやかな身のこなしからして、絶対に立ち回りもすごいに違いないのに! つい先ほどまで目眩がしそうな色気を漂わせていた癖に、もういつもの涼しげな表情に戻って、しかつめらしく忠告してくるのも何だかひどい。
「つまらないだなんて……! そんなことを言われては、私たちの立場がありません!」
星晶も、黙っていられないのだろう。きっ、と霜烈を見据える眼差しの鋭さは、凛々しく勇敢な武将役さながらだ。槍や剣を構えていなくても、逃がさないぞ、という気迫が存分に溢れている。
「私は、隼瓊老師の弟子ですらないのだから。分を越えては、それこそ老師の立場がないだろう」
けれど、霜烈は、微苦笑と共に隼瓊に目礼して、狡く逃げた。老師を盾にされては役者たちが退かざるを得ないのを、分かっているのだ。
弟子ではない、なんて言ったのに──霜烈に向けて頷いた隼瓊は、確かに教え子に対する老師の表情をしていた。それも、成長を見せた弟子に称賛を示す時の。そう思うのは、燦珠の邪推だろうか。
「良い手本だったと、誇らしいが──満足していないようだな」
「このていどで、どうして思い上がることができましょう。私は、喬驪珠の歌を聞いたこともありますのに」
「それは、まあ……相手が悪いが」
ふたりの関係を探ろうと、興味津々で耳を澄ませていた燦珠は、いっそ憤然として言い切った霜烈の態度に目を剥いたし、諦めたように肩を竦めた隼瓊に口をぽかんと開いた。
(嘘……驪珠ってそんなにすごいの……? っていうかそんな人と比べるの……?)
ふたりとも、大真面目に言っているとしか聞こえなかった。あれを越える声や演技の人がかつていただなんて。それこそ今生きている役者の立場がない。
「付き合わせてすまなかったね。下がってよろしい。──また、後で」
宥めるような笑みを浮かべた隼瓊に言われて、霜烈は無言で一礼すると退出していった。
残された娘たちは、やはり無言のうちに慌ただしく視線を交わす。後で!? 後でってどういうこと!? の意味だ。むろん、隼瓊に直接尋ねる蛮勇をふるえる者は誰もいなかったけれど。
「……昔から華劇好きの子でね。よく覗いていたから、時々教えてあげていたんだ」
「そう、なんですか……」
娘たちの浮足立つ様子が見えたのか、隼瓊はごく端的に教えてくれた。時々教わったくらいであれほど唄えて演じられるものなのか、はなはだ疑問だ。というか、そんなことはあって欲しくない。
(……楊奉御ってものすごい天才なの? それとも、こっそりみっちり稽古をつけてもらっていたのかしら……?)
後宮の現状に心乱れて練習どころではなかったのは、つい先ほどまでのこと。霜烈の歌は不安を吹き飛ばしてくれたけれど──でも、さらに心乱れる謎と疑問が湧いて出てしまったような。
喜燕も星晶も、目を潤ませて頬を上気させて、心ここにあらずの様子だからきっと同じ思いだろう。今夜は三人して夜更かしすることになりそうだった。
──と、注意散漫な弟子たちを、隼瓊は軽く手を叩いて飛び跳ねさせた。彼女たちが背筋を正したところで、ようやく今日の稽古が開始となるようだ。
「あの子はああ言っていたが、とても参考になったろう? 燦珠は、あの憂いと恋慕を目標にしなさい。喜燕は、遠方の妻があの表情で待っていると思って演じるように」
そうだ、あれを見た後なら、歌も舞も一段と昇華できるはず。霜烈は確かにご褒美をくれたし、何よりの手本を見せてくれたのだ。
(思いっきり糧にしてやるわよ!? つまらないだなんて、言わせないんだから……!)
より美しく、切なく、見る者の涙を誘うような──そんな演技で皇帝と香雪を慰めるのだ。そうして上手く行ったら、また霜烈にご褒美をねだることにしよう。
「はい!」
ふたりして同じことを考えたのだろうか。燦珠と喜燕の力強い返事が、重なった。
霜烈が唄った詞は、李白の作品を参考にしております。




