4.燦珠、心乱れて
秘華園の中に点在する練習場のひとつにて、燦珠と喜燕、そして星晶は、床に散らばって腰腿功に励んでいた。秘華園はどこも塵ひとつなく磨き上げられているから、床に手足をつける所作も躊躇わずにできて気分が良い。
格好は、三人ともが交領襦に褲子を合わせた短褐、といういつもの練習着。ただ、燦珠は薄桃、喜燕は黄梔子、星晶は蔚藍色と、生地の色はそれぞれ違う。いずれも翠牡丹の翠が映えることだけが共通していた。
「喜燕が男役をやるんだ?」
「そう。私のほうが少し背が高いでしょ。あと、志勇のほうが舞が多いから。沈昭儀様に舞を見ていただきたくて」
「双剣舞か……うん、似合うと思う」
「ありがとう!」
向かい合い、脚を左右に開いて横一字の格好になった星晶と喜燕が笑い合っている。最初の出会いこそ剣呑なものだったけれど、場合が場合だったから仕方ない。役者同士、今は仲良くなれているはず。この数日で明らかに喜燕の表情が緩んだのを見て、燦珠は密かに安堵していた。
ふたりの傍らで、燦珠は前後に脚を開く一字の格好をしている。そのまま腕を上に伸ばして、身体全体で逆さの丁の字を描くと、脚の筋が伸びるぴりっとした感覚が心地良い。
「小佳は私が演じるの。ほら、香雪様や華麟様を見てると青衣役もやってみたくて!」
話題になっているのは、《天一涯》という演目だ。
夷狄の討伐のために遠征の途上にある志勇将軍と、その妻の小佳夫人。遥かな距離に隔てられたふたりが、空を仰ぎ見ては愛する人も同じ月を見ているのかと交互に唄っては舞う──それを演じようと決めたのは、香雪の要望に沿って喜燕とふたりして考えた結果のことだった。
『翔雲様にわたくしの想いをお伝えしたいの。何か良い唱や舞はないかしら』
次にお召しがあった時のために、と控えめに乞われて、役者ふたりで声を揃えて「得令!」と答えたものだ。将軍役の号令に応える群舞隊さながらに。
成り行きで喜燕を香雪付きの役者にしてしまって、本人たちがどう思うか──後で我に返って、燦珠は密かに焦ったのだけれど。香雪はさらりと喜燕を受け入れて得意を聞いていたし、喜燕は喜燕で新しい主人のためにと張り切っているように見える。これもまた、嬉しい変化だった。
(そう……そこは良かったんだけど……)
燦珠たちの演技を、香雪は褒めてくださるはずだ。先日の《鳳人相恋》──と、名付けた──も、経緯を聞いて驚き憤慨しつつも、素晴らしかったと絶賛してくれたから。皇帝も、寵妃からの心遣いとなれば無碍にはしないだろう。偉そうなことを言った燦珠を咎めなかったのは、多少なりとも華劇を見直してくれたのではないかと思いたい。
(敵を降すために奮闘する志勇将軍は今の天子様の喩え。離れていても貞節を貫く小佳夫人は香雪様──で、失礼はないわよね? 失礼が、ないように演じれば!)
喜燕と《天一涯》を演じたいと伝えたら、隼瓊は喜んで稽古をつけると言ってくれた。全力を尽くしての演技が気に入ってもらえなかったとしても、未熟を恥じてさらに研鑽を積めば良いだけのこと。今の段階で不安になるのは、喉も手足も委縮させてしまうだけだ。
そんなことは分かっているから──だから、心臓が嫌な鼓動を刻んで落ち着かないのは、皇帝の御前での演技を思って緊張しているからだけではない。和やかに笑い合う喜燕と星晶が、時おり言葉を途切れさせては真剣な面持ちをするのも、同じ理由ではないだろうか。
「私も頑張らないとな。華麟様のために……」
「謝貴妃様も……その、塞いでいらっしゃるの? 星晶がいても?」
ほら、まただ。ふと呟いた星晶の声が思いのほかに翳っていたからだろう、喜燕が心配げに声を掛けた。
「変わらず褒めて、笑ってくださるよ。でも、私に気を遣われている節を感じてしまってね。……これでは役者失格だ」
寂しげに笑った後、星晶は息を吐き──横一字の姿勢から脚を揃えて、前転した。着地した瞬間に、足のばねを使って後空翻。さらに反動を床についた掌で受け止めて跳ね起きる──流れるような見事な倒三丁を決めておいて、けれど燦珠を見下ろした星晶は困ったように眉を下げていた。
「燦珠には言いたいこともあるだろうけれどね。私は、秘華園の役者であることを誇りに思っていたよ。この背丈では普通は嫁ぎ先を見つけるのに苦労するから」
「そんなこと言う男は私が張り倒すわ。っていうか、謝貴妃様が張り倒すわね!」
言いながら、燦珠は双飛燕を跳んだ。──跳躍して、宙で両脚を跳ね上げる。倒三丁と同様に、毯子功の型のひとつだ。高く跳んで──ぴたりと着地してから、燦珠は星晶の顔をそっと見上げた。
「この前、金子のご褒美を望まなかったのは──私は、そういうのは違うと思っただけよ。役者がご祝儀をいただくのは……それだけなら、当然のことよ」
だから、何も華麟や星晶を批判するつもりではなかったのだ。何しろ秘華園の倣いは旧いというし、謝家に仕える星晶の立場もあるのだろうし。芸に対する褒美でないなら受け取れない、なんて言ってはいられないのだろうとは想像に容易い。
燦珠の言葉は、慰めなり言い訳なりになっていたのかどうか。星晶は彼女を見下ろすと、少しだけ笑みを深めてくれた。
「仮に嫁げたとして、侍女なりとして華麟様のためにできることは限りがあるしね。皇族方の前で演じて、褒章を得て、謝家の繁栄に貢献する──身体ひとつでこれほどのことができる者は、男でも多くないだろう」
「星晶は、素敵だよ。趙家にも評判が届いていたもの」
いつの間にか、喜燕も立ち上がっていた。かつての喜燕の主家にとっては、きっと謝家の星晶は競争相手だった。それでも、凛々しい男役の噂は、役者候補の娘たちをときめかせていたのかもしれない。
「ありがとう。……だから、より多くを望むのは分不相応だと、思うのだけれどね……」
微笑んで応じながら、それでも星晶の目を翳らせる憂いは晴れない。言い淀んだ彼女が何を言えないでいるのか──燦珠と喜燕にも察しがつくから、かける言葉も見つからない。
(歌も舞も、芝居は無力なものなの? ほんの一時の夢や幻を見せるだけで……)
観客がいなくては、芝居にならないというのに。今の後宮の観客たちは、それぞれに儘ならない悩みや憂いを抱えている。それを解決しないことには芝居も色あせるというもので──けれど一方で、役者に帝位を揺るがす陰謀なんて手に余る。一時の夢を見せることに専心するのだと、割り切るのが分相応なのかもしれないけれど。でも、それほど賢くもなれなくて──
「どうした、若い娘が揃っているというのに静かなことではないか」
と、低く柔らかな声が不意に響いて、娘三人は瞬時に居住まいを正した。
「隼瓊老師……!」
練習場の入り口に立つのは、今日も男装が麗しい隼瓊だった。拱手の礼で迎えながら──燦珠は目を瞠る。
「楊奉御! 珍しいわね、秘華園に来てくれるなんて!」
隼瓊の後ろに、影のように寄り添っていたのは、楊霜烈の見間違えようもない美貌と長身だったのだ。




