3.喜燕、正しくあるために
「わたくしは──皇帝の妃嬪になるためにここにいるのではございません。今上の陛下だからこそと、父に言われて参りました。いえ、翔雲様にお会いした今なら、娘として父の命に従うだけではなく、わたくしの心は定まっております」
沈昭儀の凛とした宣言を聞きながら──喜燕は、どうして自分がここにいるのか訳が分かっていなかった。
貴妃の殿舎のひとつ、永陽殿。
華劇好きの謝貴妃の趣味を反映してか、《夢境夜話》の歌詞さながらの庭園が瑞々しく美しい。建物の造りについて、趙貴妃瑛月が住まう喜雨殿とはどこがどれだけ違うのかは──喜燕に分かるのは、敷物の色と模様くらいだ。瑛月の前では、彼女は常に平伏して顔を上げることを許されていなかったから。
(なのに、なんで……?)
どうして、喜燕は妃嬪と席を同じくしていられるのだろう。男役として秘華園でも名高い星晶や、皇帝や皇太后にも認められた燦珠なら分かるけれど、どさくさ紛れで翠牡丹を手にした、彼女なんかが。
喜燕に過分の名誉を与えたのは、沈昭儀だ。皇帝を陥れる陰謀を目の当たりにして、臆しながらも正しくあろうとする綺麗な御方。白菊のようなその姿も、心の在り方も。
「わたくしは、ほかの方にお仕えする気はございません。万が一にも皇宮を去られるのでしたらお供します。たとえ泉下の国であろうとも。それこそが、奉天承運の御方の小さく暗き伴星としての矜持でございます」
そこまで強く言い切ってから、沈昭儀はふわりと左右に視線を彷徨わせた。左右──つまりは、燦珠と喜燕へ。謝貴妃に対しての毅然としたもの言いとは打って変わって、役者ふぜいに向ける眼差しは優しいから、戸惑ってしまう。
「もしもの時は、燦珠と喜燕のことを華麟様にお願いできますでしょうか。こういう時はどのようにすれば良いのか──あの、一筆認めればよろしいのでしょうか」
謝貴妃の忠告は順当なものに聞こえたのに、沈昭儀は聞き入れるつもりはないようだった。大輪の牡丹を思わせる謝貴妃の表情が悲しげに曇り、大きな目が悲しげに伏せられた。
「分からないわ。わたくしは、星晶を誰かに委ねるなんて考えたこともなかった。でも……ええ、香雪様がそう仰るなら、必ず……!」
* * *
永陽殿を辞した沈昭儀は、轎子に乗って自らの殿舎を目指している。燦珠と喜燕は、徒歩だ。日ごろから鍛えている身には歩くのは何らの苦ではないけれど、ただ、帯から提げた翠牡丹が重かった。
隣を歩く燦珠が、喜燕にもの言いたげな眼差しを向けてくる。後宮はそもそも静謐をもって旨としているし、今の騒動で空気はなおのこと張り詰めているから、口を開くことはできない。視線で応えてあげれば良いのかもしれないけれど、喜燕の頭は考えごとでいっぱいだった。
彼女が知る、ふたりの貴妃の違い。さらにそのふたりと沈昭儀の違い。後宮と秘華園の今後に、喜燕自身の行く末。いくつもの像が頭の中でぐるぐると混ざりうねり──浮かび上がるのは、あの舞台の翌日の記憶。宋隼瓊に、翠牡丹を渡された時のことだ。
翡翠の花のとろりとした艶に、ひやりとした冷たさ、精緻な花弁の細工は喜燕が焦がれたものだった。けれど、手にして良いものだとは思えなかった。彼女は秘華園で何ら芸を披露した訳ではない。隼瓊は徳高いと評してくれたけれど、そんな言葉が相応しくないのは自分が一番よく知っている。
『宋老師。私は──』
『私は、そなたの師、白秀蘭という御人をよく知っている。だからそなたが何を言おうとしているかはだいたい想像がつく』
瑛月からの密命を、さらに遡って玲雀を陥れたことを。おずおずと打ち明けようとした喜燕の声は、隼瓊のそれによってあっさりと遮られた。
『白老師の教えに想像がつくからこそ、そなたが為したことを尊いと思う。今、私に打ち明けようとしていることそれ自体も』
『そんな……』
男装姿で、微かな笑みを浮かべた隼瓊は、五十前の婦人とは思えないほど凛々しく美しかった。その姿も語ることも眩しすぎて、汚い喜燕を消え入りたい思いにさせた。けれど、隼瓊はすぐに笑みを消して小さい溜息をこぼした。
『これから騒がしくなりそうだ。正直に言って、余計なことは聞きたくない。沈昭儀の御心を慰めるのに専心して欲しいのだが──そうもいかないか』
そう──確かに。「陽春皇子」の身元を調べるにあたっては、隼瓊も証言に駆り出されるのだろう。
皇子の帰還から一夜明けた時点でも、役者たちは身の振り方を語り合い、主の指示を仰ぐのに浮足立って騒がしくしていた。若い弟子たちを束ねるのにも、きっと苦労するに違いない。
(私のことなんて、考えてる場合じゃないんだ)
優れた役者に、芝居以外のことを考えさせるのはもったいないにもほどがある。しかも、今の状況では喜燕なんかのために割く時間があるはずもない。
『申し訳ございま──』
『では、私の翠牡丹をご覧』
居たたまれなさを感じながら、喜燕が引き下がろうとした時──けれど、彼女の手に温かいものと冷たいものが同時に触れた。
前者は隼瓊の手、後者は隼瓊の翠牡丹。
いずれも畏れ多くて、悲鳴を上げて放り出そうとしてしまった。繊細な翡翠の細工を投げ出さずに済んだのは、隼瓊の指がしっかりと彼女のそれを捕らえて離さなかったからだ。
隼瓊は、喜燕の指を導いて翠牡丹の花弁の裏を探らせた。
(何か刻まれている……文字……?)
名高い男役の役者と手を取り合い、顔を寄せられていることにどきどきとしながら。それでも喜燕の指は、翡翠の硬く滑らかな表面に微かな凹凸があるのを感じ取った。
喜燕の目に疑問が浮かんだのを読み取ったのだろう、隼瓊は軽く頷いた。長い指先が翡翠の花を裏返すと──そこに刻まれているのは、宋隼瓊の三文字だった。
『文宗様の御直筆を写して刻んだものだ。驪珠以降はめっきり絶えたが、かつては特に優れた役者は翠牡丹に名を刻む栄誉を賜ったものだ』
先帝からの恩賜と聞いて、喜燕の手が震え始めたのを感じたのだろうか、隼瓊はそっと翠牡丹を取り上げた。元通りに隼瓊の袍を彩る艶やかな翠を眺めながら、胸の動悸を宥めながら、喜燕は彼女の師のことを思い出していた。
(白老師はそんなこと言ってなかったな……)
白秀蘭がその名誉に浴していたなら、必ず喜燕たち教え子に誇っていたはずだ。ならば、あの女は秘華園の本当の頂点に立つことはできなかったのか。喬驪珠が相手では分が悪すぎたのかもしれないけれど。
(自慢……じゃない、と思うけど)
宋隼瓊と白秀蘭は、どうやら不仲なようだ。とはいえこの流れでただの自慢話をする必要もないし、何より隼瓊はそういう人ではないだろう。では、これも何らかの教えなのだろうか。
新しい師の答えを待って喜燕が居住まいを正したのを見て取ってか、隼瓊は満足そうに微笑んだ。
『燦珠も星晶も、今の子たちが持つ翠牡丹は不完全なものなのだ。だから気負わずに持っていなさい。そなたがそれを得た理由を忘れさえしなければ良い』
轎子を担ぐ宦官たちと、自身のと燦珠の足音を聞きながら、喜燕は隼瓊の言葉を噛み締める。彼女が翠牡丹を得たのは、芸を認められたからではない。燦珠の衣装が損なわれた不正を、見過ごすことができなかったからだ。
(私は、徳高くあらねばならない。正しい振る舞いをしなければならない)
かつての喜燕の主、趙貴妃瑛月は正しくないのだろう。あの御方は、燦珠を陥れることを指して余興と言ったから。
つまりは、より主となる演目──陽春皇子の帰還──があるのをあらかじめ知っていたのだ。ならば「陽春皇子」その人も、彼におもねる妃嬪も正しくない。
静観を決め込む謝貴妃華麟は──賢明ではあるのかもしれない。けれど、正しくなければならない喜燕にはそのように半端な振る舞いは許されないだろう。だから──
(沈昭儀様にお仕えできて良かった。優しいだけでなく、今の後宮で誰よりも心正しい方……!)
轎子の上の白い横顔をそっと見上げて、喜燕は密かに決意した。
燦珠に強引に引き入れた彼女のことを迎えてくれて、貴妃と同席させてくれた。万が一の時まで案じてくれた。この方のために演じることができたなら、少しでも慰めになれたなら。翠牡丹に恥じることはないと、思うことができるかもしれない。




