2.燦珠、厳しい現実
謝貴妃華麟は、今日は華劇から抜け出たような斉胸襦裙を纏ってはいなかった。
牡丹のようなふんわりとして華やかな美貌には、繻子で仕立てた艶やかな長襖も良く似合う。けれど、彼女が香雪と、その後ろに従う燦珠と喜燕に向ける微笑は、萎れた風情があった。
(やっぱり、大変なことが起きているんだわ)
燦珠と星晶が皇太后と皇帝の御前で舞ったあの日、掉尾を飾ったあの一幕は、華麟が、華劇のことだけを考えていられなくなるくらいの一大事、ということだ。
あれから十日ばかり、秘華園の役者たちは落ち着きがないし、隼瓊も稽古をつけてくれるどころではなく忙しそうだ。この間に香雪が皇帝に召されたのもただの一度だけだ。至尊の御方でさえ、愛する女に会うのも儘ならないほどに多忙を極めているらしい。
(すべては、『陽春皇子』が還ったから……)
伝説の花旦、喬驪珠の名ばかり気にして、その御子の行方を深く考えて来なかった燦珠はきっと迂闊だったのだろう。行方知れずだった御方が生きていて良かった、なんて言っていられる事態ではないのだけは、承知していたけれど。
「香雪様。ご機嫌は──麗しくないのでしょうね」
「謝貴妃様──華麟様。お伺いしたいことがあって参りました」
香雪の声も、いつになく硬い。燦珠たちが窺えるのは、彼女の披帛を纏った細い肩だけだけれど、いつもの優しい笑みを浮かべているのでないであろうことははっきりと分かる。そもそも、永陽殿へ──上位の貴妃のもとへ乗り込むようなことをするのも、控えめなこの方らしくないのだ。
震えていながらも、香雪の声音は確実に詰問の調子を帯びていた。
「以前、何があっても仲良くしてくださると仰ってくださいました。あれは──何が起きるかをご存知だったからなのですか……!?」
挨拶も忘れるほどの動揺ぶりが痛ましくて、燦珠はそっと喜燕と視線を見交わした。いつも通りの男装で、華麟の隣に控える星晶も、きっと彼女たちと同じ思いだ。翠牡丹を得た役者なんていっても、非力なものだ。心を痛め憔悴する主たちを慰めることもできないのだから。
「まさか……!」
そう──華麟も心を痛めている、と見えた。細い首が激しく振られ、紅い唇が苦々しげに歪んで、強い言葉を吐き捨てる。
「あんな馬鹿馬鹿しい茶番を見せられるとは思ってもいなかったわ。あんな、下手くそな上に恥知らずで、皇太后様の御心も亡くなった御方も踏みつけにするような……!」
「華麟様……」
香雪の声がわずかに緩んで、安堵の感情が滲んだようだった。華麟と、あるていどは思いを同じくできていると分かったからだろう。けれど、背筋の緊張が完全に解けることはない。貴妃でさえも、悔しさを露にすることしかできないのだとしたら、状況の難しさがいっそう突き付けられたことになるからだろう。
「座ってちょうだい。少しでもわたくしを信じてくださるなら、だけど」
燦珠たちも、円い卓を囲んだ妃嬪と同席する光栄を賜った。前回は活けた花の代わりに場に彩りを添える存在として呼ばれたのだろうけれど、今回については華麟と香雪の好意による計らいだろう。外朝や後宮で何が起きているかを、役者たちにも聞かせてやろう、という。
事実、華麟は茶で口を湿した後、香雪だけでなく燦珠たちにも等しく眼差しを注いでから切り出した。
「何があっても、というのは……陛下がお志を遂げられないことになっても、というだけのつもりだったわ。分かるでしょう。清く正しいだけでは政は儘ならないのよ。そうなったら、陛下も、陛下をお慕いする香雪様もお辛いだろうと思ったから……」
皇帝の清廉さを嫌う者もいる、ということだろうか。そのこと自体は、分からないでもないけれど──
(天子様に逆らう奴がいるなんて……ううん、いる、んでしょうけど……)
華麟は、以前にも香雪に忠告してくれてはいたのだ。あの時は漠然とした不安を感じただけだったけれど──というか、燦珠は今もなお、何をどう不安に思えば良いのか腑に落ちていないのだけれど。
(そりゃ、皇子様を騙るなんて畏れ多いことだけど)
詐称ならすぐに露見するのではないか、とか。その割には「陽春皇子」の機嫌を伺おうとする妃嬪が多いらしい──秘華園の役者の動きで分かる──のか。その辺りが、分からないのだ。
「翔雲様は、『陽春皇子』は偽物に違いないと──皇太后様がお間違えになっているなら、お諫めし奉るのが当代の妃嬪の役目かと存じます」
「さすがは香雪様ね。とても、正しいわ」
香雪も抱いているらしい疑問に、華麟は苦い笑みを浮かべながら頷いた。細い指がくるくると動いて、宙に文字のような図形のようなものを描く。彼女の頭の中では、関係者が配置されているのかもしれない。
「『陽春皇子』を本物として認めさせる。文宗様の御子であることを理由に、あのお人こそが帝位に相応しいと喧伝する。そうして陛下を首尾よく退位させたら、次は『陽春陛下』は不幸な病気か事故で崩御されるの。そのさらに次に即位するのは、瑞海王様の御子のどなたかになる──瑞海王様のお考えは、こんなところでしょうね」
燦珠と香雪が息を呑んだ一方で、星晶と喜燕はそっと目を伏せている。彼女たちのほうが、権謀術数というものに慣れているらしい。目を見開いて卓を見渡した香雪は、華麟の説明に納得している者がいるのを悟ったのだろう、白い頬をさらに青褪めさせた。
「畏れ多い企みです。まかり通って良いはずがございません」
「本当に。けれどね、多くの者は自身の損得で考えるのよ」
宥めるような華麟の声は、ひどく弱々しかった。鋭く正しい香雪の視線から逃れるように、彼女は庭園に目を向ける。
貴妃の自慢のはずの庭園は、この間に季節が進んで白木蓮が残雪のような清らな花を咲かせている。たぶん、誰にとってもさほどの慰めにはなっていないのだろうけれど。卓上を彩る茶菓も花園のようだけれど、やはり手を付ける者はいない。
華麟の溜息が、冷めつつある茶の水面にさざ波を立てた。
「恐らく、だけど──わたくしたちは今の殿舎を追われることはないわ。何度も妃嬪を入れ替えるのは手間だしお金もかかるし、娘を送り込んだ諸家も納得しない。瑞海王様は、妃嬪の地位と引き換えに支持か、少なくとも黙認を求めるおつもりでしょう」
「天をも恐れぬ大罪を黙認するなど──」
「良くないのは百も承知よ。わたくしだって、どこの誰とも知れぬ男に侍るつもりはないわ。いいえ、わたくしより何より、絶対に星晶を触れさせたりしない……!」
華麟がきっ、と睨んだのは、後宮の東のほうだ。「陽春皇子」は、皇太后の御傍、その方角に起居しているらしい。
十五年振りの帰還を祝って、挨拶に伺う太妃が列をなしているというし、妃嬪の中にも無聊を慰めるとの名目で役者を送る方々も多いらしい。秘華園が騒がしいというのは、そのためだ。今上帝の妃嬪が身元の定まらない殿方の前に出るのはあり得ないけれど、未亡人となった太妃たちや、あるいは役者ふぜいなら問題ない、らしい。
(どこの誰とも、って……謝貴妃様も『あの人』が偽物だと思っていらっしゃるのに?)
あの日──皇太后の言動にどこか不安を感じた燦珠は、正しかったらしい。とても高貴な、けれど老いたあの御方は、夢と現実、望むことと実際に起きたことの区別がついていない。
子を思う母──実母ではないけれど──の思いが何より強いのは、華劇の筋書きでもよく見る通り。愛し子が手の届かないところに行ってしまったと受け入れるよりは、見目良く成長した姿で目の前に現れてくれたと信じたい、のだろうか。
(とても強く思い込んでしまわれている、のね……誰の忠告も届かないくらい。迂闊なことを言えば皇太后様のお怒りを買ってしまう──そうなることを見越しての芝居だった……?)
皇太后の心を踏みつけにしている、と華麟が憤ったのはそういうこと、なのだろうか。
(芝居を馬鹿にしてるわ……!)
芝居は夢や幻を見せはするけれど、人を欺くことはしないはず。瑞海王とかいうお偉い人は、燦珠たちの舞のすぐ後で、彼女たちの演技もダシに使ってひと芝居打ったのだ。今さらながらに利用された悔しさと腹立たしさが込み上げて、燦珠は馬面裙の襞を握りしめた。
「……問題はね──」
と、強い口調から一転して、華麟がまた溜息を洩らした。星晶は主に気づかわしげな目を向けているけれど、口を挟むことはできないようだ。政は、役者の出る幕ではないから。
「今、わたくしたちが何をするか、しないのか──よく見られているし忘れられることはないということよ。ことがどちらに転んでも、ね。どうなるか分からないから、わたくしは動いてはならないと言われたわ。最低限、どちらにも与しないように、と。香雪様にもそうなさるのが安全だと思うの。……どうかお怒りにならないで」
華麟の懇願するような眼差しを、香雪は仮面のような無表情で受け止めた。美しい面なのに、瞬きさえもしないのが恐ろしい。深い色の目は、激しく怒りを燃やしているようにも、華麟の日和見に失望しているようにも見える。あるいは、皇帝を思って悲しみを湛えているのか──燦珠が香雪の想いを読み取るよりも先に、紅を刷いているのになぜか白く見える唇が、静かに動いた。
「ご忠告は痛み入ります。わたくしのために仰ってくださっていることと、疑ってはおりません」
「燦珠や、その子のためでもあるのよ……? 陛下に何かあって、貴女にも累が及ぶことになったらどうするの……!?」
不意に名を呼ばれて、燦珠と、隣に席を占めていた喜燕は小さく跳ねた。役者たちも巻き込んで、香雪の冷たく凍ったような仮面を溶かそうとするかのように、華麟は切々と訴えた。
「わたくしも星晶を守りたいの。そのためには付け入る隙を与えてはいけないの。あの……ほら、陛下だってお調べになっているのでしょうし。わたくしたちが何もしなくても、すべて上手く行くかもしれないわ? 嘘が暴かれて、罪人は裁かれて……」
これが華劇の脚本なら、きっとそうなるのだ。悪は栄えず、正義は苦難を乗り越えて必ず勝つ。善き人は報われる。
でも、これは芝居ではないのを誰もが知ってしまっている。




