9.包青天、名口上
皇太后の下問に、燦珠の隣に平伏していた星晶が、さらりと答える。
「相手役がいなければ私には何もできませんでした。今日の誉れは、すべて燦珠のものでございます」
彼女は、皇太后から御言葉を賜るのも初めてではないのだろう。いつも通りに涼やかな声が格好良い。皇太后の意にも叶ったようだ。
「まあ、無欲だこと。華麟は? それでよろしいの?」
皇太后が余所を向いて尋ねたことで、燦珠は謝貴妃華麟がいるらしい席を知った。香雪の席を鑑みるに、皇帝と皇太后を中心に、妃嬪は序列に従って配置されているらしい。それなら、先に発言した刺々しい美女も貴妃のようだ。
「……はい。わたくしは、わたくしの星晶の晴れ姿をご披露できて、それだけで嬉しゅうございます」
華麟は、答えるまでの一瞬の間に思考と計算を巡らせたのではないか、という気がした。演目を内容を変えたことはもちろん、何らかの不測の事態が起きたのは当然気付いているだろうし、星晶の言葉から、先の演技が燦珠の発案だとも察してくれたのだろう。
役者への褒美や祝儀の名目で贈られる金子は、華麟の実家の謝家もアテにしているはず。けれど、星晶本人が固辞してしまったし、感心した風の皇太后の機嫌を損ねてまでねだり取ろうとするものでもないと結論した、辺りではないだろうか。
(今回は譲ってくださるということ、よね……?)
華麟は、秘華園の倣いに疑問を持っていないようだった。褒美を得ることが香雪のためにもなると、考えているようだった。燦珠がこれからしようとしていることを知ったら、呆れるだろうか。秘華園の在り方に一石を投じたい、だなんて言ったら、不遜だと眉を顰められるだろうか。
「では、燦珠とやら。何でも望みを言いなさいな。そなたの主の分まで存分に──哀家が、叶えてあげましょう」
どこまでもにこやかな声の皇太后も、役者とは主家の利害を代弁するものだと理解しているらしい。でも、燦珠は何を願うかをもう決めているのだ。だから、迷うよりも先に、どうでも良いところに一瞬だけ意識を取られてしまう。
(哀家って本当に言うんだ……!)
皇帝の未亡人だけが使う一人称は、華劇の歌詞や台詞としてはたまに見るけれど、実際に使われる場面に遭遇するのは初めてだった。
そんな高貴な御方に拝謁する機会なんて、当然のことながらそうそうあるものではない。舞台ひとつで巨額の金子が動くことといい、ほとんどの者がそれを当然と受け入れていることといい、後宮とは世間とは異なる道理や常識がまかり通っているらしい。
「では──恐れながら、お願いがひとつ、ございます」
彼女の望みが秘華園にどう受け止められるのか──半ば恐れ、半ば胸を弾ませながら、燦珠は切り出した。
「星晶は私の手柄と言ってくれましたが、私にはさらに恩がある者がおります。練習に付き合い、日々の生活でも支えてくれた──崔喜燕なる者に、翠牡丹を賜りますよう。共に、沈昭儀様にお仕えしたいと存じます……!」
今朝までは、市井での相場相応の金子を強請るつもりだった。無料で演じる訳にはいかないけれど、舞は舞でしかないのだから、と。でも、先ほどの騒動と、喜燕の顔色を見た後で、考えが変わったのだ。
(あの子にあんな顔をさせる主とは、引き離してやらなくちゃ!)
燦珠が無事に舞ったことで、喜燕は罰せられてしまうかもしれない。そうでなくても、また彼女や星晶に仇なす命を下されるかもしれない。自身の無事を望む以上に、役者に芝居以外のことをさせて思い悩ませる主など百害あって一利なしだ。喜燕とは──もっと真っ当に、技だけで競い合いたいと思う。
幸いに、皇太后は燦珠の願いにさほど驚くことなく、むしろ手を叩いて喜んだ。
「秘華園に良い役者が増えるのは大歓迎よ。その子は、唱が得意なのかしら。それともそなたのように、舞が?」
それはもう、喜燕はその名の通りに燕のように軽やかに踊るのだ。でも、燦珠が勢い込んで答えるより先に、低く、落ち着いた声が割って入った。
「崔喜燕ならここにおります」
この短い間にすっかり馴染んだ、しっとりとした声に、燦珠は目を見開いた。隼瓊だ。先ほど彼女自身も演じたはずだし、ほかの役者の監督に忙しいころ合いのはずなのに。しかも、燦珠の隣、星晶がいる反対側に平伏した気配はふたり分だった。
(え? 喜燕も来てるの? どうして老師と……?)
確かめようにも、皇太后の御前では迂闊に視線を動かすことができない。ただ、老いた高貴な御方のはしゃいだ声を、床の敷物を見つめながら聞くだけで。
「まあ、隼瓊! さっきの包青天もとても良かったわ。もっと褒めてあげたかったのに、そなたときたらすぐに行ってしまうのだもの」
「申し訳ございませぬ。娘たちの面倒を見なければなりませんでしたので」
「そなたは本当に良い子たちに恵まれているわね。今の舞はそなたと驪珠を思わせたくらいだったのよ」
「もったいない御言葉でございます」
隼瓊も、皇太后とのやり取りに臆した様子はまったくなかった。称賛の御言葉もさらりと受け止めるのはさすがの貫禄だ。たぶん、驪珠と共演した時代からの付き合いなのだろう。皇太后の言葉遣いもいっそう砕けて、親しげなものになっている。
「今の話を聞いていたかしら。本人がいるならちょうど良いわ、その子に翠牡丹をあげてちょうだい」
「──お待ちくださいませ!」
と、貴妃の席から上がった高い声に、燦珠はむ、と身体を強張らせた。先ほど彼女の非礼を咎めた、棘のある薔薇のような美姫の声だったからだ。香雪と敵対しているであろう御方が、どんな難癖を、と警戒したのだ。
「その娘は、我が趙家が育てた者でございます。未熟ゆえに婢を務めさせておりましたのに……小娘の一存で役者に召し上げるなど、教えた白秀蘭の立場がございませんわ!」
「でもねえ、瑛月」
……その貴妃の名は、瑛月というらしい。喜燕に、舞は正確さばかりが重要だなんて噴飯ものの教えを授けたという師の名と共に、燦珠は深く頭に刻んだ。油断できない、してはならない相手として。
「哀家は、燦珠への褒美の話をしているの。望みは何でもと、言ったでしょう? 秘華園では優れた役者が何ものにも勝るのよ。貴妃だろうと──皇后であろうと、ね」
「そのような……」
瑛月とかいう貴妃の喘ぎに少しだけ留飲を下げると同時に、皇太后のおっとりとした声の奥底に潜む冷ややかさにも気づいてしまって、燦珠は息を呑んだ。
(役者が一番、なはずはないと思う、けど……)
貴妃を黙らせるための方便というだけでなく、皇后でさえも役者の下位に置くかのようなもの言いは、不可解で不穏だった。もちろん、皇太后その人の発言に、だれも問い直すことなどできるはずもないのだけれど。
それに、怖いほどの冷たさを見せたのも一瞬のこと、皇太后はもうにこやかに隼瓊に語り掛けている。
「ね、隼瓊。良いでしょう? 秀蘭が教えた子なら、まったく見込みがないということはないでしょう」
「私は、この喜燕の功夫を見たことがないので、何とも申せませんが──」
隼瓊は、正義の裁判官、包青天の扮装のままなのだろうか。役柄そのままに落ち着いた声は、燦珠を安心させてくれる。この人ならきっと悪いようにはしない、と。
「徳の高きは芸の高きに如かず、と言います。この娘は、朋輩の燦珠と星晶のために勇気を奮い正しい行いを為しました」
とても頼もしく心強い一方で、隼瓊の奏上はとても不思議なものでもあったけれど。燦珠は、首を曲げて喜燕に話しかけたい衝動と必死に戦わなければならなくなった。
(喜燕、いったい何をしてくれたの……?)
この言い方だと、衣装のことを隼瓊に報告してくれただけ、ではない気がする。頭飾の羽根飾りを取ったり、歌詞を考え直したりする手伝いも、とても嬉しかったし助かったけれど、それもすべてではないような。でも、今はまだ聞き出すことはできないのがもどかしい。
「残念ながら、昨今の役者には芸は高くとも徳なき者、あるいは両方を欠く者もいるようございます。私としても、翠牡丹を新しく授けるならば、理非を知る者に、と存じます」
隼瓊は、燦珠の衣装を損ねた者にも釘を刺してくれたようだった。そんなことをする者には、本来翠牡丹は相応しくないのだ、と。
(これは、最高の結果じゃないかしら!?)
嫌がらせをした者には何ひとつ得はなく、燦珠と星晶は称賛を、喜燕は翠牡丹を得ることができた。道理に適った顛末を見れば、皇帝の秘華園に対する心証も良くなると思いたい。
「つまりは、そなたも賛成なのね? 良かったわ……!」
皇太后の反応は、どこまでも華劇と役者だけに心を締められているようで、隼瓊の言葉をどこまで分かってくださったのか、心もとなくはあったけれど。
(でも、無事に終わった、のよね……?)
これで、下がれる。いったい何があったのか、喜燕と話せる。霜烈にも、即興の舞台の感想を早く聞かせて欲しい。そう思って、燦珠が息を吐きかけた時──客席の誰かが立ち上がる衣擦れの音がした。そして、朗々とした男の声が響き渡る。
「いやあ、素晴らしい一幕でございましたな!」




