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【書籍1、2巻発売中】煌めく宝珠は後宮に舞う  作者: 悠井すみれ
第一部 四章 鳳翼一閃、暗雲を払う
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7.喜燕、密かな初舞台

 ほとんど即興で舞台に向かう燦珠さんじゅ星晶せいしょうに比べると、喜燕きえんにできることは悔しくなるほど少なかった。


 燦珠の化粧と着替えを手伝って。持てる限りの華劇ファジュの知識を振り絞って、燦珠の発案の筋書きに沿った新しい詞を考えるのを手伝って。そして、楽師の宦官たちに、演奏は()()()()()()予定通りに行うように頼み込んで。──それくらいしか、できなかった。


(直前で曲まで変えるのは確かに危うい……だから、燦珠の言う通りにすれば最小限の変更で済むのかもしれない、けど……!)


 直前で振付を変えた燦珠に、変更は比較的少なくしたとはいえ、その相手役と合わせなければならない星晶に。歌詞は小娘三人が頭を寄せ合って考えたもの。さらには、皇帝や皇太后の御前で、失態が許されない場面なのに。


 衣装を損ねた者たちへの怒りによってか、ふたりとも気力というか闘志満々の面持ちだったけれど。果たして上手く行くのかどうか──祈ることしかできない身が、もどかしくてならなかった。


 ひとり楽屋に取り残されると、燦珠の憤りの叫びがじわじわと喜燕の胸に刺さっていく。


『それでやるのが足の引っ張り合いだなんて馬鹿みたい。みんな──もっと真面目に華劇ファジュをやれば良いのに!』


 燦珠の傍についてからというもの、喜燕は夜も眠れぬほどに思い悩んできた。でも、それは彼女が言うところの足の引っ張り合いのためでしかなかったと、気付かされてしまったのだ。


(私は──華劇ファジュをちゃんとやって来なかった。燦珠にかなうはずがなかった……)


 きっと、玲雀れいじゃくの時もそうだった。燦珠なら、自分以上の名手に逢えば目を輝かせて競おうとしたはず。汚い手段に訴えようと思いついた時点で、喜燕は役者として負けたのだ。


 同行トンハンシィ冤家ユアンジャー──役者同士は仇同士なんて、嘘だったのだ。


 そう教えられたのだからしかたない、だなんて言えるはずがない。燦珠に()を盛らなかったことを、誇れるはずもない。追及する時間がなかっただけで、燦珠は喜燕の悪意に気付いたのだろうし、巡り合わせによっては燦珠の舞台を台無しにしたのは彼女だったのかもしれないのだから。


 損なわれた衣装で、それでも胸を張って舞台に臨む燦珠は、眩しかった。同じくらい輝かしく、なんて望まない。どうすれば、せめてあの眩しさを直視できるのだろう。


 唇を噛んで、考え込む──喜燕の脳裏に、ある考えが閃いた。


(今の秘華園は間違っている……なら──)


 正さなくては。舞台に立つことができない、役者の資格もない喜燕にもできることはあるだろう。


      * * *


 喜燕はまず、衣装を保管する倉庫に走って、使う予定もないのに消えているものを確かめた。そのうえで、深刻な表情を装ってげじょ仲間にそっと囁いた。


「ねえ、《桃花流水(タオファリウシュイ)》が舞える方を知らない?」

「え、どうして……?」

「うちの燦珠様の衣装が、ね。それで落ち込んでしまわれて」


 少しでも燦珠を知っている者なら信じるはずがない出鱈目を聞かされて、けれどげじょたちは気の毒そうにまあ、と呟いた。同時に、役者同士のいさかいに、関わり合いになりたくなさそうな気配も感じたから、喜燕はすかさず畳みかけた。


 役者になれなかった彼女にとっての初舞台は、少々後ろ暗くやましいものになってしまった。──でも、なかなかの熱演ではあると思う。声を潜めて、周囲を窺って。いかにも身を乗り出して聞きたくなるような加減にできたと思う。


「だけど、大事な日に穴を空ける訳にはいかないでしょう。星晶様だけでも、お得意の演目でどうにか、って──」


 げじょの大方には、関係のないことかもしれない。けれど、誰かにとっては願ってもない情報のはずだった。鳳凰の羽根をむしった者にとっては、思い通りの展開になっているということだから。自分から申し出るよりも、星晶の求めに応じた形にできれば名分が立つと、考えるだろうから。


 ()を撒いた後、喜燕は燦珠の隣の星晶の楽屋で待った。いくつかの演目の調べや客の歓声を遠くに聞くことしばし──扉が、勢いよく開かれた。


 慌ただしい足音と共に飛び込んできたのは、甲高い声と色鮮やかな緞子どんすの刺繍の煌めきだった。──《桃花流水(タオファリウシュイ)》に登場する芸妓げいぎの衣装を纏った、喜燕の知らない役者。


「星晶! 大変なことになったわね! でも大丈夫、私が──」


 ただ、声は先ほど彼女を突き飛ばした者のそれだったかもしれない。とにかく──水袖シュイシウを手元に束ねて現れたその役者は、室内にいた者の姿を認めて立ち竦んだ。


「今日はそなたの出番はないはずだが。なぜそのような格好を?」


 もちろん星晶は、とうに燦珠と共に舞台袖に向かっている。空いた楽屋で待っていたのは、臉譜くまどりで顔を黒と白に塗り分けたそう隼瓊しゅんけいだ。先ほどまで舞台で演じていた彼女は、喜燕の──げじょふぜいの訴えに耳を傾けてくれたのだ。


「それは──あの」


 隼瓊が今日演じたのは包青天ほうせいてん、清廉にして厳格と名高い裁判官の役だ。


 正義を表す黒い隈取(くまど)りと、白くくっきりと誇張して描かれた眉によって眼光はいっそう鋭く、金糸の刺繍の龍が爪を広げて睨む衣装は、凛とした長身にさらに威厳を添えている。たとえ無辜むこの者でも、その前に立ったら背筋を正さずにはいられないだろう。


 ──では、実際に身に覚えがある者ならどうだろうか。


「星晶の相手役が急に出られなくなったと聞いたから……だから、代役を」


 飛び込んで来た時の喜色満面の体から一転して、その役者はみるみる青褪め、真冬の屋外に裸で転がされたかのように震え始めた。哀れな様子、なのだろうか。けれど、燦珠の心中を思うと喜燕は同情する気にはなれなかったし、隼瓊の声も眼差しも、氷の刃のごとくに冷たく鋭かった。


「そう。衣装が損なわれたのだ。何者かによって。……ずいぶんと手回しが良かったな?」


 まるで準備して待ち構えていたようだな、と。隼瓊の言外の言葉は、彼女のうたセリフさながらに、はっきりと響くように聞こえた。


「わ、私がやったと仰るのですか!?」


 血の気を失っていた役者の頬に、わずかながら赤みが差した。反論しなければ断罪される、とでも思ったのか、弾劾の矛先をらそうとしたのか。その女は喜燕に指を突き付けて喚いた。


「そのげじょが何を言ったのですか!? 主の迂闊うかつを棚に上げて何と非礼な──私は、あの娘の楽屋に近付いてもおりません!」


 確かに、声を聞いたと言っても証拠にはならないだろう。そもそも、喜燕はこの女が衣装を損ねた現場を見てはいない。ただ、隼瓊の心証を悪くすることで牽制になれば、と思っただけで。話の流れによっては、喜燕のほうこそ他人を陥れようとしたことにされかねなかったのは承知している。ただ──


「あの」


 この役者は演技が得意ではなさそうだ。余計なことを、口走ったのに気付いていないようだから。


「私が燦珠のげじょだと、よくご存知ですね……?」


 ここは星晶の楽屋で、隣にいるのは隼瓊なのに。役者が余所のげじょの顔をいちいち覚えるはずもないだろうに。……先ほどすれ違った時に、よほど気に懸けたのでもなければ。


「それは……っ」


 もちろん、それも十分に弁明が可能だった。たまたまそう思い込んだだけだと、言い張ることもできただろう。でも、そうする代わりに、その役者はその場にくずおれた。悲痛な、けれどどこか芝居がかった高い声が、顔を覆う掌の間から漏れる。


「……熱意が余ってのことでした。楓葉ふうよう殿の役者の出番が少なすぎると、貴妃様が! 私だって、星晶と舞えれば……!」


 だから、燦珠の衣装を損ねたのか。あるいは、だから代役の可能性に駆けつけたのか。自白とも言い訳ともつかないもの言いに、包青天ほうせいてん──厳格な裁判官の扮装をした隼瓊は、その役柄通りに冷徹に判決を下した。


「そなたを演じさせなかったのは相応の評価だと弁えよ。事故であれ故意であれ──欠員が出たからといって代役が務まるなどと、勝手に判断してはならぬ!」

「……は、はい……」


 泣き落としが通じないのを察したのだろう、その役者は消え入りそうな声で呟き、転がるように退出していった。その無様な姿は喜燕の胸に痛みを覚えさせた。哀れみというか、恐れによる痛みだった。ひとつ間違えば──燦珠に会わずに秘華園に入れてしまっていたら、自分もああなっていたのではないか、という。


(ううん、私はもう、あいつと同じだ……)


 演じたかったから、だなんて。他人を陥れる理由になりはしないのだ。すでに玲雀れいじゃくに対して犯した罪の意識のために、呼吸を忘れかけた──喜燕の意識を、隼瓊の深い溜息が現実に引き戻してくれた。


「……文宗ぶんそう様の御代なら知らず、当代の陛下、今の秘華園でこのような醜い事態が起きるとは思っていなかった。……私が甘かったのだな。燦珠にも星晶にも済まないことをした」


「燦珠も、自分の油断だと言っていました。それに──衣装がなくても、ちゃんと演じていると思います。あのふたりならきっと、大丈夫……あの、老師せんせいの顔に泥を塗ったりは、決して!」


 伝授した隼瓊に無断で振付を変えたのは、叱責されるべきことだったかもしれない。隼瓊自身も出番があったから、許可を取る時間がなかったのも事実なのだけど──燦珠と星晶のため、喜燕は必死に言い募った。そんな彼女を、隼瓊は興味深げな眼差しでしげしげと眺めて、問うた。


「《桃花流水(タオファリウシュイ)》の衣装を見分けたということは、そなたも役者候補だったのだろうな? 誰に習った?」

「あの……趙家に仕える……(はく)秀蘭(しゅうらん)老師せんせいに」

「ああ……」


 隈取りによって黒く塗られた隼瓊の唇が、苦い笑みの形に歪んだ。喜燕が師事したあの老女は、かつて秘華園の役者だったとか。


 隼瓊よりは幾らか年上のはずだけど、同じ舞台に立ったこともあるのだろうし、この表情を見るに何らかの経緯もあったのだろう。けれど、経験豊かな役者は、小娘にそれ以上の内心を窺わせることなく、すぐに穏やかな微笑を纏い直していた。


「あの御方がそなたのような子を育ててくれるとは意外なこと。でも……嬉しい出会いになった。燦珠のためにも星晶のためにも、礼を言う」

「そんなこと……!」


 きょう驪珠りじゅと並んで秘華園の歴史を彩る隼瓊は、喜燕にとっては遥かな高みにいる人だった。趙家にいてさえ、名舞台の数々の噂を耳にするほどに。生きた伝説と言葉を交わしただけでも震えるほどの光栄なのに、さらに頭まで下げられて。畏れ多さに、喜燕はその場に平伏しようとした。


 けれど、隼瓊の手は素早く、そして力強く喜燕の腕を捕らえて引っ張っていた。


「では、急ごうか」

「え?」


 どこへ、と。言葉にならない疑問を読み取ったのだろう。隼瓊は、今度は悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「私に相談もなしで、あの子たちが何を企んだものやら──今なら、まだ間に合うだろう」


 舞台の袖に向かおうと言われているのだと気付いて、喜燕の心臓は跳ねた。そうだ、ふたりの順番が来る前に、ということであの役者をおびき出していたのだ。隼瓊の一喝でことが済んだからには、今から走れば途中からでも見守ることができるかもしれない。


(燦珠たちの舞……見たい! 見なきゃ……!)


 たとえ何もできなくても、心臓が破裂するような思いをするとしても、友の晴れの舞台は間近で応援しなければ。


「はい……はい!」


 叫ぶように頷くと、喜燕は隼瓊と共に走り出した。

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