5.燦珠、闘志満々
後ろ手に扉を閉めた星晶が、喜燕に詰め寄った。普段は涼やかな目は化粧によって紅く彩られ、眉も濃くはっきりと描かれている。だから動揺と怒りによって吊り上がった眦はいっそう険しく鋭く恐ろしかった。
「……君がやったのか? どこかの貴妃にでも頼まれて……?」
「私、は──」
引き攣った悲鳴のような声を絞り出した喜燕を庇って、燦珠はぴしゃりと言い放った。喜燕と星晶の間に割って入ると、無残に毟られた羽根飾りがふわふわと舞う。
「いいえ! 喜燕は厨に寄ったんでしょ。昨日も遅くまで一緒だったし、こんなご丁寧なことをやる余裕はないわ」
庇ったのにもかかわらず、喜燕の顔色は変わらない。舞い散る色鮮やかな羽根のただ中で燦珠に振り返った時の、蠟のように真っ白な顔のままだ。だから、気付いてしまう。
「……燦珠。ごめん」
「良いの! 私だって浮かれてたんだもの!」
何に対しての謝罪なのか──喜燕の口から言わせないために、燦珠は強引に押し切った。
喜燕が犯人ではないのは確かだと思う。
でも、彼女はまったくの無実ではない。たぶん、燦珠に何かしようとしては、いたのだ。だから星晶が犯人と思い込むのも無理がないような顔をしているしのだろう。化粧を施した顔で睨まれる恐ろしさだけではなく、後ろめたさが、喜燕を怯えさせているのだ。
「あ、の……さっき、すれ違った人がいたんだ。顔は、見えなかったんだけど……婢や宦官に聞けば、怪しい動きをしていた奴が分かる、かも……?」
「犯人を捜しても衣装を直してもらえる訳じゃない──それよりも、舞台のことよ。そろそろ始まる、のよね……!?」
犯人の情報は、もっと誇らしげに告げても良いだろうに。それこそ罪を告白するようにおどおどと訴える喜燕は見ていられなかった。友達だと思っていた少女の哀れな、心細げな表情が、燦珠の怒りに油をたっぷりと注ぐ。
喜燕がいるから大丈夫、と。
霜烈に笑った燦珠は甘かったのだろう。でも、完全に間違っていた訳でもないはずだ。喜燕とは、仲良くなれていたはずだから。燦珠に対して何の情も湧いてないなら、この娘はこんなに震えて青褪めて、今にも倒れそうな有り様になるはずがない。
(喜燕はずっと悩んでた。悩ませた奴がどこかにいるのね……!?)
これまでの色々が腑に落ちて、燦珠は唇をきつく噛んだ。
試験の時の、喜燕の素っ気なさ。婢として接し始めてから見た、時に張りつめた、思い詰めたような顔。翠牡丹を見る切なげな眼差し。秘華園の役者が利権を生む存在なら、選考に臨む少女たちにも相応の圧がかかっていた、ということなのだろう。
これまで思い至らなかったこと、これも燦珠の甘さだった。
(でも、喜燕はそれでも私に何もしなかったわ……!)
妃嬪だか権門だかの不興を買うのだろうに。従えば、翠牡丹が得られたかもしれないのに。それでも思いとどまってくれたというだけで、十分だ。燦珠が知る喜燕は真夜中の練習に付き合ってくれる軽やかな舞手、それだけで良い。
最初の激昂から我に返ったのか、今は星晶の頬も青褪めていた。ただ、冷静さも取り戻してくれたのか、彼女はもう声を荒げることはしなかった。
「華麟様にご報告を。陛下や皇太后様への執り成しを願わなければ」
でも、星晶の提案に、燦珠は首を振ることしかできない。
「役者は客席に行くものじゃないし、舞台に穴を空けるのはもってのほかよ。これは……私の油断のせいよ。そんなの、天子様たちの知ったことじゃないじゃない」
客が茶園に足を運ぶのは、舞台を見るためだけだ。贔屓の役者がいたとしても、無様な出来を演じればたちまち野次や罵声を浴びせられる。まして楽屋でのもめ事なんて、知らされても興ざめだ。
役者は客に夢を見せるもの、逆に醒めさせてしまうなんて、燦珠の矜持が許さない。
「信用できない役者には二度と出番は回ってこない。お客様には、何かあったなんて思わせちゃいけないのよ。何があってもね!」
秘華園の役者と高貴な客たちは距離が近いから、市井の興行よりも少しは優しい環境なのかもしれない。
でも、役者としての心構えは同じはずだ。華麟の、無邪気な笑みを思い浮かべたのか、星晶も悔しげに唇を噛んだ。
「じゃあ……演目を、変えるか……? 燦珠、君ならほかにも舞えるのがあるだろう。私の得意と重なるのがあれば、隼瓊老師なら衣装を貸してくださるかもしれない」
「ええ……それができるなら……! 秘華園に保管されてる衣装があるのね?」
今度の案は、まだ希望が持てるものだった。《鳳凰比翼》の練度には及ばなくても、何も演じられない醜態よりは遥かにマシだ。頭の中で、手持ちの演目を考えながら燦珠が問うと、星晶もほんの少しだけ口元を緩めて頷いた。
「うん。定番の演目は、使い回すこともあるから──」
でも──星晶が言い終える前に、喜燕がか細い声であの、と訴えた。ふたり分の視線を浴びて、また可哀想なほどに青褪めながら、彼女は撒き散らされた羽根を見渡して、言う。
「これをやったのは──たぶん、星晶様を狙っているのだと思います。危害を加えるという意味ではなくて! 燦珠がいなくなれば、代役で相手役になれる、って──だから、使えそうな衣装は抑えられてる……かも……」
「即席の相手、しかもこんなことをしでかした者と踊れ、と? 馬鹿にされたものだな……!」
星晶の声が再び尖って、喜燕は打たれたように顔を伏せた。彼女を怖がらせるのはまったく本意ではないけれど──燦珠のほうも、冷静なふりで対策を考えるのは、もう限界だった。
(せっかく、考えないようにしていたのに! それどころじゃないのに!)
怒って喚き散らすだけ、時間が無駄になる。今は一秒でも早く、舞台をどうするかを考えなければいけないのに。でも、吐き出さないと腸が煮えくり返って収まらないのだ。
「馬鹿にしてるわよ、まったく。私や星晶だけじゃなくて、華劇そのものを、ね!」
自分のことより衣装のことより、燦珠の逆鱗を搔きむしるのはそこだった。ふざけるな、と。一度叫んで終わりにしようと思っていたのに、後から後から怒りの火種が湧いて出るのだ。
「後宮の外では、女が芝居をやれるのは当たり前じゃないのに。それも、こんな綺麗な衣装や舞台に、楽師まで揃って、天子様にも観てもらえるなんて! それでやるのが足の引っ張り合いだなんて馬鹿みたい。みんな──もっと真面目に華劇をやれば良いのに!」
何か言いたそうに口を開いて閉じた喜燕は、たぶん大真面目にやっている、と言いたかったのだろう。楽しさよりも正確さを追求していた──させられていた彼女にしてみれば、そう思うのかもしれない。でも、問題はそこではないのだ。
(秘華園の子たちは、余計なことを考え過ぎなのよ! 唄って踊って演じて、それ以外のことばっかり!)
怒りは、けれど燦珠の闘志も掻き立ててくれた。ふつふつと、滾るようなやる気が腹の底から湧いてくるのが分かる。
彼女は、やはり鳳凰を舞うべきだ。舞わなくてはいけない。芸を磨くより嫌がらせで出し抜こうとする連中を、真っ当なやり方で見返さなくては。朝、霜烈の前で回った時に想った通り──鳳凰の翼に、淀んだ秘華園の空気を一掃させるのだ。
「ねえ、星晶。私、やってみたいことがあるの」
そうと決めれば、やることもおのずと決まって来る。
強がりではなく、自然な笑みを口に浮かべた燦珠に、星晶と喜燕がぎょっと目を瞠る隙に、畳みかける。舞台の上での台詞のように抑揚をつけて。気分はさながら、背水の陣を敷いて臨む女将軍といったところかも。決死の覚悟で、将兵を鼓舞し戦いに駆り立てるかのような。
「無理難題よ。大失敗するかもしれない。その辺の子を捕まえて相手役にしたほうが、まだマシな出来になるかもしれないけど。でも、やりたい──やって見せないといけないと、思うの」
挑発めいた、不穏な誘いだとは思う。事実、星晶は一瞬だけ怯む気配を見せた。でも、本当に一瞬だけ。すぐに、爽やかで優しくて力強い──とても素敵な、格好良い笑みを返してくれる。
「無理難題をこなした君に言われると、逃げたいとはとても言えないな」
「……そう言ってくれたら良いなって思ってた」
相手の矜持につけこむ、ある意味卑怯なもの言いではあった。でも、これで星晶を巻き込むことができた。
(私ひとりじゃ、どうにもならないから……!)
了承を得たところで、燦珠は頭に浮かんだ計画を、もう一歩進めて説明しようとした。
「私たちは、やっぱり《鳳凰比翼》が一番上手く踊れると思う。でも、私の衣装がこんなだから──」
けれど、彼女の言葉を遮って、銅鑼の音が轟いた。舞台で、最初の演目が始まったのだ。燦珠と星晶の順番が来るまで、もう一刻あるかどうかだ。時間が、ない。
燦珠は、彼女が纏うはずだった衣装をきっ、と睨んだ。赤裸になった衣と比べて、被り物はまだ鳳凰らしい羽根飾りが残っている。──でも、彼女の計画には、邪魔だ。
「──とりあえず、被り物の飾りも取って、早く! やりながら説明するから!」
有無を言わせぬ彼女の声に急かされて、喜燕が弾かれたように被り物に手を伸ばした。




