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【書籍1、2巻発売中】煌めく宝珠は後宮に舞う  作者: 悠井すみれ
第一部 一章 梅花、おのずから匂い立つ
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3.雷将軍、奮戦する

 舞台では話が進み、幼君──を模した人形──を抱えた乳母が切々と落城の悲哀を唄っている。演じる役者には申し訳ないけれど、派手な動きが少ない場面では観客は雑談のほうに注意が向きがちだ。官座さじきせきに陣取る燦珠さんじゅも、正直言って観劇どころではない。彼女の人生を左右するかもしれない話を、これまで会ったことのない美形に囁かれては、起きていながら夢を見ているような心地だった。


(本当に……夢じゃないでしょうね?)


 ふと心配になって、燦珠は自分の頬を強くつねった。彼女の唄や踊りを誰かが見出してくれるのを、ずっと夢見ていた。でも、決して叶わないのも知っていた。父が言っていた通り、女の芸は余興でしかない。父の弟子たちも、彼女の演技を認めはしても同じ舞台に上ることは考えもしないだろう。


「──まるで私のことをよく知っているみたいな言い方ね?」


 頬の痛みを確認してから、よう霜烈そうれつに問いかけてみる。そう、この宦官はまるで燦珠の性格を把握しているようなもの言いをしたから、だからこそ都合が良すぎると思ったのかもしれない。


延康えんこうの巷を賑わせる花旦むすめやくの評判ならば聞いていた。街のあちこちに不意に現れ、喝采を攫って去っていくと──今日は、やっと出会えたと思ったものだ」


 そして彼は、蕩けるような声でさらに夢のようなことを言ってくれた。抓るためではなく、今度は紅くなったのを隠すために、燦珠は頬を掌で包んだ。


「そう……探してくれたのね」


 霜烈の言う通り──燦珠が街角で舞い唄ったのは今日が初めてのことではない。頑固な父の心を動かすか、奇特な人の目に留まるか。一縷の望みを託して、彼女は人の耳目を集めようと、噂の的になろうと努めてきた。父には怒鳴られ、時には野次馬に笑われながら。


(無駄ではなかった……!)


 感激に浸ったのも一瞬のこと、燦珠はあることに気付いて首を傾げた。


「ねえ、どうして爸爸パパはその、秘華園ひかえん? のことを教えてくれなかったのかしら」


 紅梅の花のもとでの一幕を振り返ると、父の詩牙しがは秘華園とやらのことを知っているようだった。女だけの戯班げきだん──そんな素敵な場所が存在するなら、燦珠の苦労は必要なかったのではないだろうか。


「天子様にお仕えするならちゃんとした──っていうか、名誉なお勤めでしょ? パパが心配してるみたいに嫁の貰い手がなくなるってことはないんじゃないの? ううん、行く気はないんだけど」


 霜烈を蹴り飛ばす算段をしたくらいには、燦珠への妾の誘いはありふれていた。屋敷の奥で踊らせてやるから、ということだ。燦珠は芸を見せたいのであって、色を売りたいわけではない。父に言われるまでもなく、その手の下心を見せた連中にはことごとく痛い目を見させて諦めさせてきた。──それもまた、余計な手間だったような。


「梨詩牙が考えそうなことには心当たりがある。が、本人に聞いたほうが良いだろう。どうせ、そなたの後宮入りについては父親を説得せねばなるまい」

「そうかもしれないけど……」


 父には、育ててもらった、技を仕込んでもらった恩がある。何を言われようと燦珠が変心することはあり得ないけれど、どうせなら父の了承を得たい。これまでの経緯からして、きっと簡単なことではないだろうけど。


(女が役者って、そんなにいけないことなの……!?)


 むう、と唇を尖らせる燦珠のことを、霜烈はもう見ていなかった。先ほどまで彼女に注がれていた熱を帯びた眼差しは、今は舞台に向けられている。……というか、燦珠と顔を合わせていた時よりもよほど、彼の目は熱く浮き立ち、頬も紅潮しているような。


「話は後で。ほら、らい将軍の出番だ。せっかくだから舞台に集中させておくれ」


 涼しげな声でさえ、どこかはしゃいでいるのを抑えているような響きがする。お世辞でも何でもなく、父の雷将軍を観るのが楽しみでならないらしい。彼女自身も十分に戯迷(芝居オタク)はあるし、父の技量が栄和国随一なのは間違いないからよく分かる。こうなった人間に何を話しかけても無駄だ。観劇の邪魔をすれば機嫌を損ねる恐れさえある。


「ええ……良いけど……」


 眼下では、軍勢を表す靠旗カオチーを背に負った父が舞台に上がり、それこそ雷鳴のように轟く美声で名乗りを上げているところだった。



 天呼喊我名姓 天が我が名を叫ぶ

 让大地裂開    大地よ裂けよ!

 雷将軍上陣了   雷将軍の出陣だ!



 銅鑼とかねに合わせた足さばきの、力強さと流れるような滑らかさ。頭を飾る翎子リンズ──長いキジの尾羽をしならせる、堂々たる亮相(見得)。確かに、細かな所作のひとつひとつ、台詞や歌の一言一句にいたるまで、決して見逃しても聞き逃してもならないと思わされる。梨詩牙の演技には、それだけの力があるのだ。


(私も、客席から見るのは久しぶりだったわ)


 それも、こんな特等席で。ならば後でできる話に意識を割くのは確かに野暮で、もったいないというものだ。燦珠も、椅子の向きを返ると正面から舞台を覗き込むことにした。

 彼女が隣に並んでも、楊霜烈はちらりとも視線を上げることはなかった。名優の名演を前に、一瞥いちべつたりとも小娘に向けるのは惜しいとでもいうかのような態度──でも、悪い気はしない。底知れない宦官で、何なら胡散臭いとさえまだ思っているけれど。


 華劇ファジュが好きな者に、きっと悪人はいないのだ。


      * * *


 終演後──茶園げきじょうから出る客たちは、一様に満足げな表情をしていた。舞台の余韻冷めやらぬようで、語り合う声も大きく、時に身振りを交えてはぶつかり合ったりもしている。


「今日の梨詩牙はやけに熱演だったな」

「城を守り切れそうな勢いじゃなかったか?」


出関チュグァンならぬ守関ショウグァンになってしまうか──」

「ともあれ熱の入った立ち回りだった。眼福だ」


 興奮した客たちを掻き分けるようにして、流れに逆らって楽屋へと向かう燦珠は、密かに苦笑した。確かに今日の父の演技はいつになく熱が入っていたけれど、彼女にはその理由に心当たりがあってしまうのだ。


(私のせい、なのかしらね……)


 今日の演目、雷照レイジャオ出関チュグァンでは、主役の雷将軍は城を背にして華々しい討ち死にを遂げるはずなのに。守り切れるのでは、と思われるほどの熱演は、筋書きにある幼い君主と、後宮に攫われようとしている──父の目線では、たぶんそうなっている──娘を重ねてしまったからではなかろうか。


(でもまあ、皆喜んでるなら良い、のかな?)


 茶園げきじょうを揺らした喝采の中には、楊霜烈が叫んだハオも混ざっていた。沈着そうな男が意外にも大声を出したこと、しかも演技を邪魔しない、余韻を壊さない絶妙な間を捉えたことに、燦珠は結構驚いたのだ。少しでも早く声を上げようとして悪目立ちする客もいる中で、通な真似をするものだ、と。ただの──本人の言を信じるなら──宦官でもこうなら、確かに後宮で華劇ファジュが盛んだというのも信じられる。


 つまりは、燦珠はいよいよもって父の説得に成功しなければならないということだ。決意を固めながら、燦珠は勢いよく父の楽屋の扉を開いた。


「──すごかったわ、パパ! 梨詩牙の新境地だったんじゃない? 娘として誇らしいわ!」


 捲し立てながら、靠旗カオチーや被り物を外して隈取(くまど)りを拭う父の膝元に擦り寄る。熱演を褒め称えつつ甘えることで、あわよくば市場での一幕を忘れさせたいというはらである。が、残念ながら父の目は娘ではなく、彼女が伴った黒衣の宦官をぎろりと睨みつけていた。手拭いの下から覗いたその目元は、隈取りがなくとも力強く凛々しくて、我が父ながら顔が良い。でも──


「……嫁入り前の娘をたぶらかしおって。()()()でなかったら殴り殺しているところだ……!」

「ちょっと、パパ──」


 物騒なだけでなく無礼極まりない、そして同時に怒りがありありと伝わる唸り声を間近に浴びて、燦珠は首を竦めた。でも、楊霜烈は罵倒を正面から受け止めて微笑み──優雅な所作で拱手した。


希代きたいの名優に、それも熱演の直後に対面する光栄に浴して大変嬉しく思う。そなたの娘の技量にも感嘆したが、なるほど血は争えぬということだったのだな」

「…………」


 丁重な口上を返されて、父は気まずそうにふいと横を向いた。敵意を剥き出しにされた上でのこの対応では、大人げない気分にさせられるのも無理はない。


(やっぱり『デキる』人なんじゃない……?)


 父が黙ったところで、霜烈は手近な椅子を引っ張って勝手に掛けた。その機に乗じて、燦珠もふたりの間のところに席を占める。霜烈の隣に並ぶのでは、さすがに父が気の毒だと思ったのだ。


 三者が位置についたのを見て取ってか、霜烈が口を開いた。美しく、そしてどこか妖しい笑みをうかべながら。


「そなたの娘は、後宮──秘華園ひかえん入りに大変乗り気になってくれた。父御ちちごからも快く送り出してもらいたいものなのだが……?」


 いきなりの本題に、燦珠は固唾を呑んで身を乗り出した。機先を制されたくらいで頷いてくれるような父でないのは、承知しているのだけれど。


「……女が演じる二枚目や豪傑役などお笑い草だ。そのような遊戯に混ざって何になる……!」


 口元を歪めて吐き捨てた父の声も表情も、思った以上に険しいものだった。

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2025年1月24日 角川文庫より1、2巻同時発売!

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