2.燦珠、決意の朝
当日、朝早く──華劇の会が催される祥寿殿への道すがら、木の陰に佇む黒衣の人影を見つけて、燦珠は跳び跳ねた。
その勢いのまま、軽やかにその人影の傍に走る。恐らくは貴人が風光明媚を愉しめるよう、芝居の背景としても利用できるよう、秘華園の道は曲がりくねり、歩むごとに景観を変える。そんな美しく不可思議な一角には、楊霜烈の白皙の美貌が実によく映えた。纏うのが、刺繍も鮮やかな袍ならより良かったかもしれないけれど、黒一色もすっきりしていてこれはこれで良い。
とにかくも、練習に夢中になるあまり、近ごろ会えていなかった顔だ。犬が尻尾を振る勢いで、燦珠は霜烈の顔を見上げて笑いかけた。
「楊奉御! 今日は見てくれるのね!?」
「隼瓊老師に言われれば否とは言えぬからな」
喜燕を雑用から引き離す件と同時に、燦珠は霜烈についても隼瓊に頼んでいたのだ。婢と同じく、宦官もこういう席では忙しいものかもしれないと思ったから。隼瓊と霜烈の間には浅からぬ縁がありそうだし、隼瓊も当然翠牡丹を持っているから、どうにでも連絡が取れそうだし。
「やっぱり! 頼んでみて正解ね!」
格好良い老師経由で、朝早くに道端でなら話ができそうだ、とは伝えてもらっていた。それでも実際に顔を見るまでは半信半疑だったから、燦珠はようやく安堵しつつはしゃぐことができる。
隼瓊と霜烈の関係はいずれ知りたいとは思うけれど、今は謎めいたこの男を動かす手段があると分かっただけでも十分だ。それに、彼のほうでも声を掛けに来るくらいには燦珠のことを気にしてくれているらしい。
「本当は、お仕事があるのかしら? 良くないことかもしれないけど、でも、見てほしかったのよね……」
「本当に問題があるならば老師も請け負ったりはなさらない。そなたの《鳳凰比翼》の時だけ、目立たぬように持ち場を離れようと思う」
「そう? そうできるなら良かった……!」
この美貌と長身で、目立たないように、なんてできるのかどうか。ものすごく疑問ではあったけれど、燦珠はひとまず安堵した。彼女よりずっと後宮に詳しいはずの彼が言うならできる、ということなのだろう。
燦珠だって、役者の特権を利用するのが良くないことくらいは承知している。不正とは金子が絡むことだけではなくて、贔屓とか横紙破りも入るのだろうから。それでも霜烈は彼女にとって特別な存在だった。どうしても舞を見て欲しいし──伝えておきたいことも、ある。
燦珠は、背伸びをすると霜烈の耳元に唇を寄せた。
「あのね、謝貴妃様ともお話して、天子様が華劇をお嫌いな理由が少し分かったの。華劇そのものっていうか、秘華園が、なのかしら? 色々と……あるみたいだから」
霜烈は、そもそも人目につきにくい場所を選んで姿を見せたのだろう。蛇行する道は、前後を行く者の姿を隠してくれる。婢や宦官が行き交う後宮の中でも、長閑な森にひとり散策する気分が味わえるのだ。
きっとそうやって、過去の皇帝も政務や俗世のことを忘れてきた。だから、声を憚る必要は本当はないのかもしれないけれど。それでも、言おうとしていることの内容が内容だから、燦珠の声は低くなる。
「それに、秘華園の役者たちも色々、なのよね? せっかく女が芝居をできるのに、何だか楽しくなさそうな子ばかりなんだもの」
「黙っていたことを怒っているか? 聞いたところでそなたの気が変わることはなかったと思うが」
唇を尖らせる燦珠に、霜烈の声は例によって平らかで涼やかだった。でも、どこか心配そうな響きが聞こえるのは、彼女の気のせいだろうか。
(ううん。この人だって感情があるのよ。少なくとも、私にやらせたいことがある──だから、機嫌を損ねたくはないのよね)
年上の男の人に対して覚える感情ではないかもしれないけれど。燦珠は、相手を安心させようと笑みを浮かべた。
「自分で気付かせたってことよね? 貴方、やっぱり狡くて賢くて雄献みたい……!」
「そなたはいつも私を買いかぶるな」
悪役として、華劇ではある意味人気の奸臣を挙げると、霜烈は穏やかな苦笑で応じた。最初は失礼だと思って口にできなかった喩えだけれど、今なら言える。笑って受けてくれると思えるくらいには、彼女たちの距離は近づいているはずだ。
だから──燦珠だって怒ったりなんかしていない。霜烈が教えなかったことにも、ちゃんと意味があるはずだと思う。
「むしろ、嬉しいわ。秘華園に来て、私がどう感じて何を考えるか、分かってくれていたってことだもの。……だからこそ、貴方に見てもらわなきゃいけなかったのよ」
「大それたことを考えていそうだ」
「そうかしら。そうかも? でも、当たり前のはずのことよ!」
共犯者の眼差しを交わして、燦珠は霜烈と笑い合った。大それたこと、が何なのか、きっと彼も少しは想像がついているはずだ。
「私は、今日は思い切り楽しんで演技するつもり。唱も舞も心から笑って演じ切るわ。楽しみながら、一番見事に踊るのよ。ほかの、難しい顔してこわごわ踊ってる子には負けないわ」
まだ眩い衣装は纏っていないけれど、簡素な短褐姿で、燦珠は両腕を広げて回ってみせた。《鳳凰比翼》の振付の一指しだ。千里を翔ける翼が、秘華園に立ち込める暗雲を払うと良い。それこそが、彼女が今日踊ることの意味になるはずだ。
「誰よりも見事に──天子様が華劇を見直すくらい。皇太后様がご褒美をくれるって言ってくださって、しかもそれを断っても怒られないくらい。そして、秘華園の役者のお手本になってやるの。芝居は、観るほうもやるほうも楽しくなくちゃ。っていうか、楽しいだけのものよ。後宮だの政だの関係ない。……そう、みんなに見せてやるの」
時おり浮かない顔を見せる喜燕も、燦珠の同行に目を光らせては陰口に余念がないほかの役者たちも。思い出せば良いのだ。無心に舞うことの楽しさを。
(やることが増える一方で大変なんだから、もう!)
最初は、自分のためだけだった。女の身で舞台に立ちたい一心だけ。後宮に入ってみれば、香雪のため、という理由が加わった。さらには皇帝の華劇嫌いに、秘華園に関する不正に、役者たちの楽しくなさそうな顔!
どれも、見たり知ったりしてしまえば放っておけないことばかり。簡単に解決できることばかりではないのも分かるけれど──
「それが秘華園のあるべき姿だと、私も思う。当代の陛下は英邁な御方。あの御方のもとで、健やかに清らかに栄えて欲しい」
ほら、少なくとも霜烈は頷いてくれる。そうだろうと思っていたから、本番前に会っておきたかったのだ。確かめることができた嬉しさと得意さに、燦珠は腰に手をあてて胸を張る。
「でしょう! 私を見つけて良かったわね?」
「うむ、まことに」
試験の後の時のように、霜烈が跪いて礼を述べてくれそうな気配を感じたので、燦珠は慌てて後ずさった。彼女にしてみれば当然のこと、何も感謝をされるようなことではないのだ。彼にも同意してもらって、改めて気合を入れたかっただけで。──その目的は、十分に果たすことができた。
「じゃあ、私、そろそろ行くわね。着替えと化粧があるから。できればほかの子の演技も見たいし……!」
「そうすると良い。……念のために言っておくが、出番を終えるまで食べ物と飲み物には十分注意せよ。目立つ役者はとかく妬まれるものだ」
手を振ろうとしたところに、霜烈がくれた忠告はもっともなもの、けれど同時に無用のものだった。だから燦珠は笑って答える。手を振って、走り出しながら。
「ありがとう! でも、大丈夫よ。仲良くなった子に、楽屋にいてもらうから!」




