1.喜燕、板挟み
皇太后主催の華劇の宴を明日に控えて、秘華園は慌ただしい。
役者たちが最後の練習や衣装の確認に余念がないのはもちろんのこと、喜燕たち婢や宦官も、蟻のようにちょこまかと建物や庭園の間を行き来している。砂糖の欠片の代わりに彼ら彼女らが運ぶのは、明日の宴席に使う茶器や食器や、贅を凝らした食事に使うための材料、それに舞台に使う小道具や大道具、背景の幕などだ。
明日の会場となる祥寿殿は比較的控えめな大きさの殿舎で、演目も大規模な物語ではなく歌と舞や、長編の場面を切り取ったものが予定されている。とはいえ、だからといって仮にも秘華園での催しが簡便なものには決してならない。例えば緞子の生地に緻密な刺繍で背景を描いた幕はそれなりに重く、担ぐ宦官は額に汗して息を弾ませていた。
染付の磁器の花瓶を抱えて廊下を進む喜燕の袖に、何かの重みが加わった。婢らしく伏せていた目を一瞬だけ上げてみれば、同じ婢姿の娘が鋭い流し目を寄こしながらすれ違ったところだった。
(趙家の、か……)
趙貴妃瑛月も秘華園に役者を抱えている。つまりはそれだけ手の者も入り込んでいるということだ。どうして梨燦珠にまだ何ごとも起きていないのか、という叱責の文だろうか。ただでさえ視界を塞ぐ大きさの花瓶の重さが増した気がして、喜燕は慎重に、高価な磁器を抱え直した。
* * *
大規模な宴席を前にした熱気や慌ただしさとはまた別に、使用人は日常の務めも変わらずこなさなければならない。という訳で、花瓶の後も大小の箱やら袋やらを運んでから、喜燕は小走りで燦珠の部屋へと戻った。放っておくとあの娘はいつまでも練習して休むということを知らないのだ。
(明日は大事な日なのに……!)
違う。喜燕は燦珠を踊らせてはならないのに。どうして、あの娘を案じるようなことを考えてしまったのか。扉を開けながら混乱した喜燕は、さらに目と耳に刺さるきらきらとした刺激に頭を揺さぶられた。
「あ、喜燕!」
彼女の鼓膜を襲ったのは、本番を前にしていつもより高く弾んだ燦珠の声。そして目を眩ませたのは、燦珠が纏う衣装だった。鳳凰を象った、この上なく輝かしく華やかで煌びやかな。
「星晶とね、衣装を着て合わせてたの。結構重くて大変だけど──綺麗でしょ?」
翼をはばたかせるように──燦珠が腕を広げてくるくると回ると、室内に太陽が現れたかのような輝きが振り撒かれた。喜燕は、その輝きの細部まで見極めようと目を凝らす。単に豪華なだけでなく、着た者が舞った時にもっとも美しく見えるように計算し尽くされたその衣装を。
基調となる生地の色は、鮮やかな紅。ただし、身頃にも袖にも金や銀や青や黄に染めた羽根飾りが施されているから、ひと目見た時の印象は何色というより、とにかく眩しい、というものだ。五色の絢爛な羽根を纏うという鳳凰を、地上に呼び寄せたかのように。
羽根飾りの先は生地に縫い留められてはおらず、舞手の動きに合わせて揺れるようになっている。それによって華奢な燦珠の身体はひと回りもふた回りも大きく見えるし、羽根飾りが踊ると地の紅が覗いて一瞬ごとに目まぐるしく色が移り変わるように見えるのだ。
極彩色の虹を纏うかのような衣装に、喜燕の唇から純粋な感嘆の溜息が漏れた。
「ええ……とても綺麗……」
「でしょう!? 喜燕にも見て欲しくて待ってたの」
違う者が言えば、鼻持ちならない自慢だと思ったかもしれない。でも、燦珠が言うと嫌味がないから不思議なものだ。この娘にとっては、きっと、美しいものは常に美しく、楽しいものは常に楽しいのだろう。そして自ら発する言葉にも裏も表もないのが分かるから、悪く取ろうという気になれない。ただ──とてつもなく眩しすぎて、真っ直ぐに見ることができないだけで。
婢らしく、目を伏せようとしたのだけれど。燦珠はそんなことを許してくれない。この娘はいつでも素早くて、喜燕が距離を取ろうとする隙を逃さず、気付けば目の前できらきらと笑っている。──今も、そうだった。
「ねえ、明日は、私の楽屋にいてくれない? 着替えとか化粧とか、手伝って欲しいの」
「婢にはそれぞれ役目がありますから、私の一存では、何とも……」
そっと目をそらしながら、喜燕はぼそぼそと呟いた。たとえ鳳凰の衣装を纏っていなかったとしても同じだっただろう。燦珠の笑顔そのものが、彼女には目を焼く太陽に見える。
役者付きの婢といっても、それは日常でのことだ。明日の宴のように、皇帝や皇太后や妃嬪たち、果ては皇宮の外からの賓客をもつつがなく饗応するとなると一大事だ。今日もすでに目が回るような忙しさだというのに、当日になればさらに仕事が増えるのは間違いない。それに──
(私は、あんたの傍にいたくないのに)
否、彼女の好き嫌いで言えば、燦珠についていたい。ただでさえ花咲くような華やかな笑顔のこの娘が、衣装と化粧を纏うことでどれだけ化けるのか見てみたい。でも、それは同時に、瑛月の命令を実行する余地ができてしまうということだ。
同行是冤家、秘華園では十分に注意しなければならないのに。
なのに、燦珠は喜燕の悪意など欠片も疑っていないのだ。
「喜燕さえ良ければ──えっと、余計なお世話でなかったら、隼瓊老師に頼んでみようかな、って。……手伝ってもらったから見てもらいたいし、喜燕もほかの人たちの演技も見たいんじゃないかと、思ったから」
あの夜の後も、燦珠とは密かな練習を続けていた。それぞれ昼間の仕事と練習もあるから毎晩のように、とはいかなかったけれど。その時にはうっかり言葉遣いや態度が親しげなものになってしまっていた自覚は、ある。燦珠が、珍しくも人の顔色を窺うような気配があるのは、きっと少ししょげているのだ。今の彼女の態度がよそよそしいとでも思っているのだろう。
(どうして、そんなこと言うの)
喜燕にとって、都合の良い状況になってしまうのだとも知らないで。
務めが忙しいから何もできませんでした、と瑛月に言えたら良かったのに。燦珠の提案は、喜燕は怠けて良いということだ。役者の手伝いを口実に、秘華園に名だたる役者たちの演技を、袖からでも覗けば良い、と。芝居を観るほうも好きらしい、燦珠の考えそうなことだ。
(見たい。見たいよ。ほかの誰よりも、燦珠の舞を)
友を、間近で応援したい。主の命令を遂行したい。同時に叶えることなどできないのは分かっているのに、どちらを望んでいるのか分からないまま、喜燕の唇は自身の意思に関係なく勝手に返事をしていた。
「……とても嬉しいお心遣いです。ありがとうございます」
「ううん! 私が安心したいだけだから。じゃあ、明日もよろしくね!?」
正面から見なくても、燦珠が顔を輝かせて笑ったのが伝わってきた。太陽が雲間から現れたのを確かめるのに、空を見上げる必要がないくらいに当然のこと。太陽は眩しくて暖かくて──でも、喜燕の心を照らすにはまだ足りないのだ。
* * *
衣装を、被り物や化粧道具と一緒に箱に収めてから、喜燕は燦珠を寝かしつけた。正月を前にした子供のように、頬を染めて目をぱっちりとさせて、大人しく寝付きそうになかったから。とはいえ、さすがに万全の体調で臨むことの重要さは分かっているのだろう、寝台に向かわせるのに苦労はなかったし、今宵はさすがに練習に抜け出すことはないだろう。たぶん。
喜燕の袖に投げ込まれた文は、そのころには鉛の重石を持ち歩いていたかのように彼女を疲弊させていた。自室に戻ってやっと取り出してみれば、いかにも貴妃が使いそうな、上質の薄い紙片でしかなかったのに。そこに記されていたのは、流れるような美しい筆跡で、ただ一文。
──余興を楽しみにしている。
文を広げると現れた、何かの粉末の包みを握りしめて、喜燕は荒く乱れる呼吸を宥めようとした。燦珠が無事に本番を迎えようとしていることに業を煮やして、瑛月が手段を送って寄こしたということに違いない。
(余興、だなんて……!)
その日の話題をさらうはずの見事な演目を、役者やその主を陥れるための余興に貶めようだなんて。許せない、と思うと同時に、自分にそんなことを言う権利があるのか、と心の中の影が囁く。影を追い払おうとすれば、それは玲雀の恨めしげな姿をしていて──捕らえられるしかないと、喜燕は悟るのだ。
瑛月からの文を火に投じれば、瞬く間に黒く捩れて灰になった。自身もそうなりたいと、火に誘われる虫のように炎の危うい揺らめきを見つめながら、喜燕は思う。
彼女の裏切りを知ったら、燦珠はどんな顔をすることだろう。




