10.皇帝、混乱する
書類の山をあるていど崩したところで、翔雲はある者を執務室に召し出した。本来は彼の視界に入ることさえないはずの宦官、それも奉御なる最下級の地位にある者だ。まして直に声を掛けるなど異例中の異例のこと──咎める者もいない身でありながら、翔雲はなぜか罪悪感めいた思いすら抱きながら、口を開いた。
「そなたが、楊霜烈か」
「は──」
彼は宦官という存在が苦手なのだ。皇宮に入って以来、常に視界の端を蠢く影のような者たち。父王の王府にもいない訳ではなかったが、これほどの数ではなかった。
男のようでいて男の機能を失っているという歪さも、隗太監のように後宮や秘華園に巣食って私腹を肥やそうとする強欲さもおぞましい。
だが、香雪に良からぬことを企んでいる可能性がある者を放置することもできなかったからこその異例の処置だった。嫌悪感を殺して、翔雲はなるべく端的に告げる。
「構わぬから顔を上げよ」
「御意」
構わぬと言われても、普通は恐縮して押し問答するものだろうに。その時間が惜しいとばかりにあっさりと頭を上げた楊霜烈の顔を見て、翔雲は内心で唸った。
美しかった。
下手をすると、美姫を取り揃えたはずの彼の後宮の妃嬪たちよりも、よほど。切れ長の目はどこまでも涼やかで、整った鼻梁は一分の歪みもない。肌は雪のように白く、化粧などしていないだろうに、形の良い唇がやけに紅い気がして。宦官とは男とも女ともつかない者と心得ていたが、それが妖しい魅力になっている例は初めて見たかもしれない。
(自宮するのも無理はない、のか……?)
あらかじめ調べさせたところによると、楊霜烈は十歳にして自宮──刑罰によってでなく自らの意志によって宮したということだった。好き好んで宦官に堕ちる者はいないから、いずれかの権門の命を受けて後宮に忍び込んだのでは、とも疑っていたのだが。見目良い童子は妃嬪にも女官にも愛でられるというから、貧しい親が栄達の一縷の望みを賭けて、我が子を手放すこともあり得るかもしれない。決して気分の良い想像ではないが。
「ご龍顔を直に見ては目が潰れます。もう、よろしいでしょうか」
「……うむ」
謙っているようで、楊霜烈の態度には皇帝を畏れる気配が微塵も感じられなかった。美しい唇が紡ぐ声も、真夏に氷を削らせたかのように涼しげで耳に心地良く、かつ平静だった。
あまりに何もかもが整っているのがいっそ不快ではあったが──それこそ眩い美貌を視界に入れなくて済む安堵が勝って翔雲は唸るように頷いた。
(しょせんは宦官だ……心乱してどうする)
まともな男が宦官だと偽れば、死罪は免れない。そして、後宮に仕える宦官は定期的に切り落とした男の象徴を提示しなければならぬもので、欺瞞が通る余地はない。この美貌の者が香雪に接したからといって、何と言うこともない。疑うだけ香雪への非礼というものだ。
「沈昭儀のために役者を探してくれたとか。気遣いは感心だが、女の役者などよく都合良く見つかったな?」
「まことに良い時宜でございました。食材などの買い付けに市井に下りるのも奴才等の務めでございますが、市場で舞を披露する娘の噂を聞いて珍しいと思っていたところ、沈昭儀様がお悩みと伺いましたので」
霜烈の言葉の真偽を判じる術は、翔雲にはない。ただ、あからさまな破綻がないのは認めざるを得なかった。
「その娘はなぜ大道芸のような真似を? 貧しさゆえか?」
「父親が高名な役者とのことで、憧れたようでございます」
「そなたが──宦官が声を掛けて、すぐに後宮に上がったのか? 普通は怪しむだろうに」
「ごもっともでございます。が、秘華園のほかに女がまともに舞台に立てる場はございません。才を埋もれさせるのは惜しいと、娘も父親も考えたのでございましょう」
問いを重ねても相手が隙を見せないのに苛立って、翔雲は別の角度から攻めてみることにした。
「……先帝は、秘華園の役者に子を産ませたことがあると聞いたが」
「存じております」
知っているなら──知らない振りをしないのなら、話は早かった。霜烈の黒衣の背が、軽く緊張を帯びた気がして、翔雲の詰問は勢いづく。
「そなたが見出した娘を、朕が気に入ったらどうする。妃嬪に上れば、その娘はそなたに感謝するであろうな」
「いいえ、怨まれましょうな」
「……なぜだ」
役者の娘を通して皇帝に取り入り、権勢を振るおうというのではないか。そう質したつもりが思いもよらぬ答えで切り返されて、翔雲は瞬いた。間の抜けた反問に対する答えもまた、素早く容赦がない。
「練習の時間が減るから、でございます。まして、万が一にも懐妊すれば、一年は舞うことはできませぬ」
楊霜烈の言葉は、香雪が梨燦珠を評したものとほぼ同義であることに気付いて、翔雲は密かに狼狽えた。華劇のことだけで頭がいっぱいの娘なのだ、と。急に思い立って召したのだから、この宦官が香雪と口裏を合わせることができたはずはない。
では──その娘は、本当にそう、なのだろうか。
仮にも皇帝の寵愛を迷惑なもののように語られて混乱しながら、翔雲は口を動かした。
「先帝の例は──」
「奴才が文宗陛下のご宸襟を拝察し奉るなどと大罪とは存じますが、あえて申し上げるならば、御子によってその役者を繋ぎ止めようとしたのではないかと考えております」
大罪と述べた割に、楊霜烈の言葉は恐れる様子も遠慮もなかった。とはいえ翔雲に咎める気はない。皇帝が役者に手を出すのはそもそも醜聞で、生まれた皇子も不幸な最期を遂げたと聞いたばかりなのだから。
「役者が思いのままに演じられる時間は短いものでございます。沈昭儀様をはじめ、陛下にはすでに数多の妃嬪がおられます。お戯れで才を摘むことがなきよう──」
「そのようなことは考えていない! 僭越である」
だが、香雪から心変わりするのか、と言われたも同然の直言に、翔雲は思わず一喝していた。鞭打つ勢いの険しい声に、楊霜烈はいっそう低く平たく平伏した。
「申し訳もございませぬ」
床に張り付いたような楊霜烈の黒い背を、翔雲は苦々しく見下ろした。皇帝への不敬の名目で、この者を罰することはできる。だが、客観的に見れば彼のほうから役者に手を出すことを仄めかしたのだ。たとえ宦官相手でも、正当な諫言を容れぬようでは彼に冕冠を戴く資格はないだろう。
「聞きたいことは聞いた。……下がって良い」
「御意」
仕方なく退出を命じると、楊霜烈は来た時と同じく音もなく彼の前を辞した。梨燦珠なる役者にも、彼女を見出したあの宦官も、とりあえず二心はないようだと確かめられたのに──なぜか、翔雲の胸は晴れなかった。懸念は完全には解けないまま、新たな疑問が浮かんだのだから無理もないと思うのだが。
(……華劇とは、かように大事なものか……?)
梨燦珠の舞を見れば、その疑問への答えを得られるのだろうか。




