9.死児、いまだ忘れられず
翔雲が日常の政務を行うのは、外朝の最奥に位置する濤佳殿において、だった。後宮の渾天宮とさほど離れている訳でもないが、秘華園に玉璽を持ち込んだ先帝文宗の逸話を聞くに、公私で場所を使い分けるのは必要なことだろうと考えている。
一品を表す仙鶴の補子を誇らしく袍の胸に縫い留めた首輔が、また新たな書簡を恭しく翔雲に差し出した。
「陛下──秘華園の華劇の会の席次でございます」
「うむ」
皇帝と首輔の関係は、宦官の側近であるはずの隗太監よりは遥かにマシだ。先帝時代から長く政の中枢に携わる海千山千の曲者は、若造に大人しく使われてはくれない。とはいえ、この書簡については彼を試す意図はないだろう。出席者と演目とを一瞥すれば、それ以上何をする訳でもないのだから。
「──なるほど、な」
あるていどは聞いていたとはいえ、皇太后をはじめとして、皇族の面々が列挙された紙面は見るだけで眩く、翔雲にうんざりとした気分を味わわせた。皇太后に招かれていそいそとやってくるのは、彼が会って楽しい面々では決してない。
「たかが芝居に大げさなものだな。これで義母上も少しは収まってくださると良いが」
苦笑しつつ書簡を首輔に突き返すと、相手も同情を込めた面持ちで頷いた。
「残念ながら、先帝の御代ではさほど珍しい規模ではございませんでした。皇太后様がご満足なさるとしても、ほんの一時かもしれませぬ」
かように火の消えたような後宮では文宗帝に申し訳が立たぬ、と。亡夫さえ口実にして華劇を催そうとする皇太后の戯迷は翔雲には理解しがたい。倹約を理由に諫めると、信じ難い不孝者のように詰られ嘆かれるのも。皇位を継いだ以上は、先帝も皇太后も実の父母同様に敬わねばならぬのは確かなのだが──
「朕を何だと思っておられたのだろうな。諸官が推挙する理由を、何も考えられなかったのか……」
仮にも至尊の地位に登る者のことなのだ。為人や志は当然確かめるものだろうに。数多いる皇族男子の中から彼が推挙されたのは、先帝のごとき放漫な統治を続けさせぬためと、分かりそうなものだろうに。
「恐れながら推察いたしますれば、陛下は陽春皇子と同い年でいらっしゃるからかと存じます」
厳しい教師役も兼ねる首輔も、さすがに皇太后の話題については愚痴に付き合ってくれるつもりのようだ。あるいは、これも後宮の授業ということなのか。翔雲は持っていた筆を置いて、雑談に専念することにした。
「そのようなお若い皇子がおられたか?」
先帝の皇子たち死因の詳細については、噂ていどにしか聞いていない。だが、それでも、一時でも皇太子の地位にあった方々の名なら、翔雲も把握しているはずだ。彼と同年というなら、かなり遅い時期にできた御子だろう。
(母君はどなただ……?)
いずれも皇太后と似たり寄ったりの面倒さの太妃たちを思い浮かべていると、首輔は声を潜めて教えてくれた。
「文宗陛下が……その、秘華園の役者に御手をつけられて御生まれになった御方だとか」
「ああ……」
決して感心できないが、いかにもありそうなことだった。妃嬪の嫉妬を役者の競争に昇華させるなど、しょせん欺瞞に過ぎなかったと、先帝自ら証明していたことになる。
「母親は秘華園きっての名優とのことでしたので、恐らくはそちらに似たのでしょうな。見目麗しく利発で──当時皇后であらせられた皇太后様が、いたくお気に召して養育なさっていということでございます」
「義母上には御子がいらっしゃらないからな……」
若く健康だったはずの皇子たちが次々に斃れた理由の一端が、そこにあるのではないかという気がしてならなかった。暗澹とした気分で呟いてから──翔雲は、気付く。
皇帝となるのに母の血筋は本来まったく関係ない。皇帝の血を受け継いだ御子は、その事実のみで十分に尊いのだから。翔雲に帝位が回ってきたということは──
「だが、その皇子も亡くなったのだな?」
当然の推論だったからだろう、首輔もあっさりと頷いた。
「厳密には、行方不明、ということなのですが。十になるかならぬかの御年の時に、後宮から姿を消された、と」
「そのようなことが──いや、あり得るか」
後宮の庭園には、池や小川はもちろんのこと、地方の絶景を模した小さな山や滝まである。無数にも思える建物の中には長く使われていないものも多い。十歳かそこらの子供が迷えば、誰にも気づかれることなく水底や木の葉の下に朽ち果てる悲劇も起きるだろう。
役者腹の皇子が皇太后に可愛がられているとなれば、目障りに思う者も多かったであろうことは想像に難くない。助けを求める子供を無視する者がいたのかもしれないし、あるいは、そもそもその皇子は暗殺されて遺体を隠されたのかもしれない。
「痛ましいが、迂闊なことだ」
「まことに」
今現在悩まされているからか、皇太后がもっとちゃんと見ていてやれば良かったのに、と翔雲は思ってしまう。恐らく首輔も同じ意見なのだろう、相槌には万感がこもっていた。
「ともあれ、皇太后陛下は、いまだその陽春皇子の齢を数えていらっしゃるのだとか。悲しみと愛着のあまりの深さに、墓さえ作られていないほどだと──同じ御年の陛下が玉座に登られるのも、ひとつの縁だと思し召しになったのではないでしょうか」
「愚かなことだ。義母上が知るのは十かそこらの愛らしい童子なのだろう。朕が孝養を尽くしたとてその皇子の身代わりにはなるまいに」
そして首輔らは、都合の良い駒を帝位に就けるために、皇太后の愚かな妄想を利用したのではないのだろうか。皮肉ってみても、老練な官吏は穏やかな微笑を浮かべてゆるゆると首を振るだけだ。
「陽春皇子が生きておられれば、と思わずにはいられぬのでしょう。何しろご遺体も見つかってはおりませんので」
「その御方がご存命だったなら、朕も余計な苦労を負わずに済んだという訳か。今からでも姿を見せていただきたいものだな。義母上を宥めるには適役だろう。──いや、それよりも」
本心では皇太后を疎んじているのだろうに、口では悼むようなことを言うのが白々しい。首輔の厚い面の皮を引っ掻いてやりたくて、翔雲は口元をにやりと歪めた。
「先帝の御子がおられるならば、朕は位を退くのが筋ということになるな?」
「まさか、そのようなことは起きますまい。以前は、陽春皇子の消息を知っていると称する者も時おり現れたようですが。もはや十五年も前のことですから──」
ふたり分の乾いた笑い声が、決済を待つ書類の間にひそやかに響いた。死者を種にしての危うい冗談は、生者の特権なのだろう。




