7.妃嬪同士、女の友情?
永陽殿は、貴妃の住まいだけあって美しく華やかな装飾を施された殿舎だった。主人の位に従って使用人も多いのだろう、殿舎自体も庭園も、昭儀である香雪のそれよりずっと広い。
そして華麟の住まいだけあって、花庁から望む庭園の眺めは、華劇の舞台を忠実になぞっていた。舞台の背景がそのまま実現したかのような光景に、燦珠は内心で感嘆せずにはいられない。
(池を望む高台に、月見の四阿、近くに滝が流れて水音が茉莉花の香りを際立たせる──《夢境夜話》の歌詞通りね……!)
華麟は戯迷ぶりを遺憾なく発揮して、今日も古風な斉胸襦裙を纏い、繊手に優美な絹の団扇を携えていた。
古の美姫が蘇ったかのように、華やかに微笑んで燦珠と香雪を迎える彼女の横には、盤領袍姿の星晶が控えている。まるで、美姫を守る武官のように。訪れた者に古代の宮廷に迷い込んだ気分を味わわせるのが、永陽の趣向らしい。
「練習ばかりで根を詰めるのも良くないでしょう? 今日は息抜きをしていってちょうだいな」
「お招きいただき、お気遣いいただき、ありがとう存じます、謝貴妃様」
もちろん、当世風に襦裙に薄織りの褙子を重ねた香雪も華麟に劣らず美しい。芝居から抜け出たような麗しい三人と囲む卓は、燦珠にとってたいそうな眼福だった。
「華麟と、名で呼んでちょうだい。──わたくしも、香雪様とお呼びして良いかしら」
「もちろんでございます。光栄に存じます」
「もう、堅苦しいんだから」
和やかな会話が交わされる卓に並ぶのも、庭園同様に精緻に整えられた、手の込んだものだった。生きたような花鳥が細やかに描かれた茶器からは芳しい香りが立ち上る。えんどう豆の餡を練って固めた豌豆黄は、花の形に切られ、色粉で染めた陳皮の砂糖漬けで飾られている。市井にもある菓子も、こうなると宝石でできた装飾品に見紛うほどだ。
「燦珠が星晶の新娘なら、わたくしたちは陛下にお仕えする姉妹のようなものではなくて? だから、仲良くしたいのよ」
そんな、触れるのがもったいないような菓子を無造作に摘まみながら、華麟は香雪に微笑んだ。少々怖い話の切り出し方では、ある。
(これは……寵愛争いという、やつ!?)
香雪は燦珠のことを気に懸けてくれるし、翠牡丹のお陰で香雪の機嫌を伺いに訪ねるのも難しくない。燦珠が見聞きする限り、香雪への皇帝の寵愛は確かに篤く、三日とあけずに皇帝の寝殿である渾天宮に召されているらしい。それはつまり、ほかの妃嬪が召される機会は少ないか──もしかしてなかったり、するのだろうか。
「そのような──畏れ多いことでございます。わたくしは……あの、たまたま一時だけ僥倖に恵まれたものとばかり」
「安心なさって。わたくしは、毎日のように華劇三昧と聞いて後宮に上がったの。だから寵愛なんてどうでも良いのよ」
頬を強張らせた香雪に、華麟は実に羨ましいことを言って華やかに微笑んだ。ちらりと星晶に送った視線の熱さを見れば、説得力もある。戯迷である御方が、華劇嫌いの皇帝を慕うはずもない、のだろうか。
「永陽殿の前の貴妃はわたくしの大伯母様だったから、謝家の者が役者ともども受け継いだほうが都合が良かったのよ……何かと、ね」
今日の席の主題は、妃嬪同士の交流だ。役者たちはこの場に花を添えるだけのもの、燦珠は星晶と並んで仲睦まじくしていれば良いと思われている節がある。だから、華麟の言葉に微妙な含みがあるのに気付いても、燦珠はあえて尋ねようとは思わなかった。それに、気になる話題でもあるし。
(私、秘華園の普通を知らないんだもの)
役者が妃に仕えるものだということを知ったのも、後宮に入ってからだった。代々受け継がれるだなんて、華麟の話だと殿舎を私物化しているようにも聞こえてしまう。
「香雪様がいてくださって、わたくし、安心しているくらいなの」
密かに身構える燦珠にはおそらく気付かないまま、華麟は朗らかに笑う。香雪の不安を吹き飛ばそうとでもいうかのように。でも──彼女のぱっちりとした目は笑っていないような気がしてならなかった。
「陛下も素敵な方だけれど、星晶のほうがずっと素敵だもの。……気になるとしたら、陛下が秘華園をどうなさるか、ね」
華麟は、皇帝に近しい香雪に探りを入れているのだ。霜烈の涼やかな美貌と、彼が告げた言葉を思い出しながら、燦珠は膝の上で拳を握った。
(……天子様は、華劇嫌い……)
香雪の気遣うような視線が、燦珠と星晶をそっと撫でた。小さく形の良い唇が、躊躇いがちに、開く。
「陛下は……燦珠を合格させてくださいましたわ」
「ええ、それが良い兆候であればと願っているの。陛下は、秘華園を無駄だと思っていらっしゃるようなのだもの」
精いっぱい言葉を選んだらしい香雪の答えは、華麟を納得させるものではなかったようだ。仕える御方が問い詰められる気配を察して、そして、聞き捨てならないことを聞いて、燦珠は思わず声を上げる。
「──私は、天子様に華劇の良さを教えて差し上げたいと思ってます」
怯えを含んだ香雪に、好奇心を帯びた華麟、純粋な驚きを湛えた星晶。
三人三様の視線に貫かれて、燦珠は少したじろいだ。霜烈相手には啖呵を切ってみせたけれど、それは彼なら華劇にかける彼女の想いを知っているからこそ。突然宣言するには大それたもののような気もして、燦珠は慌てて言い添える。
「あの、あんまりご存知なくて嫌われているなら、実際に見ていただければ違うんじゃないかと、思ったので……!」
言い終えると、その場の空気はふ、と緩んだ。大言壮語も過ぎると、咎めるよりは呆れるような気配が勝るのかもしれない。驚きから立ち直ったらしい星晶が、くすり、と控えめな笑みを漏らした。
「燦珠は野心家だね。私は……そこまでの覚悟も気概もなかったかもしれない」
「星晶はあんなに格好良いのに。天子様の御前で演じたことがないの……?」
目を瞬かせる燦珠の疑問に答えてくれたのは、香雪だった。
「陛下はお忙しいから。ご即位以来、季節ごとの後宮の行事も祝宴も、規模を抑えられていると仄聞しておりますが……?」
「そうね。わたくしの星晶を自慢したいのにつまらないこと」
寵愛よりも華劇と星晶、を早くも自らの発言で実証してから、華麟は華奢な拳を握り固めた。
「でも、だからこそ《鳳凰比翼》は好機よ! 皇太后様をはじめとして、陛下も、ほかの皇族がたも列席される席だもの。星晶はもちろん、燦珠も注目されること間違いなしよ!」
「皇太后様は、あの喬驪珠を見たことがあるんですよね……? それは、手ごわい御方でしょうね……!」
驪珠の伝説の舞台は、先帝の六十の賀の折のものだという。ならばその折に絶賛したという皇后が、今の皇太后なのだろう。強敵の予感に拳を固めて応じると、星晶も大きく頷いた。
「たいそう目の肥えた御方であるのは間違いない。けれど、役者を評価するのに公平な御方でもいらっしゃる。何しろ、驪珠を重用し続けたくらいなんだから」
「……なんで? 驪珠は、花旦の名手だったのよね……?」
でも、またも疑問が生える。華劇を愛する御方が優れた役者を評価するのは当然のこと、公平も何もないと思うのに。不可解さに眉を寄せる燦珠に、今度は華麟がごくあっさりと教えてくれる。
「ああ──驪珠は、文宗様のご寵愛を受けて皇子を儲けたのよ」
「え──」
目を見開いた彼女の顔がおかしかったのか、驚かせたのに満足したのか、華麟は楽しそうに華やかな笑い声を上げた。そして、夢見るようなうっとりとした眼差しで、続ける。
「天子たる御方が、軽々に妃嬪以外を召すのは、本当は感心できないのかもしれないけれど。でも、驪珠がそれだけ美しかったということでしょう。容姿も、舞も。皇太后様がお許しになったほどに」
つまりは、夫の心を奪い、子まで生した女を許したからこその公平さ、ということらしい。それはそれで素晴らしい寛容さでは、あるかもしれないけれど──
「燦珠も、ご寵愛なんてどうでも良いと思っているようね」
「そうですね、私は華劇のほうが──っと、すみません……!」
観客として以外の皇帝になんて興味がない。寝所に呼ばれるくらいなら練習させて欲しい。
……そこまでは、言わなかったけれど。香雪に問われるがまま、正直すぎる本音を漏らしてしまったことに気付いて、燦珠は慌てて両手で口を塞いだ。でも、香雪は儚くも美しい笑みを湛えて首を振る。
「良いのよ。そう……多くを望んではいけないのは分かっているけれど、華麟様や貴女のように、眩い方々ばかりを見ると、不安になって、しまうから……」
恋慕と羨望と、希望と不安と。切々とした想いがこもった香雪の声も表情も、姫君役の演技のお手本にしたいくらいだった。どんな名優が演じるよりも、本当に恋に悩む美姫の姿は人の胸に迫るものなのかもしれない。華麟も、笑みを消した真剣な表情で、香雪のほうへ身体を傾けている。
「香雪様は、陛下をお慕いしているのね」
「出過ぎたことでございます。でも……ええ、はい」
頬をほんのりと染めながら、小さく──けれど、確かに頷いた香雪の恥じらいもまた、愛らしく健気な美しさだった。絶対に演技としてものにしたい、と。燦珠は目に焼き付けようと息を呑んで見つめる。
「そんなこと……! 香雪様はお綺麗で清廉な御方。陛下のご寵愛も納得というものよ。さらに加えて皇太后様の覚えがめでたくなれば、誰も疎かにはできないわ」
「そう、でしょうか……」
「そうよ!」
香雪の姿は、きっと華麟の目にも好ましく映ったに違いない。この御方なら、香雪を題材に新しい演目を作らせさえするかもしれない。新参の嬪を慰め力づける貴妃の声は、偽りなく真摯なものだと聞こえた。
「だからね、後宮での振る舞いもわたくしが教えて差し上げる。役者ともどもずっと仲良くしていただきたいもの」
団扇を放り出して、華麟はそっと香雪の手を握った。恐らくは皇帝への想いとは違う理由で、香雪の頬がより紅く染まり直す。
「もったいないお心遣いでございます。お恥ずかしいことですが、わたくしの実家は財力も伝手もございませんで……」
「それも立派なことよ。だからこそわたくしも仲良くしたいと思ったの」
華麟は、香雪の手をよりいっそう力をこめて握ったようだった。妃嬪同士で見つめ合う形になって──そして、華麟の艶やかに紅を差した唇が、囁く。
「──見事な演技を見せれば、役者にはご祝儀がいただける。陛下は分からないけれど、皇太后様や皇族がた、貴顕の方々からも。それをどう使うかは、主の妃嬪にかかっているのよ。香雪様や燦珠の装いはもちろん、ご実家だって、より高い官位を望めるでしょう」
「それは、あの」
香雪が──傍で聞いている燦珠も──目を見開くのを余所に、華麟はどこまでも晴れやかに微笑み、首を傾げる。
「お父上は有徳の官吏と伺ったわ? ご出世なさるのは陛下のためにもなるのではないかしら」
華麟は、贈賄による買官を仄めかしているのだ。それでいて、決して悪びれていない。それは──彼女の実家の謝家も同様のことをしてきたから、なのだろうか。
(そりゃ一族の娘を貴妃にしておきたいはずね!?)
心の中で叫びながら、世事に疎い燦珠もさすがに察してしまう。
祝儀とやらが、純粋に演技に対して贈られるだけのものではあり得ないこと。どの役者が、どの家のどの妃嬪に結びついているかを承知の上で、見返りを計算しながら贈られるに違いないのだ。そんなことが、今までまかり通っていたのだとしたら──
(そりゃ秘華園も嫌いになるでしょうね!?)
貴妃に対して役者の小娘が言えることではなく、香雪も絶句して何も言えないでいるようだった。ふたりの反応に、気付いているのかいないのか──華麟の笑みが、初めて憂いを帯びたように見えた。
「わたくしね、陛下のことも心配ではあるの。華劇がお嫌いなのはとても残念だけれど、高潔な御方なのでしょうから」
その言葉も、たぶん嘘ではないのだろう。華麟は、本当に優しい御方では、あるのだ。そしてだからこそ、皇帝は案じられるべき状況にいるのだと突き付けられた気がして、燦珠の背に冷や汗が伝う。
「わたくしたち、ずっと仲良くしましょうね。……何があっても」
念を押すように微笑む華麟がどんな事態を想定しているのか──考えるのが、怖かった。




