6.燦珠、友達が欲しい
温かい湯に浸かりながら、燦珠は機嫌良く声高く唄っていた。
一天四海一望無翳 見渡す限りの四方の海に影ひとつなく
満風受翼飛高到天 翼は風に乗って空高く舞い上がり
万里遥遠翼翻一動 千里の彼方もひとっ飛び!
星晶と演じることになった《鳳凰比翼》の歌詞だ。題材に沿った雄大な詞を舞と合わせると、本当に空を飛んでいる気分になるからとても楽しい。だから、練習を終えて汗を流している時でも、その爽快さの余韻に浸りたくなってしまうのだ。
(声域も広がったんじゃないかしら!? 前よりも高い声で唱えてる……!)
星晶は、いくら理想の生役を絵に描いて綺羅で飾ったような見た目をしていても、女の子だ。だから唄う声も男の役者に比べれば、高い。その星晶と組むためには燦珠はさらに高い声を出さなければいけないので、舞と同様、歌についても日々修行の日々だった。
(あの人が言っていた通りね)
父の説得に、霜烈が使った理屈を思い出して燦珠は微笑む。女が演じる男をより男らしく見せるには、より可憐で嫋やかな花旦が不可欠、というやつだ。
実際、星晶と練習を始めてから、歌も舞も格段に進歩しているのが自分でも分かって怖いくらいだ。次に霜烈に会ったら、御礼を言わないといけない。
実家では考えられない大きな湯桶で思い切り手足を伸ばして寛いでいると──横から、澄んだ声が掛けられる。
「──燦珠様。お召替えをこちらに置いておきます」
「え、ええ。ありがとう……!」
盛大に飛沫を跳ね上げながら燦珠が身体を起こしたのは、覗きを警戒したからでは、もちろんない。実家にいたころからして、男所帯ではあっても梨詩牙の娘を覗こうという勇者はいなかったから。
「お召しになったらお髪を整えますので。外で、お待ちしております」
順番を気にしなくても良い快適な湯浴みの時間を、燦珠が中断したのは──着替えを差し出して平伏する婢が、彼女と同じ年ごろの少女だったから。それも、厳しい鍛錬を積み重ねてきたと分かる、すらりとしなやかな肢体をしているからだ。
本来なら同じ目線で話すべき相手を見下ろす気まずさに、燦珠はまだ慣れないでいる。
「う、うん。すぐに上がるわ」
その少女は、燦珠に何も言わなかった代わり、着替えの一番上で艶やかに輝く翠牡丹に切なげな眼差しを投げてから退出していった。燦珠が合格を勝ち取ったあの日──皇帝の出題がもっと優しいというか易しいというか、分かりやすいものだったら、彼女も翡翠の花を得ていたのかもしれない。それを思わずにはいられないのだろう。
燦珠につけられた婢の名は、崔喜燕。役者の選考試験の日に顔を合わせた少女だった。
* * *
婢として引き合わされた少女が知っている顔だったのに気付いた時は、燦珠は喜びの声を上げたものだった。実家にいたころも使用人はいたけれど、もちろん彼女の専属ではなかった。燦珠自身が、家事や舞台の手伝いに奔走することも多かった。
だから、年配の女性を使う立場になったらきっと居心地が悪かったことだろう。でも、同じ年ごろの少女ならそれほど気兼ねはいらないし、あわ良くば仲良くなれるかもしれないと期待したのだ。
『喜燕! 喜燕、だったわよね。試験の時に会った! 良かった、私、何も知らないでここに来たから──』
友達が欲しくて、とか。話し相手になってくれたら、とか。燦珠はそんなことを言おうとしたはずだ。同じ時に試験を受けた、いわば仲間を平伏させる申し訳なさに、手を差し伸べて立たせようとして──
『翠牡丹を得た方は、華劇に専念してくださいますように。ご不便がないように、誠心誠意お仕えします』
でも、喜燕が築いた見えない壁に阻まれたかのように、燦珠の手は虚しく宙に浮いた。喜燕は顔を上げることさえしてくれなかったから、彼女の視点から見えるのは髷を包む巾幗だけだった。
燦珠の腰に咲いた翠牡丹──香雪から賜った綬で、佩玉に仕立てていた──を見たくないのではないか、と気付いた瞬間、燦珠は珍しいことに言葉を失ってしまった。
(そっか、もし踊れてたら、きっとこの子も……)
喜ぶ燕という素敵な名前のこの少女は、さぞ軽やかに楽しそうに踊るのだろう。あの場で出題に沿った演技を思いつけなかったのだとしても、それは喜燕の技量が劣るということにはならないはず。一瞬の閃きが試験の成否を分けたなら、燦珠はこの少女に恨まれていたりするのだろうか。
『ええと……でも、喜燕は役者でしょう? 翠牡丹をいただいたかどうかじゃなくて、唄ったり踊ったりする──したいん、じゃないの? あ、秘華園だと、婢も練習できたりするの!?』
『いいえ。婢は婢です』
何とか歩み寄りたくて、共に研鑽する相手を増やしたくて。懸命に明るい声を出そうとした燦珠の努力は、喜燕のどこまでも硬い声に切り捨てられた。
『とはいえ、役者の方々の間近にお仕えすれば学ぶことも多いかと。ですから、お気になさいませんように』
気にしないのは無理難題というものだろうに、喜燕は言葉と態度の両方で燦珠を拒んでいた。だから、燦珠はそれ以上何も言えなかった。少なくとも、その時は。
* * *
喜燕は、水を含んだ燦珠の髪を丁寧に拭いて、双髷に結ってくれている。華劇の扮装は豪華な被り物をするものだから、それに比べれば地味だけれど、自分ではやりづらい髪型を、綺麗に手早く作ってもらえるのは嬉しいものだ。それに──この状況なら、話しかけても逃げられることはないだろう。
「ねえ、喜燕は舞が好きって言ってたでしょう? どの演目が得意とか、あるかしら」
髪を梳く喜燕の手が止まった気配がするけれど、気付かない振りで燦珠は続ける。
「私は、《梅花蝶》が好きよ。歌もあって、水袖を使うのも楽しいから。でも、《酔芙蓉》みたいに回るのも良いし、今やってる《鳳凰比翼》も、いっぱい跳ぶから空を飛んでるみたいで──うん、やっぱり楽しい、わよね?」
話しかけても喜燕は多くを答えてはくれないけれど、それでも身体を見れば役者、それも舞手だということは分かる。演目の名を挙げれば目が動くところも見たことがあるし、この子も絶対に踊るのが好きだと、燦珠は信じているのだけれど──
「《梅花蝶》も《酔芙蓉》も、やったことはありますが、正確に舞うのに必死で、楽しいという境地には至れませんでした」
喜燕の声はいつも淡々としていて冷めていて、踏み込まれることを拒んでいる。だから、燦珠の言葉は独り言に転じて虚しく消えていくだけだ。
「……楽しく踊るから上手くなるんじゃないかと、思うんだけど……」
正確さも大事ではあるけれど。父たちの見よう見まねで始めた燦珠と、師について教わったらしい喜燕ではまた話が別なのかもしれないけれど。
(正確さが第一、なんて教えるのはどこのどいつよ……?)
父たちの姿を見るに、たとえ師弟の間でも教えるのは技だけではない、はずだ。舞台に立つ時の心構え、演目を読み解く知識、歌に仕草に乗せる情感。どうも、喜燕の師の姿勢は燦珠が知る役者たちとは違う気がしてならないけれど──流派への批判はさすがに失礼だろうから口にすることも考えることも控えては、いる。
(役者同士なんだから、もっと仲良くできれば良いのに……!)
喜燕だけの話ではない。星晶とは練習の合間や前後に雑談もできるようになったし、隼瓊も厳しい中に優しさがあるのがよく分かる。でも、それ以外の役者仲間──仲間のはずだ──とは、いまだにあまり話せていないのももどかしい。
難試験をただひとり合格した新参者であること。星晶、ひいてはその後ろにいる貴妃の華麟の覚えがめでたいように見えること。あの伝説の花旦、喬驪珠の相手役だった隼瓊に師事できていること。その辺りが組み合わさって、嫉妬というかやっかみの目で見られているような気がする。
(遠巻きにしてるより、正々堂々、競ったほうがお互い良いんじゃないの……!?)
戦を待ちわびる武人さながらに、燦珠は受けて立つ気満々でいるというのに。聞こえるような聞こえないような、絶妙な加減の囁き声だけが聞こえるのは憤懣が溜まってしかたない。
「燦珠様、出来上がりました」
「ええ……ありがとう、喜燕」
──と、喜燕に声を掛けられて、燦珠は危うく顔を顰めそうになっていたことに気付く。慌てて笑顔を纏って振り向けば、髪を結ってくれていた少女はあっさりと余所を向いていたけれど。
「こちらをどうぞ。謝貴妃様と星晶様がお待ちでしょう」
喜燕が差し出したのは、紅色の生地に金の草花模様が鮮やかな比甲だった。後宮に相応しく装うべく、襖衣の上に羽織るよう、香雪が貸してくれたものだ。躑躅をかたどった髪飾りを髷に挿せば、ちょっとした姫君にも見えるだろう。
燦珠は、香雪と共に華麟に招かれて永陽殿を尋ねることになっているのだ。




