2.燦珠、観劇する
黒衣を纏った美貌の男は、楊霜烈と名乗った。男、と断じて良いかは微妙かもしれない。何しろ彼(?)は後宮に仕える宦官だというのだから。
不躾だとは思いながら、燦珠は霜烈の姿をしげしげと凝視した。
(道理で男か女か分からないと思った……!)
髭も皺も染みも見えない白皙の頬。切れ長の目は涼やかで、唇の形も整っている。そこにいるだけで、辺りが一段明るくなるような、文字通りの輝くばかりの美貌。まるで、華劇の姫君役、歴史にも名高い美姫が脚本から抜け出したかのような──それでも背はすらりとして高く、肩幅も女ではあり得ない。
男旦なら誰もが羨むような中性的な美貌は、男の機能と引き換えだというのだから女の燦珠には何とも言えない。彼女が嫁に行く気がないのよりは、重要な選択なのだろうとは分かるから。
(あと……もっと思ってたのと違うっていうか……)
華劇にもしばしば宦官が登場するけれど、多くの場合は丑だ。演じるのも小柄な役者で、軽妙な動きや即興の台詞で笑いを取ったりするものだ。目の前の男の印象とはまるで違う。宦官で、生役や浄役というと──
「えっと、老公? 宦官……って、どういう感じなのかしら。陳宝良? それとも、黄惇将軍とか?」
「それほど大したものではない。華劇でいうなら朱晋といったところではないか」
陳宝良は、諫言によって主君の怒りを買い、宮刑に処せられた学者。黄惇は、異国から献じられた奴隷から始まって立身出世した大将軍。いずれも宦官役には珍しく、演目の柱になる役どころだ。
「ふうん?」
対して、霜烈が挙げた朱晋はもっと小さな役だ。ほかの妃嬪から嫌がらせを受ける寵妃のために侍女と共闘して立ち働く──まさに、典型的な道化役の宦官の役。どこか泰然とした立ち居振る舞いの霜烈には、やはりどうも似つかわしくない。この男は、何というかもっと「デキそう」なのだ。
(奸臣役を挙げたらさすがに失礼だと思ったんだけどさあ)
真的嗎~?、と思わないでもなかったけれど、燦珠はとりあえず頷くことにした。問い詰めたところで、宦官の本分について彼女は何も知らないのだから。それよりも、楊霜烈には聞きたいことがたくさんあるのだ。
「梨詩牙の《雷照出関》を観られるとは、役得だったな」
燦珠の疑わしげな半眼を余所に、見目麗しい宦官は舞台に熱い視線を注いでいた。舞台──ふたりは、延康の都の繁華街に位置する茶園に移動していたのだ。
先ほどの騒動の後、出番を控えていた父の梨詩牙は、興行主や一座の者に拝まれるようにして茶園に連行されていった。娘を追い回して大いに動いていたし、声も張り上げていたから、舞台に上がる前の準備運動としては十分だっただろう。たぶん。
「役得って……つまり、私に声をかけたのは後宮のお役目の一環ってこと? 爸爸の立ち回りは、そりゃ必見でしょうけど、出番以外のところではちゃんとお話してくださるのよね?」
主役の身内の特権で、燦珠は官座を確保していた。開演を楽しみにしている階下の客は、好き勝手に騒いでいるし、客引きの銅鑼も既に鳴り響いてる。舞台が始まればさらに単皮鼓や京胡や月琴も加わることだし、多少、声を潜めるだけで盗み聞きの恐れはなくなるだろう。
「無論。人攫いではないのだから、経緯は漏らさず詳らかにしよう。そなたが懸念なく後宮に上がってくれるように」
「私は舞台に立てるなら何でも良いんだけど。でも、そうね。説明してくださったほうが安心ね。……後宮に女だけの戯班があるって、本当なの?」
後宮とは皇帝に仕える妃嬪の住まい。皇帝その人と幼年の皇子たち、元男の宦官のほかには女だけが暮らす場所だということはさすがに燦珠も知っている。だから役者も女だけ、というのは道理にも聞こえるけれど。ごくわずかな尊い方々のためだけに、わざわざそんなものを作るだなんて、相当な贅沢ではないのかとも思うのだ。
「本当だ」
だが、楊霜烈ははっきりと頷いた。官座に特別に出される茶器を持ち上げて、香りを楽しむように軽く目を伏せながら。白い顔を横から見ると、睫毛の長さがよく分かる。所作も、茶請けが蜜供だなんてありきたりの菓子なのが、不釣り合いに見える優雅なものだった。
「秘華園の由来は、九十年ほど遡る。当代から数えて三代前、当時の仁宗帝が大層な戯迷だったとのことで」
「戯迷……」
整った唇から、重々しい口調で卑俗かつ不敬な単語が漏れたから、燦珠は思わず復唱してしまった。霜烈の相槌もまた、重々しいものだった。
「そう。後宮に役者を呼ぶのでは飽き足らず、寝ても覚めても華劇の楽や歌の音が聞こえなければ気が済まず、政務の間も水袖が翻り剣戟が舞っていなければ落ち着かなかったと伝えられる」
「なるほど、重症ね……?」
毎日のように茶園に足を運んだり、役者に貢いだりして身代を傾ける戯迷は市井にもいるけれど。皇帝がそんなことでは政務は本当に大丈夫だったのか心配になる。百年近く前の話で良かった、のかどうか。
「そこで、仁宗帝は後宮の妃嬪の中でも心得ある者に華劇を演じさせた。妃嬪らも皇帝の心を慰めるべく役者を師と仰いで謙虚に学んだ。最初は旦だけだったのが、次第に二枚目や豪傑を演じる妃嬪も現れた」
「お妃様が、男の格好で!?」
燦珠の驚きの声を、高らかに鳴り響く銅鑼の音が掻き消した。今日の演目は《雷照出関》──父・梨詩牙が演じる雷照将軍が、幼君が落ち伸びる時間を稼ぐために城門を開いて死を覚悟した戦いに臨む筋書きだ。城塞に迫る夷狄の兵に扮した群舞隊の足音が、官座の高みにも聞こえてくる。
群舞隊が操る剣や戟が舞い、時に宙を飛ぶのを見下ろしながら、霜烈は続けた。
「女役だけの演目は限られるだろう。皇帝の要望に応えるためもあっただろうし──妃嬪らのほうでも、同じ筋ばかりでは飽きたのだろうな」
「それは、そうね」
燦珠が頷くと同時に、客席が歓声に沸いた。彼女たちとのやり取りとは関係なく、芝居の筋は進んでいるのだ。
舞台の四方に散った群舞隊が、息を合わせて剣を投げ、飛んできたものを受け止める。勇壮な音楽に合わせて隊列を変え、高さを変えてまた投げる──剣の軌跡は見事に交錯し、ぶつかることも床に落ちることもない。厳しい訓練の賜物であって、誰にでもできることではない。
(でも、私にもできるはずよ)
訓練に加わる機会さえもらえたならば。燦珠の身体のしなやかさがあれば、手で放り投げるだけでなく、爪先で受け止めてから蹴り上げることだって、きっと。可憐な──といって良い容姿だと、彼女は自身を評価している──少女が難しい技を決めれば、客席はさぞ喜ぶと思うのに。
「とはいえ女役と男役では唄い方も演じ方も異なるものだ。芸を極めるならばそれぞれ専門でやったほうが良い。そこで女役は女役、男役は男役で教えることにした。無論、後宮の内部でのことだ。男役を演じるために、長身の少女を集めたりして──そうして、役者を育てる場所、皇帝や后妃や皇族に芸を披露する場所として秘華園が造られた。その伝統が今に至るまで続いている、という訳だ」
「披露する……茶園があるのかしら。それとも、大広間みたいな?」
燦珠の声に宿る真剣さと必死さに気付いたのか、霜烈は舞台から目を離した。吸い込まれそうな黒い目が、彼女の視線を受け止め──なぜか嬉しそうに、笑う。
「市井の茶園とは比べ物にならない。皇族がたはもちろんのこと、后妃も宮女も宦官も、優れた役者にはこぞって喝采を送るだろう。外廷の高官にとっても、秘華園に招かれるのは最高の栄誉となろう」
楊霜烈は、役者としても絶対に成功するに違いなかった。滔々と淀みなく語る声の美しいこと、聞き入りたくなる抑揚に満ちていること、優れた女形が台詞を言い立てるようだった。あるいは、燦珠にとって魅力ある内容だからそう聞こえるのか──どちらでも、良いけれど。
「舞台のほうが三階建てになった、大がかりな楼閣さえあるのだ。本物の虎を鎖で繋ぐこともあれば、大河を模して水を引き込むこともある。無論、頂点の舞台に立つのは秘華園の中でも選りすぐられた、ごく一部の者になるが──」
「なるわ、私。そのひと握りに。私ならできるから声をかけてくれたんでしょう?」
誘うように試すように覗き込まれて、燦珠は熱っぽく応えていた。愛の歌を唄う時のように。そして霜烈が彼女を見る目もまた、舞台の上で相手役に向けるかのような情感に満ちたものだった。
「そなたならばそう言ってくれると思っていた」