5.燦珠、嫁に行く?
隼瓊に告げられた演目の名を、燦珠はそっと繰り返した。
「《鳳凰比翼》……?」
聞いたことのない名だ。ならば新作なのか、後宮というか秘華園ならではの演目なのか。いずれにしても、とにかく華やかで縁起が良い気配がする。
(どんな舞なのかしら!?)
尋ねようと燦珠は大きく息を吸った──けれど、大庁の隅で座っていた華麟が椅子を蹴立てる勢いで立ち上がって、高く声を上げるほうが早かった。
「隼瓊! それは、そなたと驪珠が舞ったという演目かしら!? 文宗様の六十の賀で、喝采を浴びたという……!」
「残念ながら違います、華麟様。それは《鶴鳴千年》でございますね」
長い裙の裾を翻して、役者たちのほうへ足を進める貴妃を、隼瓊はその両肩に手を置いて宥めた。男ならあり得ない距離の近さも接触も、女の役者だと許されるのだろう。端整な容貌の隼瓊と可憐な華麟が並ぶのは、実に絵になる光景だった。
「なんだ……わたくしの星晶を、そなたの後継と認めてくれたかと思ったのに」
「認めておりますよ。ただ、燦珠は驪珠に比べるには若すぎますから」
知らない演目に知らない人の名が出て、燦珠と、そして香雪は首を傾げるばかり。新参者たちが置いて行かれているのを察してか、星晶がまたも良い間を見計らって説明してくれる。
「喬驪珠なる花旦の名手が、かつて秘華園にいたのですよ。隼瓊老師とよく組んだ舞台の数々は、私たち後輩の憧れです。……この目で、見てみたかった」
「《鶴鳴千年》と言ったかしら、中でも文宗様の六十の賀は伝説よ。当時の皇帝陛下と皇后陛下が涙を流して絶賛されたそうなのだもの!」
「へえ……!」
熱のこもった星晶の語り口に、華麟のうっとりとした眼差しに、がぜん、燦珠の興味もかき立てられる。長寿の象徴である鶴は、姿も優美だし鳴き声も美しいし、なるほど慶賀の席の演目には相応しい。きっと、神々しく清雅な舞なのだろう。
(それは私も見たいわね……!)
当事者の意見は、と。わくわくしながら隼瓊に視線を向けると、彼女は苦笑して軽く首を振った。
「あの時は、私は添え物に過ぎませんでしたから。鳳凰比翼も華やかな演目でございますから、星晶には合うでしょう。そして、私と驪珠が演じたことがあるものに違いはございません」
「それなら、良いけれど。わたくしね、皇太后様に今の秘華園にも良い役者がいると分かっていただきたいのよ。そのために、星晶にお嫁さんを見つけてきたのだもの!」
白く細い指を拳に握った華麟が高らかに宣言した。前半は分かるとして──最後は、何と言っただろう。燦珠と香雪は同時に、かつ同じ角度に首を傾けた。目を合わせれば、互いに同じ疑問を抱いているのも、分かる。
「……およめさん?」
「ええ、そうよ!」
恐る恐る尋ねた風情の香雪に、華麟は一分の迷いも躊躇いもなく大きく頷いた。燦珠たちの戸惑いは、気付いていただけてないらしい。胸の前で手を組み合わせた貴妃の、夢見るような目が捉えるのは、彼女の役者、星晶だけだ。
「舞台の上で何度も共演する男役と花旦は、夫婦のようなものでしょう? わたくしの星晶に相応しいお嫁さんが現われるのを、ずっと待っていたのよ……!」
分かったような、分からないような演説を聞いて、燦珠はそっと星晶を窺った。
(──と、仰っているけど?)
燦珠は嫁に行く気はない──というか、いくら格好良くても星晶だって若い娘なのだろうし。お見合いめいたことをされても困るのではないだろうか、と思うのだけれど。星晶は口の端を少しだけ持ち上げると、声に出さずに合わせて、と囁いた。どうやら、いつものことらしい。
なので、燦珠は華麟に恭しくお辞儀した。
「ええと……光栄でございます、謝貴妃様。星晶の邪魔にならないよう……魅力を引き立てる、よう? 鋭意、精進いたします」
「ええ! よろしくね、燦珠」
「は、はい」
未婚の身で姑の圧を負わされたのをひしひしと感じながら、燦珠はどうにか笑みを保った。父が懸念していた偉い方々の無理難題にも、色々な形があるらしい。
(謝貴妃様は……確かに良い方ではあるようだけど)
星晶が主を評した言葉は、本心なのか苦肉の策なのか──役者と主の関係に思いを馳せながら、燦珠は隼瓊にも問いかけてみた。
「──あの、喬驪珠という方は、もう秘華園にはいないんですか? そんなすごい方なら、是非とも教えていただきたかったんですけど……!」
星晶と華燭の典を挙げるかは別として、精進が必要なのは変わりない。だって、隼瓊の言葉によると燦珠は驪珠なる名花旦に及ばないということなのだから。どこがどれだけ劣っているのか、手本を見せてはもらえないのか、気になって仕方がない。
何しろ燦珠は、女の役者を目の当たりにしたのもつい最近のことなのだから。自分がどのあたりの水準にいるのか、自分の目で確かめたいと、思ったのだけれど──
「ああ……。驪珠は亡くなっている」
ごく平坦な声と表情で告げられて、燦珠は頭から冷水を浴びせられた気分を味わった。立ち竦む彼女を余所に、隼瓊からは責めたり悲しんだりする気配はなかったけれど。でも、隼瓊の眼差しはここではないどこか彼方を見つめているのがありありと分かる。
「《鶴鳴千年》を披露してからほどなくしてのことだった。病で……。彼女の最後の晴れ舞台だったからこそ、いっそう名を残している面もあるのだろう。以来、その舞を演じた者はいない」
隼瓊はきっと、驪珠という人が舞っているのを時を越えて見ているのだ。どれほど美しく妙なる舞だったのか、どれほどかけがえのない存在だったのか。
だって、華麟の言葉を借りるなら、夫婦のように近しい関係だったに違いないのだ。それこそ番の鳳凰のように。妃嬪も今の教え子たちも、一切目に入っていないかのような焦がれる眼差しがどんな歌や台詞よりも雄弁に語っていた。
「……すみませんでした。大切な方、だったんですよね……」
燦珠が呟いて初めて、隼瓊は今に立ち返ったようだった。この娘は誰で、どうしてここにいるのだろう、と言いたげに軽く眉を寄せてから──微笑む。
「なに、彼女の名が今も語られるのを聞くのは私にとっても嬉しいことだ。そう……ちょうど、名が一文字重なっていることでもあるし。驪珠を目指して励むのは良いことだろう」
燦珠の頭を撫でる隼瓊の手が、彼女の肩にまたひとつ標を乗せた、と思った。
(亡くなった後も語り継がれる名優は、そうはいないわ……!)
男だろうと女だろうと関係なく。燦珠が究めようとしている道の遥か先に、水袖を翻す女の姿が遠く見えたようだった。
* * *
《鳳凰比翼》は、雌雄の鳳凰が泰平の下界を見下ろして寿ぐ様を描いた舞曲ということだった。これもとてもめでたい内容だから、何らかの慶賀の席で演じられたのだろうと燦珠は思う。
華麟と香雪が──というか、主にひと通り熱弁して気が済んだらしい華麟が着席したのを見計らって、隼瓊は舞の伝授を始めた。
「燦珠は柔軟性も筋力も十分、一方でしなやかさはまだ途上だから、回転や跳躍を増やす振りにしてみようと思う」
「はい、老師」
では、伝説の花旦の驪珠は、溌溂さよりも嫋やかさが持ち味だったのだろうか。父に跳ねっかえりと言われた彼女には確かに足りないところだから、心しなくては、と。真剣に頷き、師の動きを食い入るように見つめながら燦珠は肝に銘じた。
「まずは上空を舞う振りからだ。鳳凰が追いかけっこをするように時間差で回転する。番なのだから互いを見つめ合って──」
燦珠がまったくのド素人ではないと確かめた後だからか、隼瓊の授業の進みは容赦なく早い。でも、舞台の袖から父たちの演技を見て盗むよりはよほど分かりやすいし正確に覚えることができる。
だから、星晶と並んで舞い始めて燦珠が目を瞠ったのは、また別のところに、だった。
(ああ──私、誰かと踊るのも初めてだった!)
早く回れば良いというものでもないし、がむしゃらに高く跳べば良いというものでもない。
隣で踊る星晶と、同じ速さと同じ角度、同じ高さでなければならない。走る歩幅も調節して、距離も近すぎず遠すぎずを保たなければ。自分ひとりの見目を気にするよりも、ずっと難しいのは確かなのだけれど──
(でも、楽しい!)
翼に見立てた腕を伸べたまま回れば、その風を受けたかのように星晶が跳ぶ。宙に浮いた両脚を時間差で回転させる、それこそ空中で遊ぶ鳥さながらに軽やかな、見事な飛脚だ。着地した星晶を追って燦珠も跳び、彼女の鳳に受け止めてもらう。立ったところから、指先が床につくくらい背中を反らせる落腰──でも、星晶の支えがあれば次の動きに繋げるのも簡単だった。
互いの動きが連動して、場面を作り上げていく。絡み合い、交錯する手や脚が物語を紡いでいく。ひとりで踊るよりもふたりで踊るほうが、舞が生み出す世界はずっとずっと広く高く広がっていく。
「燦珠、さすが」
「星晶こそ……!」
弾む呼吸の合間、跳躍や回転のすれ違いざまに囁き交わす距離は近く、吐息は熱い。胸が弾むのは、激しい運動が理由に決まっているのだけれど、それだけではないと、思い違いをしてしまいそう。
舞や芝居の相手役のことを妻や夫に喩えるのも、そう的外れではないのかもしれなかった。