4.燦珠、通じ合う
謝貴妃華麟と香雪は、それぞれ八人の宦官が担ぐ轎子で秘華園に乗り入れた。赤を基調に、黄金の鳳凰が優雅に翼を広げる意匠の轎子の上で、華麟は位に相応しく悠然と寛ぎ、香雪は落ち着かなげに担ぎ手の宦官たちに視線を落としているようだった。
大仰な移動のし方にまだ慣れないのだろうと、燦珠にも容易に想像がつく。前回の試験の時は皇帝に謙って徒歩だったと聞いていることだし。八人もの人間をお尻に敷くのは、きっと楽しくはないだろう。
(何人か減らしても大丈夫なんじゃないかしら? 轎子ってそんなに重いのかしら)
華麟も香雪も、細身に見えるのに──と、燦珠が余計なことを考えているうちに、二台の轎子は床に降ろされ、二対の美麗な沓が跪く彼女の視界に入った。その沓が踏みしめ、燦珠が膝をつくのは、後宮の中では珍しいほど飾り気のない、木材を敷いただけの床だ。
というのも、この大庁は本来高貴な方々が過ごすためのものではない。秘華園の中に幾つも設けられているという、役者のための練習場なのだ。
打で思い切り飛び跳ねたり駆けたりしても支障のない広さと、歌や念を響かせるための高い天井。背景の幕を用意するまでもなく、院子には小川が流れ花々が咲き誇っている。大庁の片隅には、燦珠が見たことのない大きな鏡が置かれているのは驚いたし感動した。見得の形や目の演技を、鏡に映して確認することだってできるのだ。
(いよいよ、なのね……!)
香雪が華麟の申し出を受ける意向を示してから、驚くほど早くことが進んでいる。今日から、秘華園の役者としての練習が始まる。星晶を相手役にして、隼瓊に振付をつけてもらって。そして、皇帝と皇太后の御前で舞わせてくれるのだという。
(相手役がいるのも初めてだし、新しく演目を習えるなんて……!)
嬉しいことが続きすぎて、燦珠の心臓は踊り続けて休まる暇がない。夢の中でも唄うか踊るかしているから、いつか弾けてしまうのではないかと思うほど。それくらい、今の彼女は昼も夜もなく浮かれていた。
燦珠の興奮を知ってか知らずか、華麟は軽く指先を動かしたようだった。空気の流れによって、貴妃が纏う良い香りが漂ってくる。
「顔を上げて、楽にしてちょうだい。わたくしたちはいないものと思って、のびのびと練習してちょうだいな」
「はい……!」
言われて顔を上げて初めて、燦珠は華麟の容姿を間近にじっくりと見ることができた。
(ああ……後宮って姫君がいっぱい……!)
楚々とした白菊の美しさの香雪と比べると、華麟の美しさは咲き誇る八重の牡丹といったところだ。
なぜか古風に斉胸襦裙を纏っているけれど、胸元から足先へ、流れる絹の波が実に優美だった。帯が押える胸元では、薄絹の上衣に珠の肌が白く透けて瑞々しくて麗しい。古臭さを感じることなんてまったくなくて、むしろ華劇の舞台から姫君が抜け出したかのような──と、思ったところで、燦珠の脳裏にある演目が閃いた。
「あの……もしかして、《夢境夜話》ですか?」
古の王朝の後宮で、皇帝の寵愛を独占した美姫を題材にしたものだ。その時代の衣装は、まさに華麟が纏う様式だったはず。燦珠が指摘すると、華麟はぱっちりとした目を嬉しそうに輝かせた。
「そう! 分かるの?」
「もちろんです! 夜光珠掩盖望月、后宮的諸花羡慕──満月よりもなお眩い球の美貌、後宮の花たちが見上げるは!?」
「瞥一眼流墜星星 地上的月亮──眼差しひとつで星さえ落ちる、地上の月~~!」
燦珠が歌詞を唱えれば、華麟も淀みなく続きを吟じてくれる。立つ者と跪く者、貴妃と役者、立ち位置も立場も越えて、戯迷の心が通じた瞬間だった。
「あの、謝貴妃様……? 燦珠……?」
気付けば、香雪は戸惑うように首を傾げては目を瞬かせていたのだけれど。置いて行かれてしまった彼女に卒なく説明するのは、燦珠と並んで跪いていた星晶だった。
「華劇の演目でございます。華麟様がとてもお好きなので、あやかった衣装を好んで召されるのです」
「ああ……とてもお綺麗だと思っておりましたが、それで。得心しました」
香雪が微笑んだところで、星晶は恭しく礼をする。役者だけあって少々大仰だけど、でも、だからこそ彼女のすらりとした肢体がよく映える動きだった。綺麗な人は何をしても綺麗なものだ。
「秦星晶と申します。燦珠を貸していただけたこと、沈昭儀様には心から御礼申し上げます」
「貸す、だなんて……。わたくしは、燦珠に心のままに舞って欲しいだけなのです。貴女の演技も楽しみにしておりますね、星晶」
「光栄でございます」
星晶の爽やかな笑みに、香雪はほんのりを頬を染めていたし、星晶のほうも初対面の嬪の言葉を喜んで受け止めたようだった。燦珠としても嬉しく誇らしいことだ。
「──それでは、始めようか」
主と役者の間でのやり取りが一段落したのを見て取って、ここまで脇に控えていた隼瓊がぱん、と手を叩いた。燦珠も星晶も隼瓊も、動きやすい短褐を纏っている。花旦か男役かを区別するのは髪型だけだ。汗をかくのも想定しているから、三人とも化粧はごく薄い。
「まずは燦珠、毯子功をどこまでやれるか見せておくれ」
「はい、老師!」
見せ場とばかりに、燦珠は張り切って手を挙げた。
毯子功は、立ち回りには必須の動作の一群だ。武術を取り入れた動きもあって、激しく、かつ高い身体能力と筋力を求められる。功夫のていどによって、やらせてもらえる舞の見栄えや難易度も変わるのだろうから手は抜けない。
走空頂──逆立ちをして、腕の力で歩く。
倒三丁──前転をしてから後ろにバク転、地についた腕を矯めて、背を地につけずにもう一度跳ね起きる。
連環小翻──身体が環に見えるくらい、手を足の傍につけるバク転を、連続して。
飛腿上枱──回転しながら跳んで、台上に立つ。
枱上前仆──台上から、宙返りしながら飛び降りて、着地。
最後のは、《梅花蝶》を演じた街角でもやった動きだから、踏み切りやすい台から平らな床に着地すれば良いのは簡単なくらいだった。
「まあ、すごい……!」
「やはりね。わたくしが見込んだ通りよ!」
香雪と華麟の、感嘆や称賛の声が間近に聞こえるからなおのこと、燦珠の筋肉も間接もよくしなりよく動く。
「──どうですか、老師!?」
「そうだね……」
息を弾ませる燦珠に、隼瓊も満足げな笑みを浮かべて長い指を顎にあてている。些細な仕草のひとつひとつまで、どこまでも格好良い人だ。
隼瓊は、たぶん燦珠にやれる演目を考えていたのだろう。軽く目を伏せると、長い睫毛が影を落とすのを見れば、女の姿をしてもさぞや綺麗なのだろうと思わせる。燦珠が息を整えながら見蕩れていると──隼瓊はおもむろに口を開いた。
「《鳳凰比翼》を、やってみようか」
作中の衣装の様式は明代を想定して描写しています。
華麟が着ている斉胸襦裙は唐代の様式なので数百年~千年くらい時代がズレたファッションをしている感じです。
「源氏物語が好きだから!」で十二単を着てくる人が現れたと思っていただければ。