2.霜烈、深まる謎
燦珠を誘った麗人の名は、秦星晶。永陽殿を賜る謝貴妃華麟のお抱え役者で、見た通りの男役ということだった。
「永陽殿には、今は良い花旦がいないんですって。で、私の演技を見て気に入ってくれたそうなんですけど」
燦珠はいったん秘華園を出て、香雪の殿舎に参上している。ひとりで戻れるか甚だ不安だったけれど、そこはさっそく翠牡丹がものを言った。彼女が携えた翡翠細工を見るなり、侍女も宦官も恭しく道順を教えてくれたのだ。秘華園の役者というのは、思った以上にすごい存在なのかもしれない。
「まあ、それで早速……?」
「はい。なのでお許しをいただければ、と思いまして」
でも、香雪が燦珠にも席と茶菓子を用意してくれたのは、役者として取り立てられたからではないだろう。これは、この方がとても優しくて身分低いものにも分け隔てがないからだ。霜烈と、老宦官の段叔叔が部屋の隅に立ったままなのは、ふたりが固辞したからに過ぎない。
(一緒にお茶にしたら良いのに)
炒紅果──甘酸っぱい山査子の甘露煮を楽しみながら、燦珠は例によって麗しく涼やかな霜烈の顔を窺う。彼も話に参加しているのだから、立っていられるとこちらは居心地が悪いのに。跪いていないだけまだマシなのかもしれないけれど。
この場の主導権を握るのは、華やかに装った香雪ではなく、黒一色に影のように装った霜烈のほうだ。話を聞き終えた香雪は、縋るような眼差しで霜烈へ軽く身体を傾けている。
「謝貴妃様は、確かに試験の時も燦珠の味方をしてくださっていましたわ」
燦珠と同じく、香雪もこの話を受けて良いか判断できないのだ。
(良いって、言ってくれますように……!)
あの男装の麗人──星晶の、願ってもない誘いに一も二もなく頷かなかったことは、褒めて欲しいと思う。たとえ後宮の偉いお妃に何らかの思惑があるのだとしても、燦珠としては踊れるならそれで良い。相手役がいるのも初めてなら、女同士で演じるのも初めてだから、是非ともやってみたい。
でも、それは彼女の願いでしかない。香雪のお抱えという名目で翠牡丹を得たからには、この方の不利になることはしてはならないだろうと、辛うじて理性を働かせることができたのだ。とても偉い。偉いからといって思い通りになるかというと、もちろんそうではないのだろうけれど。
「星晶は、貴妃様は良い方だって……」
「まあ、当然そう言うであろうな。主なのだから」
おずおずとつけ加えてみたけれど、霜烈にあっさりとばっさりと斬り捨てられてしまった。けれど、しばし考えるような素振りを見せた後、彼は香雪に向けてふわりと微笑んだ。
「とはいえ、永陽殿の御方は、純粋な華劇好き──というか役者好きでいらっしゃいます。牽制でも罠でもなく、真実、名手同士を共演させたいということかと存じます」
「真的嗎!?」
霜烈は、さらりと燦珠を名手、だなんて呼んでくれた。しかも、この言い方はとても期待ができそうだ。香雪も、安堵したように柔らかな笑みをほころばせている。
「では、お引き受けしましょう。燦珠の舞はとても素敵でしたから。認めてくださったのはわたくしにとっても誇らしいことです。……あの、名ばかりの主なのに図々しいのですけれど」
「いいえ! 香雪様がいなければ私は後宮に入れませんでしたし!」
嬉しい方向に流れが傾いた興奮のまま、燦珠は拳を握って明るい声を上げた。皇帝の華劇嫌いに、たまたま後ろ盾のいない妃嬪がいたこと、その御方が役者を必要としていたこと。すべてが重なって燦珠は今、ここにいる。そう思うと、皇帝に対してさえ伏し拝みたいくらいだ。
(しかも人のためになるって言うし……!)
燦珠が上手く演じれば演じるだけ、香雪の後宮での地位も確かなものになるのだろう。か弱い佳人のために、だなんて。それこそ華劇の筋書きのようで血沸き肉躍る。今にも踊り出したいくらいに。
山査子の実のごとく頬を紅く染めているであろう燦珠を余所に、霜烈の表情は凪いだ水面のように変わらない。ただ、香雪に向ける眼差しはかなり優しいものに見えた。
「相手がいれば、この者の舞はいっそう際立つことでしょう。秦星晶も良い役者と聞いております。昭儀の御心も安らがれますように」
「楊奉御も燦珠も、わたくしのために心を砕いてくださって……! 何とお礼を申し上げたら良いか──」
感激したように目元を抑える香雪に、霜烈は恭しく拱手して目を伏せた。
「後宮の安寧は、我ら宦官も求めるところでございます。卑しい者の保身に過ぎませぬ」
それはまあ、妃同士が争ったり虐められる御方が出てきたりするよりは、勢力が拮抗しているほうが良いのかもしれない。だから弱いところに加勢する、と──もっともらしくは、あるけれど。
(相手に合わせて調子の良いことを言うのね、この人)
試験の後の一幕を思い出すと、燦珠が霜烈を見る目は少々皮肉っぽいものになる。燦珠をまんまと乗せた口の上手さを思うと、香雪に対してもどこまで本気か知れたものではない。だから、すこし揺さぶってみたくて、なるべくさりげなく、告げる。
「あ、あとね。宋老師が阿楊によろしく、って」
秘華園を辞する時に、あの艶やかな琥珀の美しさを持つ人が言っていたのだ。
このふたりに繋がりがあるのは、よく考えればそれほど驚くべきことではない。試験の後、燦珠と霜烈がふたりきりで話せたこと。宋隼瓊が、燦珠は役者の家の出だと知っていたこと。つまりは、事前に話を通しておくことができる間柄だったからだ、ということになるから。
(でも、どういう知り合いなの!?)
いつも涼しげな顔をしているこの男を少しは狼狽えさせてみたい。そう思うと、燦珠の期待は否が応にも高まった。
「……そうか」
けれど、霜烈が固まったように見えたのも一瞬のこと。すぐに冷静に頷かれてしまったからつまらない。思わず、燦珠は唇を尖らせた。
「ねえ……宦官は舞台に立たないの? 老師と知り合いなのに?」
彼女の感覚では、背が高くて顔と声が良い者が役者でないのはものすごく惜しいのだ。秘華園は女の役者のためのものとは言うけれど、宦官は男でも女でもないのだから良いのではないかと思ってしまう。だからつい、食い下がってしまうのだけれど──
「翠牡丹の効果は見たであろ。後宮で役者とまったく関わらずに暮らすのは無理というものだ。特に先代様の御代はそうであった」
すかさず口を挟んだのは、段叔叔だ。そしてすぐに、霜烈も言い添える。
「宦官に丑役を演じさせることもあるにはある。が、私がやったところで笑えはすまい」
「ふーん……」
翠牡丹を帯びる役者が目立つのは当然として、宦官と知己を得るかはまた別のはずだ。そして、霜烈は確かに道化役の任ではないかもしれないけれど、姫君役や、普通に(?)二枚目役ならどうなんだ、という疑問に答える気はないらしい。
(またはぐらかしたわね……)
霜烈の澄ました顔を半眼で睨めつけながら、燦珠はとろりとした炒紅果をまたひと口味わった。
隠し事をされて、気分が良いはずはない。とはいえ、知り合ったばかりの相手だし、恩もあるし。今のところは追及しないでおいてやるか、と思う。何しろ、彼女は後宮で──ひいては国で一番の花旦を目指すのだから。道のりはまだはるか遠く、よって霜烈とも香雪とも長いつき合いになるはずだから。