1.翠牡丹、玲瓏たり
選抜試験から一夜明けて、燦珠は秘華園にいた。役者になるにあたっての書類の上での手続きが終わって、あとは新入りに細々と教えることがあるのだという。
「──そなたはこれからは秘華園に住まうことになる。婢もつくから身の回りのことは心配いらぬ。沈昭儀は後宮に不慣れでいらっしゃるゆえ、気に懸けられることであろうが。早く馴染めば、昭儀も安心なさるだろう」
「はい」
「気になることは?」
「今のところ、ありません」
燦珠の住処として見せられた建物も、案内が終わってから通された部屋も、豪奢さよりも質と実を旨としているようだった。あるいは、彼女の目が後宮の贅にあるていどなれたのかもしれないけれど。いずれにしても、居心地は悪くないようだから安心した。何より、芝居に専念できる環境だというならこれ以上は望まない。
「では、これを」
燦珠の手に授けられたのは、翡翠を牡丹の形に彫り込んだ細工だった。生花にはあり得ない色なのに、花弁の一枚一枚は瑞々しく象られていて、掌の熱を吸い取る石の冷たさが不思議なほどだった。
(すごい……硬い翡翠をこんなに綺麗に彫るなんて)
宝玉そのものの価値に加えて、この精緻な細工。それだけでも小娘の手に収めておくのはもったいない逸品なのに、この牡丹にはさらに重要な権威を帯びているのだという。案内役を務めていた女は、目を丸くする彼女を見て満足そうに微笑した。
「翠牡丹、と呼ぶ。秘華園の役者の身分を証明するものゆえ、常に身に着けておくのが良いだろう。後宮のたいてい場所は通れるようになる」
「はあい。すごいんですね?」
言われてよく見れば、牡丹の裏側には萼の代わりに穴が開けられている。紐を通して佩玉として帯から提げたり、髪飾りや瓔珞にも使えそうだ。
燦珠が対峙する女も、髷に、とろりと艶やかな深緑の艶を帯びた牡丹が咲かせている。ただ、女の髪型は優雅に結い上げたり、簪を何本も挿したりするような華やかなものではない。小さく、そしてしっかりと結う男の形の髷だ。
宋隼瓊と名乗ったその女性の年齢は燦珠には窺い知れない。小娘ではないのは確かだけれど、髪は黒く、化粧っ気も薄いのに肌には張りがあって、年老いているとも思えない。何より、官吏のように身体の線を隠す円領の袍を纏っているからさらにややこしい。分かるのは、凛とした雰囲気の綺麗な人だ、ということくらいだ。
(楊奉御みたい……だけど、女の人、よね?)
見る者に男女の別を迷わせる妖しく不思議な美しさは、霜烈のものと似ている。
けれど、翠牡丹を帯びている以上は、この人も秘華園の役者で、れっきとした女性なのだ。きっと唱も上手いのだろう、女にしては低く、男にしては高い声も抑揚が豊かで、普通に話しているだけでも聞き入りそうになってしまう。霜烈の声が滑らかな天鵞絨なら、この人は飴のような琥珀の深い艶を思わせる。
「妃嬪様がたの無聊や憂いをお慰めするのに秘華園に留まってはおられぬからな。むしろ、おひとりで過ごす夜にこそ唄や舞を所望されることもある。そう、だから常に万全の体調を整えておくように」
「分かりました」
隼瓊が語る内容も、役者の心得としてはまことにもっともなことだった。なので燦珠は大人しく頷き──けれど、好奇心を抑えられずに図々しく切り出した。
「あの……大姐は──」
大娘、や太太、と呼ぶのは絶対違う気がしたので、迷った末に燦珠が選んだ敬称を、けれど隼瓊は小さく首を振って退けた。
「老師と呼びなさい」
「──宋老師は、男を演じるっていう役者ですか!?」
燦珠がめげずに問い直すと、隼瓊は口元を少しほころばせた。
「そう。若いころは二枚目役を演じたものだ。最近は、豪傑役が多いかな。隈取りをすると皺が隠せるから、良い」
「そんな。とてもお綺麗なのに」
隼瓊の長い指が触れるその頬に、皺なんて見えない。それは、もっと若いころはものすごく綺麗だったのだろう、とは思うけれど。演技でもお世辞でもなく目を瞠った燦珠に、その不思議な美しさを持つ人はさらりと頷いた。
「ありがとう」
短く端的な礼は、燦珠の言葉を謙遜なく受け止めているからだと聞こえた。隼瓊は、たぶん年齢による変化を嘆くことなく、自身の今の美に自信を持っているのだ。実に格好良い。
(爸爸に見せてやりたいわ……!)
隼瓊は、父の梨詩牙よりも年上ではなかろうか。女の役者なんて、とか貶してた父が、自分よりも長い年月功夫を重ねてきたかもしれない女性を見たらなんて言うだろう。
「──昨日、女の子がたくさんいるって感動したんです。でも、あの子たちの中にも男を演じたいって子がいたのかしら……?」
なぜか得意な気分になりながら、燦珠の口は止まらない。出された茶菓に手を付ける暇もなかった。寝食のことはさておいても、秘華園とその役者について聞きたいことは山ほどあるのだ。
「練習は、どのようにするんでしょうか。花旦と男役では違う場所でやるのかしら。それとも一緒に? 老師ということは、教えていただけるんですか? 演目は、街の茶園でやってるのと同じですか? 人前で唄ったり踊ったりできるのは、いつになりますか!?」
「落ち着きなさい」
「はい! でも、秘華園なら女でも芝居をやって良いって聞いたから、これからは堂々と練習し放題で舞台にも立てると思うと私──」
「落ち着きなさい」
燦珠が本当に落ち着いたのは、二度窘められてからやっと、だった。隼瓊は苦笑してはいるけれど、頭ごなしに叱ったり小娘のはしゃぎようを嗤う気配はない。順々に答えを与えてくれると直感したからこそ、この麗人が首を傾けて言葉を選ぶ風なのを待つ気になれた。
燦珠の熱い眼差しを浴びながら、隼瓊はゆっくりと唇を開く。
「貴妃様がたはそれぞれ戯班を抱えておられる。通常は抱えの役者の得意に合わせて演目を考えることが多い。沈昭儀に格別に親しくしておられる御方がいらっしゃらないなら、まずは端役から声が掛かることであろう」
「なるほど……」
燦珠の相槌に、隼瓊は試すような微笑で応じた。
「落胆したか? 若者は主役をやりたいものだろう」
「いいえ! いつも父や哥哥たちの舞台を見ているだけだったんです。昨日のは衣装も伴奏もなかったけどとても楽しくてどきどきして──だから、演じられるだけでも嬉しいです」
「ああ、そなたは役者の家の出だったな。阿楊──楊奉御の、贔屓の」
「はい。なので身内優先なのは分かりますし仕方ないですし」
金や茶園を持っている興行主がいなければ芝居は成り立たないし、客は有名な役者を見るために集まるのだ。よく分からない新参者に大役を任せられないのはそういうものだ。それに──
「要するに、できるって思ってもらえれば良いんですよね? 天子様にも認めていただいたんだから、貴妃様だって……!」
燦珠が続けた言葉は秘華園のほかの役者はものともせずと言ったも同然で、口にするのに少し勇気が要った。
生意気な大言壮語はさすがに怒られるかもしれない。手の中に抱えたまま、体温ですっかり温まった翡翠の牡丹を握りしめながら挑むように隼瓊を見つめると──けれど、思いのほかに柔らかく優しい眼差しが返ってくる。
「確かにあれは見事であった。陛下は全員落とすつもりでいらっしゃったのだろうに。……造らせた翠牡丹がすべて無駄にならなくて、良かった」
「……やっぱり天子様は華劇がお嫌いなんですね……?」
役者の大先輩からの称賛も、手放しで喜ぶことはできなかった。秘華園からも、皇帝のあの出題は無理難題のつもりだと解釈されているらしい。応えることが可能かどうかではなく、あの御方の意思としては、ということだ。
前途多難を思って溜息を吐く燦珠に、隼瓊は励ますように明るい声を上げた。
「私が言いたいのは、そなたはとても目立った、ということだ。端役と言わず、すぐにでも指名がかかるやも──」
「隼瓊老師!」
と、隼瓊の艶のある声を遮って、扉を開く音が響いた。同時に、これもまた張りのあるのびやかな声が。
「新しく入った子のことでお話が──ああ、ちょうど良かった」
扉のほうを見やれば、長身の人影が佇んでいる。隼瓊と同じく、細くしなやかな身体を袍衣に包み、髪を男の髷に結った、男装の麗人が。帯に提げた綬には翠牡丹が艶やかに咲いている。では──この人も、秘華園の役者だ。それも、男を演じる。
彼女は燦珠の姿を認めてかふわりと微笑む。この短い間によく見るようになったけれどまだ慣れない、美しく妖しく、胸が騒ぐ綺麗な笑みだ。
(なんか、また出てきた!)
燦珠の心中の叫びは聞こえていないのだろう、新たに現われた綺麗な人は、軽やかに長い脚を操ると、ごく滑らかな所作で座る彼女の傍らに跪いた。間近に見下ろすと、整った白皙の顔立ちは意外と若く、燦珠よりほんの少し年上なだけではないか、と見える。とにかくも、朝日を浴びて伸びる若竹のような、爽やかで凛とした美しさの人だ。
その美人が、燦珠を見つめて囁きかける。
「君と、踊りたいと思ったんだ」