7.皇帝、決断する
趙貴妃瑛月の甲高い声が、翔雲の耳に突き刺さる。
「あのていど、わたくしのところの子でもできますわ! ほかの者にもあれを舞わせてくださいませ。でなければ不公平というものです!」
では、梨燦珠とかいう娘は趙家の送り込んだ駒ではなかったようだ、とだけ翔雲は心に留める。瑛月の訴えについては、取り合うまでもない。
「ならばなぜ立たなかった? 朕は出題に沿って舞えと命じていた」
「それは──思いつかなかったのでございましょう。役者の試験で機転を問う必要はございませんわ。技量を見てやらなくては……!」
「まあ、趙貴妃様。それは後知恵というものですわ」
瑛月の苦しい言い分を切り捨てたのは、軽やかな女の笑い声だった。瑛月が棘のある薔薇ならば、こちらは牡丹といったところか──ふんわりとした雰囲気ながら華やかな美貌のその女は、謝貴妃華麟という。
「あの子以外の者たちは、その機会を放棄したのでしょう? わたくし、あの子の勇気は報われるべきだと思いますの」
「蛮勇とでも呼ぶべきですわね。花旦の基礎の基礎を、陛下の前で演じようだなんて!」
「でも、みんなその基礎の基礎さえ見せられませんでしたのよ?」
謝家は、趙家と同様に長年にわたって後宮と秘華園に君臨してきた権門だ。だから瑛月と華麟のやり取りに棘が見え隠れするのも当然だし、華麟を信用するのも危ういだろう。試験の名目で、香雪のもとに間者を送り込もうとしているのは謝家かもしれないのだから。
「ね、そなたたちはどうして弾いてあげたの?」
疑惑に眉を寄せつつ沈思する翔雲を余所に、華麟は脇に控えた楽師たちに声を掛けた。黒衣を纏った宦官たちのうち、特に京胡と月琴を担当していたふたりに対して。
そう……彼らの勝手な演奏もまた、翔雲の不機嫌の理由だった。燦珠という娘の舞に花を添えるものだったのは、彼にも分かる。実際、演奏が始まった後、娘の舞は水を得た魚のようにいっそうと活き活きとしていたのだ。
(命じてもいないのに余計なことを)
皇帝の不興を感じてか、予期せぬ貴妃の下問に狼狽えたのか、宦官の楽師たちは恐懼の体で身体を床に投げ出した。
「それは──歌も舞も、演奏あってのものでございますから」
「あの舞に伴奏がつかないのは……その、惜しいと、存じました」
秘華園に仕える以上、楽師の技量も見る目も確かなものなのだろう。その彼らをして、あの娘の演技を認めていると言われたも同然で、翔雲の口中は酢でも呑み下したような不快な味が満ちる。いっぽうの華麟は、我が意を得たりとばかりに声を弾ませた。
「お聞きになりまして、陛下!? 伴奏も待たずに舞い始めるなんてよほどの熱意と自信ですわ。あの子は秘華園の役者に相応しいと、わたくしは思います!」
無邪気なようでいて、華麟の真意は知れたものではない。だが、瑛月と違って彼女の進言を無下にすることもできなかった。華麟とその実家の思惑に関わらず、皇帝とは自身の発言に対して責を負う。気に入らぬからと言って簡単に翻せるものではないからだ。
「綸言は汗のごとし。あの者は朕の出題に沿った舞いを披露した。合格させぬ理由がない」
溜息と舌打ちを堪えて宣言すると、一堂が沸いた。驚く者、喜ぶ者。貴妃たちはさすがに簡単に表情を崩さず、瑛月はほんのわずか眉を寄せ、華麟はおっとりと微笑むだけ。香雪は──ひとまずは安堵の表情を見せている。皇帝と貴妃たちの間に漂う険悪な気配が、よほど恐ろしかったのだろうか。
「陛下、合格者には御言葉を賜りますように──」
「うむ。呼び寄せよ」
雑な命令で宦官を走らせてから、翔雲は椅子に沈み込んで記憶を手繰る。先日の夜、隗太監が申し述べた、秘華園を維持すべき理由──そのひとつが、今になって蘇ったのだ。
(市井の暮らしを演じて後宮の者に見聞を広げさせ民心を知らしめる、か……)
本来は皇位を継ぐ予定ではなかった彼は、父の王府でそれなりに民の暮らしに接してきた。燦珠という娘が見せた舞というか演技は、まさしく庶民の女の仕事を描き出したものではなかったか。
荒唐無稽な夢物語ではなく、妄りがましい出し物ではなく。ともすれば浮世離れした皇宮の住人に、民の暮らしを見せる──そんな演目に対して、否定する理屈はあり得るのかどうか。考えずにはいられなかった。