5.皇帝、出題する
翔雲の宣言を聞いて、叩頭した娘たちから伝わる熱と圧が一段高まったようだった。皇帝の意に適おうとするその気迫だけなら、野心ある官吏たちと並ぶかもしれない。彼が感心するかというと、また別の話ではあるが。
(それほど必死なのか。たかが芸事だというのに)
若い娘は、花嫁修業に励めば良いだろうに、と。醒めた感慨に耽る翔雲に身を乗り出したのは、趙貴妃瑛月だ。咲き誇る薔薇に似た華やかな美貌に、ありありと好奇心を浮かべている。
「その、条件とは何ですの?」
出題を舞にするよう強請ったのはこの女だった。恐らく、子飼いの候補者が舞手なのだろう。
(喜ぶのは、まだ早いと思うが?)
何もこの女の機嫌を取るための出題ではないのだから。皇帝の興味が自身に向いていると期待したなら、それは早合点というものだ。
「花鳥風月。四季折々の風光明媚。神仙に怪異。血沸き肉躍る戦記、美姫が紅涙を絞る悲恋──」
口元に笑みを浮かべて、翔雲は次々に挙げた。ひと言ごとに娘たちの熱気が高まっていくのが、御簾に遮られることもなく伝わっている。試験の課題になるのはどの要素なのか、習得した演目のどれなら該当するのか、必死に考えていることだろう。──無駄なことだ。
「朕は物語に疎く、風雅も解さぬ。よって、迂遠な喩えは見ても楽しめまい。先に述べたのではない主題で舞ってみせよ」
翔雲が言い終えると、しん、と痛いほどの沈黙が降りた。麗らかな初春の晴天だというのに、真冬に戻ったかのような。彼は、娘たちの高揚に冷水を浴びせることに成功したようだ。
(幾らでも舞うが良い。条件に沿っていれば、な)
自身で述べた通り、翔雲は華劇の演目にはまったく詳しくない。が、大体において花だの蝶だのを演じたり、月やら星やらを称えたりするものだろうということくらいは承知している。先日の酔った仙狐とやらの演目を思い出して、念のために条件を増やしさえした。
これだけ言っておけば、出題に適う演目はまずあるまい。あるいは、彼の意図ははっきりと伝わるだろう。
合格者を出すつもりはない。華劇が扱う夢物語には一切の興味がない、と。
それぞれに候補者を出しているはずの貴妃たちでさえ、翔雲の言葉に異を唱えることができずに固唾を吞んでいる。美しい顔が白く青褪めているのを小気味良く眺めながら、彼は末席に控えた香雪に微笑みかける。心配いらぬと、伝えるために。
(役者などいなくても何の問題もない。秘華園の倣いなど知ったことか)
彼の治世においては、これまでのやり方は通用しない。今日は、それを後宮に知らしめてやるのだ。
薄紅の花霞のような娘たちのほうに目を向ければ、列は髪一筋ほどにも乱れていない。やはり、誰も名乗り出ることはできぬのだ。翔雲は、御簾の外にも届けるべく声を張り上げる。
「誰もおらぬのか。ならば全員落第となるが──」
構わぬか、と。誇らかに問おうとした翔雲は、しかし、高く澄んだ声に遮られて言い切ることができなかった。
「あ、私、やります。踊って──良いんですよね?」
皇帝の玉声を遮っての発言は、言うまでもなく大罪だ。いや、この場合はそもそも皇帝の出題に応えたのだから罪には問えぬのか。だが、呆れた度胸であることは変わりあるまい。
蛮勇の持ち主は、挙手しながら立ち上がると、いまだ微動だにせぬ候補者たちの列から抜け出し、前へ──皇帝と妃嬪が見物している殿舎の前庭へと進み出た。そこは、石畳が四角く芝生を覆う上に絨毯が敷かれて、露天の舞台となっている。
御簾越しでは顔かたちは分からないが、さすがに役者候補らしく、すっと伸びた背筋に体重を感じさせない軽やかな足の運びだった。皇帝の御前にあって、怖気づく気配は微塵も見えない。
「……何者だ、あれは」
無論、翔雲は天晴、などとは思わない。不快と不審も露に低く吐き捨てると、宦官が右往左往する足音と衣擦れが聞き苦しく響いた。候補者の身元を記した書類を照会したのだろう、彼の疑問への答えはほどなくして与えられる。
「梨燦珠と申す──沈昭儀様の侍女ということですが」
宦官の奏上に、その場の者の視線が一斉に香雪に集まった。鞭打たれたように身体を震わせた彼女は、襖衣の袖で顔を隠し、震える声で無言の詰問に答える。
「た、確かにわたくしの侍女でございます。あの……心得があると、いうことでしたから。だから、試験に臨みたい、と……」
「どこから現われた侍女だ。誰に押し付けられた!?」
突然注目を浴びて怯えた風の寵姫が、哀れではあった。だが、翔雲は声を荒げずにはいられなかった。香雪に役者候補を送り出す伝手がないのはよく知っている。ならばその侍女とやらは貴妃のいずれかが育てた娘だろう。役者を貸し出すのを禁じたからと、抜け道を探し出したとしか思えない。
(このような真似をしたのは、何者だ……!?)
翔雲は、頭を巡らせると貴妃たちを睨みつけた。ひとりひとり、問い質したいところではあったが──
「あの、ほかに誰もいないんですか? 私が一番に演技しちゃいますけど」
御簾の外から、場違いに明るい大声が響く。無理難題を出してやったというのに、場の空気が凍りついているというのに、簡単な問題に誰も答えないのを訝しみ戸惑う気配さえある。
疑問の視線が集中するのは、今度は翔雲に対して、だった。あの娘をどうするのか、踊らせて良いのか、と。妃嬪や宦官の、怯えたような眼差しが煩わしかった。
「……好きにさせよ。単に目立とうというだけなら相応の報いを与える……!」
吐き捨てると、香雪が悲鳴のような喘ぎを漏らして口元を押えるのが視界の端に見えた。守りたい女を、どうして怖がらせてしまうのか──やり場のない苛立ちは、巻き上げられる御簾の向こう側、泰然と立つ役者候補に向けられた。
(何が舞えるというのだ? 見せてみるが良い……!)
切りつけんばかりの鋭い眼差しで、翔雲はその娘を睨みつけた。
* * *
叩頭する少女たちを見下ろして、燦珠は心中で首を傾げた。示し合わせる時間などなかったのに、誰もまったく同じ姿勢で、ぴしりと乱れない列を作っているのはさすが、なのかもしれないけれど。
(どうして誰も立たないんだろ?)
不思議に思いながらも足を進めて、石畳の上に敷かれた絨毯を踏む。緑の芝生に、白い石。そのさらに内側に、深緑色を基調にした蔓草模様。薄紅の衣を纏った候補者が舞えば、花が咲いたように見える、という趣向だろう。
我先に名乗りを上げて、一番槍は競争になるのでは、と思っていたくらいなのに。あまりにも誰も立たないのに驚いて、かえって手を挙げるのが遅れてしまった。それはまあ、花鳥風月だのを挙げてどれにするのか、と思わせた上でひっくり返したのだから、思い描いた演目ができなくなって困っている、ということはあるかもしれない。
(でも、どう考えてもあれをやれってことよねえ?)
天子様はさすがに洒落た出題をするものだ、と。彼女は密かに感心したのだ。役者の腕を見るのに、これ以上のお題はないと思うから。
もちろん、名高い演目や、技巧を凝らした舞を見せたいという想いは誰しもあるだろう。さっきの喜燕という少女を見ても分かる、集められた娘たちはどの子も厳しい鍛錬を重ねてこの場に来たのだろうから。燦珠が舞ったことがある《梅花蝶》や、難しい《酔芙蓉》みたいな演目をやりたかったのかもしれない。
(でも、基本が一番難しいって言うし!)
制限を課された中で、うるさい観客を満足させることができたなら──それこそ、役者冥利に尽きるというものだ。
(天子様は、気に入ってくださるかしら?)
一抹の不安さえも、期待を高める妙薬だった。胸が弾み、上がった体温によって手足に血が巡るのを感じながら、燦珠は、その場に寝転がった。