4.秘華園、百花繚乱
秘華園は、後宮の最奥に位置するとのことで、沈昭儀香雪の殿舎からはさらにまた歩かされることになるということだった。
「元々は庭園だったのだが、仁宗帝が役者の修練所や宿舎や劇場を集約したのだ。唱や楽の練習は何かと騒がしくて後宮には似つかわしくないからな、隔離する必要があったのだろう」
「ええ、後宮はとても静かで落ち着かないものね」
殿舎の敷地を出る前に、霜烈は燦珠を振り向いて教えてくれた。ひと晩を後宮の片隅で過ごした翌朝のこと、秘華園の役者を選抜する試験は今日にも行われるのだという。香雪と対面した直後に告げられたものだから、話の急さにはさすがに驚いたものだ。お陰で昨夜は、疲れているのに興奮して寝付くのに苦労した。
(本当にギリギリだったんじゃない……!)
彼女自身については、いつでも演じたいし常に最高の状態にあるよう自らに課しているから、別に良い。でも、香雪はさぞ気を揉んでいたことだろう。老宦官の段叔叔が転がるように飛び出して来たのも納得できるというものだ。
(天子様も、もっとどうにかできなかったのかしら)
皇帝の権限なら、試験日を後ろ倒しにすることぐらい簡単なのではないだろうか。それが無理なら、香雪を見舞って安心させてあげるとか。燦珠が見つかったこと自体は、何日か前に分かっていたのだろうに。それは、栄和国のすべてを預かる御方なのだから、さぞや忙しいのだろうけれど。
「後宮では、婢や宦官は無用の声を出してはならぬということになっている。違反すれば鞭打ち刑だ。役者はもう少し大目に見られるが、沈昭儀を煩わせぬためには心したほうが良いだろう」
「えっ」
沈黙の掟が適用されるのは、殿舎の外に一歩でも出たら、ということなのだろう。いまだ門内に留まったまま、霜烈はにこやかに怖いことを言って燦珠の目を見開かせた。
「家具や食器が突然口を利いたら不都合であろう? 秘華園の内ならばその限りではないから、やはり合格せねばな」
「家具や食器、ね……」
鸚鵡のように繰り返す燦珠の頭に蘇るのは、酔った父が何度も繰り返した話だ。偉い人を揶揄う台詞で鞭打たれた劉小父さんのこと。貴族や役人は役者など人間と思っていない、と──使用人も同じだということなのか。
でも、自身をも卑下しながら、霜烈の態度はごくさらりとしたものだ。
「竹の箸と青磁の皿では扱いが変わるのも当然のこと。無二の役者は宝物同様に重んじられることだろう」
「そうね。私は、宝珠だもの。大事にしてもらわなきゃね」
燦然と輝く、宝珠。
父母は容姿や心映えがそうあれと願って名付けてくれたのだろうけれど、それだけではない。彼女の才は誰にも負けずに眩く光を放つはず。その輝きに相応しい評価を受けるはず。そう信じて、燦珠は沈黙が支配する後宮の通路に一歩を踏み出した。
* * *
「わ──」
わだかまりめいたものを胸に抱えて霜烈の背に従って歩くことしばし──けれど、秘華園の門を潜り、木々と花々に彩られた山水の庭を抜けて開けた広場に至った瞬間に、燦珠は喜びの声を上げていた。秘華園の中は沈黙の掟とはもう無縁のはずだから何の遠慮もいらない。
第一、その名にふさわしく四季の花鳥で彩られた門の内側は、鳥の囀りのような高く澄んだ歌の声で満ちている。先に到着していた役者候補の娘たちが、歌の練習に励んでいるらしい。
燦珠も含めた候補者たちが纏うのは、交領襦に褲子を合わせた軽装の短褐だった。市井の役者の練習着とさほど変わりない。ただ、秘華園の名にちなんでか、色は薄桃色から紅色の淡い赤系に統一されている。近くにいる者同士でおしゃべりしたり、身体をほぐしたり──少女たちの仕草によって様々な赤色が揺らめいて、広場には華やかな花が咲き乱れているかのようだ。
「女の子ばっかり! みんな、役者を目指してる子なのよね? 唄って踊れるのよね?」
「そうだ。練度は様々だろうが」
はしゃぐ燦珠に答えながら、霜烈は広場の一角の四阿に向かう。卓を設えたその屋根の下では、筆を持った宦官が何やら書き付けている。候補者の素性や姓名の管理をしているらしい。梨燦珠、の名が鮮やかな墨痕で記されるのを見届けて、霜烈は満足そうに頷いた。
「私がつきっきりでいられるのもここまでだ。娘たちに混ざって順番を待つのだ。陛下より出題があるから、それに沿った演技をすれば良い」
「分かったわ」
霜烈に背を押されて、花のような紅色の衣の娘たちの列に入ろうと駆け出しかけて──燦珠はふと、首を傾げた。
「お題って、演目を指定されるの? それとも即興で? 歌なのかしら、それとも舞なの?」
「回によって変わるが、不可能な無理難題にはならぬであろう。そなたならば合格できる」
では、合格には出題との相性による運もあるのかもしれない。でも、何であろうとひと通り演じられなければ一人前の役者とは言えないだろう。そして霜烈の言う通り。
唱、念、做、打──四功のどれに当たろうと、燦珠は誰にも負ける気はない。それなら出題を気にする必要はないということだ。
「そうね? じゃあ、楽しみにしておくわ!」
霜烈に手を振って、広場の百花繚乱に混ざった燦珠は、腰腿功をしている少女に目を留めた。横一字──左右に開脚して股関節を伸ばしている彼女と目線を合わせるべく、同じ格好になってぺたりと上体を芝生の生えた地面につけて──そして、にこりと微笑む。
「ねえ、貴女、なんて名前? 私は、梨燦珠。延康の、役者の家の出なんだけど」
図々しく話しかけたのは、その少女もひとりきりで、ほかの候補者と面識があるようではなかったから。そして、燦珠と同じ十六、七の年ごろで、かつとてもしなやかな脚の線が素晴らしかったからだ。
(ほかの子は、どこから来てるのかしら。今までどこで鍛錬してたのかしら。腰腿功のやり方は、どこも変わらないみたい?)
聞きたいことはたくさんあった。そうでなくても身体を解しておくのは大事だし、舌も喉も温めておきたいし。何より、男の兄弟弟子ではなく、同じ年ごろの女の子と一緒の鍛錬なんて初めてで、好奇心を抑えることなんてできそうになかったのだ。
「……崔、喜燕」
くっきりとした目鼻立ちのその少女は、驚いたように目を瞠りながら、それでもぼそりと答えてくれた。燦珠はすっかり嬉しくなって、声を一段高めて縁起の良い名前と、彼女の見事な功夫──訓練の賜物を褒め称えた。
「良い名前ね。手足もすらりとしてて筋肉もついてそうだし、舞が得意なのよね? 燕みたいに軽やかに踊りそう……!」
「……集中したいの。静かにしてくれる」
心からの賛辞で、何なら踊って欲しいとさえ、思ったのだけれど。眉を寄せてそっぽを向いた喜燕の、迷惑そうな横顔が、燦珠の高揚に水を浴びせた。
(そっか、競争相手でもあるのかあ)
女の子同士、ですっかり舞い上がっていたけれど、そういえば市井の役者の間でも役争いは熾烈なものだ。広場を彩る女の子は、ざっとみたところ二十人くらいはいるだろうか。この中の全員が合格できるということは、たぶんないのだろう。
「ごめんね。えっと、頑張ろうね?」
女の役者なんて、市井には滅多にいないのだから仲良くしよう、だなんて。秘華園では通用しないのかもしれない。しょんぼりしながら声をかけると、喜燕という少女は無言で体勢を変えてしまった。爪先に綺麗な弧を描かせて足を揃えて──燦珠に背を向けて。これは完全に嫌われたかもしれない。
(切り替えるしか、ないか)
それこそ燦珠のほうも集中しなければならない。溜息を堪えて腰腿功に励むことしばし──宦官の甲高い声が、晴れた空に響いた。
「皇帝陛下のご来臨!」
その声が中空に消えるかどうかのうちに、さざめいていた紅色の衣の娘たちが一斉にその場に平伏した。命じられるまでもない、皇帝の御前では頭を垂れるのは当然のこと。燦珠も周囲の娘たちと列になって、地に額をつける叩頭の礼をした。最上級の敬意を表しながら、彼女の胸を高鳴らせるのは皇帝と同じ空間に立ち会える光栄では、ない。
(華劇でよくやる場面だ……!)
諸々の名場面が頭を過ぎって、その再現のような場面にいることができるから、だった。
少女たちが頭を垂れる先は、広場の北に位置する殿舎だった。先ほど見渡したところでは、最貴色の黄色の瑠璃瓦を、朱塗りの柱が支え、翡翠や金、青藍色の華やかな装飾が施されていたはず。組み木細工の格子扉は開け放たれていたのも、見た。
では、先ほどまでの喧騒と打って変わった静謐に響く衣擦れの音は、皇帝と妃嬪たちが殿舎の中に設けられた、広場を望む席に向かっているのを示しているのだろう。
(沈昭儀──香雪様もいらっしゃるのよね)
早く、あの方に燦珠の演技を見て安心していただきたいものだ、と──燦珠が密かに微笑むのとほぼ同時に、沈黙を破って凛とした声が響いた。
「これがすべて、役者候補か。若い娘ばかりよく集めたものだな」
低い、威厳に満ちた本当の男の声。霜烈とも違った深みのある美声は、後宮の唯一の男である皇帝のものにほかならないだろう。次いで聞こえた鈴を振るような麗しい女の声は、たぶん、燦珠が知らない妃嬪たちのものだ。
「皆、陛下からのお題を待ちわびております。どんな趣向になさるか楽しみですわ」
「わたくしは舞のお題が良いですわ! 今の秘華園には舞の名手が足りませんのよ」
「あら、わたくしは歌の上手い子が聞きたいですわ」
皇帝の御前で発言できるのは力がある妃だけなのか、華やぐ声の中に香雪のものは聞こえない。とはいえいずれも紛うことなき正真正銘の姫君たちのやり取りに、燦珠はうっとりとして聞き入った。
「舞の課題にしようと考えていた。瑛月が喜ぶと良いのだが」
「まあ! 光栄でございます……!」
瑛月というらしい妃に頷くような間を置いてから、皇帝は額づく燦珠たちのほうへ視線を向けたようだった。天にも等しい御方の視界に入っているのを感じて、少女たちのあいだにぴりりとした緊張感が走る。そこへ、玉声が響き渡る。彼女たちの命運を分ける出題を告げるために。
「演目は問わぬ。朕がこれから述べる条件に沿った舞を見せよ」