1.梅花の精、舞う
第9回カクヨムコンテスト受賞作です。
第一部まで(なろう版での71話まで)の書籍版は、2025年1月24日角川文庫より1、2巻同時発売です。大幅に加筆・改稿しておりますので、よろしければお手に取ってください。
栄和国の延康の都は、梅の盛りを迎えていた。貴族の庭園に下町の路地に。都の至るところに白や紅の花が咲き、馥郁たる香りを漂わせて春の訪れを告げている。
寒さを溶かす色と香は、市場の片隅にも点っていた。国の各地から訪れた人や馬や車を見守るように、見事な紅梅の木が枝一杯に花を咲かせている。荷の重さに俯くことなく、都の喧騒を見渡す元気がある者は、木の根元に華奢な人影がいることに気付いて目を擦るだろう。華奢で、可憐な──梅花の精を思わせる、紅の衣の少女がそこに佇んでいた。
(うふふ、良い感じに集まってきたわね)
紅梅の精こと梨燦珠は、自身に集まる幾つもの視線を感じて袖の影でほくそ笑んだ。彼女が纏うのは華劇の花旦の衣装。袖口には、舞う時に華やかに翻る、長い薄絹の水袖がついている。紅梅の下の、舞衣装の花旦といえば、通な者には一目瞭然だ。
「女旦か、珍しいな」
「なんだ、何をやるんだ?」
「《梅花蝶》だろう!」
(正解!)
野次馬から聞こえた演目に、心の中で快哉を叫んでから。燦珠は両手をふわりと舞わせた。さあ、独り舞台の開幕だ。空と花の下、幕も伴奏も必要ない。彼女の細くしなやかな腕、眼差し、歌に仕草に足さばき──全身を使って、恋する梅の精の健気さを伝えるのだ。
(まずは、台詞!)
紅を刷いた燦珠の唇が、高く震える声を紡ぎ出す。聞く者の心を揺さぶる切々とした語り掛けは、か細いようでいて市場の端にまで届くはず。そのように、彼女は鍛錬を積んでいる。
为什么他今年也不来 どうして彼は今年も来ないの?
我的花花空虚地分散 私の花が散ってしまうわ
目の高さに掲げた手から垂れる水袖は、涙の表現。恋した若者が姿を消した悲しみに暮れるうち、梅の精は決意するのだ。彼を探しにいかなくちゃ。
梅の精の想いが募るまま、演じる燦珠の声も動きも高まっていく。台詞は歌に。指先や視線、仕草で表す感情は舞に。高揚し、弾け、あふれていく。
樹根阻碍我 根っ子は邪魔よ
脚を高く上げて、跳ぶ。地面に落ちた花弁を爪先で跳ね上げて、笑う。
甚至不需要樹枝 枝も要らない!
長い水袖が、舞い上がった紅い花弁を巻き込んで、弧を描く。爪先で立って、跳躍も交えて、回る、回る。背を反らし、首を巡らせ、腕を掲げて。自らが起こす旋風によって、花弁が舞い落ちるのを許さぬまま。梅の色と香りを纏って燦珠は歌い、そして舞う。
舞舞跳跳我飛向他 彼のもとへ飛ぶわ
他知道我的花香色 香りと色で私と分かる
あり得ぬはずの、羽ばたきによって花の香りを撒く紅い蝶。今や燦珠はその化身だった。
「好!」
「更快!」
拍手と喝采が実に気持ち良くて、燦珠の回転はますます速く、歌声はますます高くなる。観客の熱狂が彼女を乗せていた。投げられる銭の澄んだ音が、鈸の代わりに場を盛り上げる。
(そろそろね──)
舞い踊る紅い花弁の中で後空翻を決めながら、燦珠は素早く周囲に目を走らせる。最後の見得を決める場所を求めて。人波に埋もれることなく、思い切り目立てる場所が良い。例えば──ちょうど良く積み上がった木箱、あれだ。距離と高さを目で測ってひと際強く、地を蹴った、のだけれど。
「この、坏女孩がぁ──!!」
「──っとぉお!?」
花弁を枝から落とす、落雷もかくやの大声が響いて、燦珠は身体の均衡を崩した。もちろん無様に転倒するなんてあり得ない。狙った木箱のやや手前にどうにか着地、腹筋に力を入れてぴんと立ち、亮相らしきものを決める。おー、という控えめな歓声と、ぱらぱらとまばらな拍手がどうにも間が抜けていて悔しい。
(今のさえ、なければ……!)
紅く染めた眦をきっと決して、燦珠は闖入者を睨めつけた。彼女の熱演を台無しにしたその相手は、龍の刺繍を全面に施した衣を纏い、顔全体を赤と黒の隈取りで塗り分けている。羽根で飾った被り物や、付け髭こそないけれど、華劇の舞台から抜け出した美々しい将軍役のような──というか、実際「そう」なのを、燦珠は誰よりよく知っている。
「爸爸!? 開演前に何やってんの!?」
「跳ねっかえりが大道芸の真似事をしていると聞いたのだ。これが座っていられるか!」
舞台用の戟さえ持ち出して、実の娘に突きつけるのは──延康随一の名優と名高い梨詩牙、燦珠の父だった。無粋極まりない横槍だけでなく、父の言葉も、彼女の逆鱗に触れた。先ほどまでは切々と恋情を歌い上げた高く澄んだ声が、今は怒りを帯びて響き渡り、驚いた鳥を飛び立たせる。
「大道芸? 大道芸ですって!? この人垣が見えないの!? 梨一門の男旦に、私ほど歌って踊れるのが何人いるってのよ!」
胡蝶の翅と舞っていた水袖も、鋭く翻って燦珠の激昂を表す。親子喧嘩に巻き込まれた格好の野次馬のうち、何人かは首を竦め──けれど大方は面白がっているようなのがまた腹立たしい。
「女の芸は余技に過ぎん。物珍しさで人目を集めて、嫁入り前の娘が恥ずかしいとは思わないのか」
「全っ然! 私と競ったら九割がたの男旦は裸足で逃げ出すわ!!」
燦珠が思い切り舌を出すと、父の詩牙は戟を振り回して一喝する。当代きっての名優の見得に、野次馬からは感嘆の声がおお、と湧いた。
「お前は女だろうが!」
「女が女を演じて何が悪いのよ!?」
詩牙は、お転婆娘を回収しようと駆けつけたらしい。頭に血が上っているから、声量にも戟さばきにも遠慮がない。舞台用のなまくらとはいえ、次々と繰り出される戟の切っ先を避けて、燦珠はまた翻転を繰り返す。水袖が絡め取られないように、腕を振って身体を捻り、背を反らせ──観客からは、息が合った応酬に見えるだろうか。親子だけに、互いの手の内を知悉しているから決め手に欠けるだけなのだけど。
「嫁の貰い手がなくなるだろうが!!」
「行く気はないわ!!」
さっき目をつけた木箱の上に飛び乗って。さらに跳躍して梅の枝を掴み。勢いで回って、枝の上に仁王立ちして。燦珠は憤然と父を見下ろした。
「私は国一番の花旦になるの。パパが武花臉役で当代一と言われるように、ね! 面白がって仕込んだ癖に、今さら止めろだなんて……!」
「こうなると知っていたら教えておらん……!」
詩牙の声は怒りだけでなく後悔によっても震えているようだ。でも、後悔は先にできるものではない。血は争えないのか、華劇の魔力か。燦珠は歌うこと踊ること演じることに魅入られている。父譲りの才もある。
(今だって大受けだったじゃない……!)
舞台に上がれば喝采間違いなしと、証明したと思ったのに、頑固な父は目を覚まさないのだ。かくなる、上は。燦珠はす、と深く息を吸い──鍛えた喉と腹筋で、高らかに宣言した。
「──我が名は梨燦珠! 聞いての通り、梨詩牙の秘蔵っ子よ! 誰か、私を引き抜こうって座長や興行主はいない!?」
「あ、こら、燦珠……!」
勝手に名前を出されて、父が狼狽えた声を上げた。許した覚えはないとか、そんなことを怒鳴ろうとしたのだろうし、燦珠も怒鳴り返す気満々だった。でも、それよりも早く──
「──乗った」
燦珠と詩牙、鍛錬を積んだ役者にも負けぬ、よく通る涼やかな声が響いた。さほどの大声でもないのに、その場の人の耳目を吸い寄せるのは、名優のただひと声が舞台の空気を塗り替える様にも似ている。
「梨詩牙の娘、燦珠、か。私と共に来るが良い」
花を手折るように燦珠に白い手を伸べた──その声の主は、黒衣の男だった。年ごろは、たぶん若い、としか言えない。背は高く姿勢正しく、老いた気配はまったく感じられない堂々とした佇まい。一方で、あまりにも堂々としているから若輩とも断じ辛い。あるいは浮世離れしているというか。ただ、とてつもなく整った綺麗な顔をしているのは確かだった。
(姫君役をやらせたいくらいだわ)
失礼かもしれない感想を抱きながら、燦珠はとん、と枝を蹴ると、宙で一回転してその男の前に降り立った。同時に腕を──水袖を回して、花吹雪を散らせるのを忘れない。紅梅の花弁が降る中で微笑めば、美しさも艶やかさも際立つだろう。
「光栄ですわ、老公。行くって──どちらへ?」
妾の誘いだったら蹴り飛ばしてやろう、と思いながら燦珠は首を傾げた。この男はいかにも性欲のなさそうな顔をしているけれど、人は見かけによらないのは華劇の多くの筋書きで知られる通りだから。
燦珠の物騒な思惑を、知ってか知らずか。その綺麗な男は、ふわりと微笑むと長い指をある方角に向けた。
「あちらへ」
と、言われても、そちらに何がある訳でもない。劇場も、華劇を催すような妓楼も酒家も。あえて言うなら、皇宮を擁する高い壁が連なり、至尊の黄色の釉薬が輝く瑠璃瓦が、陽光に煌めいて空をほのかな金色に染める方角だけど。
(……うん?)
燦珠が逆の向きに首を傾けたのと、赤い影──舞台衣装を翻した父の詩牙が駆け寄ってきたのはほぼ同時だった。
「や、止めろ。娘はやらんぞ……!」
「さすがに梨詩牙は知っているのか。だが、私は娘に話しているのだ」
訳が分からなかった。綺麗な黒衣の男が何を仄めかしているのかも、父がこれほど慌てふためく理由も。ただ──何かが始まる予感に、胸が弾む。
「──秘華園」
男の、形の良い唇が浮かべる笑みも、それが紡いだ知らない単語も。なぜか燦珠を惹き付ける。
「後宮にある、役者と劇団のための一角だ。無論、女だけの。そこならばそなたの望みも叶えられよう」