弟ニコラスのお願い
次の朝、マリアは充足感とともに目が覚めた。
昨日は、ついに念願の『白の森の御伽話』十巻を読むことが出来た。
全十巻のうち、王立図書館に欠けていた最終巻。これを読まずして死ねない、けれど死ぬまでには読めないかもしれない……なんて思っていたのに。
(……あっさり、読めてしまったわ)
借りを作った形にはなってしまうが、ルーヴェルトのおかげで最終巻を読み終えることが出来た。感謝してもしきれない。
あれは古い本であるうえ、刷られた数も格段に少ない。ルーヴェルトであっても入手は困難であったはずで──
(ルーヴェルト殿下は、なぜここまでするのかしら)
なにをどう考えても、かならずその疑問にたどり着く。
自分と結婚したところで、ルーヴェルトになにかメリットでもあるのだろうか。いくら考えても、マリア自身にそこまでの価値があるとは思えない。
本が好きで地味で、結婚願望皆無の伯爵令嬢。それがマリア・シルヴェストレという娘である。
毎日のように図書館に通い、社交界に顔も出さず、一生結婚したくないなどと公言していたひねくれ者。
シルヴェストレ伯爵家自体も、王家と繋がってよいものか戸惑うほどの中堅も中堅の家柄なのである。
要するにマリアは、王子ともあろう者が執着すべき相手では無い。
だから、おかしいと思ってしまう。
ルーヴェルトからこんなにも歩み寄られることが。目と目が合っただけで、あんなにも嬉しそうに微笑まれることが。
悶々と考えていると、自室の扉がノックされた。
扉のむこうから顔を出したのは、マリアの大切な弟・ニコラスだ。
マリアとおなじ亜麻色の髪に優しげな瞳の彼は、父の元で領地経営について学ぶ日々を送っている。
「姉さんおはよう。まだ寝ていたかな」
「おはようニコラス。大丈夫よ」
彼は「よかった」と微笑んで、マリアのそばへと腰掛けた。ニコラスが持つトレイには、温かいお茶が二人分のせてある。どうやら、マリアに話があるようだ。
「あの……姉さん。実はペトロナから伝言を預かっているんだけれど」
「そう、何かしら」
「来週、ペトロナ達が仲間内でガーデンパーティーを開くらしくて。姉さんもぜひって誘われているんだ」
「えっ……私も?」
起き抜けに、気のすすまないお誘いが舞い込んだ。
ペトロナ達のガーデンパーティー……ニコラス伝いに聞くだけでも、どのような雰囲気であるのか想像できる。
愛らしく華やかなペトロナは、パーティーが好きだった。
同じように華やかな仲間が集まって、王都では毎週のようにどこかでパーティーが開かれている。人脈の広いペトロナはあちこちに呼ばれ、そのたびに顔を出していた。
マリアといえば、ペトロナにとって『恋人の姉』ではあるのだが、ハッキリ言って部外者だ。これまでも彼女から誘われたことなどなかったのに、なぜいきなり招待されてしまったのだろう。
「ありがたいお誘いだけれど、遠慮しておくわ。お仲間同士で楽しんで」
「それが今回は絶対来て欲しいって。姉さんに、出会いを用意しているようなんだよ」
「ええ……?」
思わず、心の底からため息が漏れた。
これほどありがた迷惑なことがあるだろうか。
先日ペトロナからは「もっと出会いの場に出なくては」と言われはしたが。さっそくこのようなお膳立てをされるとは思わなかった。
パーティー自体も元々苦手ではあるのだが、さらに苦手なのはそこに集まるペトロナの仲間達だ。
賑やかで華やかなことが大好きな、マリアとは別世界の人達。出会いのために用意された人というのも、きっとペトロナと同じ、そちらの世界の人だろう。『合わない』ことが分かりきっているのに、参加したいはずが無い。
「申し訳ないのだけど、私は行きたくないわ」
「そんな」
「仮に紹介して頂いたとして……この地味な私が、ペトロナのご友人に気に入られるとでも思う?」
ニコラスは急に口をつぐんた。ペトロナが紹介するであろう人物が、マリアとは明らかに色の違う人間だと分かっているのだろう。
「けど、ペトロナはただ姉さんの幸せのためを思って、人を募ったようなんだよ。お願いだ、彼女の顔を立てて出席してやって欲しい」
「ニコラス……」
大事な弟であり跡継ぎであるニコラスから頭を下げられてしまえば、マリアはどうしても弱くなる。
そもそも彼ら二人の婚約が足踏みしてしまっているのは、姉であるマリアがシルヴェストレ家に居座り続けているのが原因だ。その事について、優しいニコラスは決してマリアを責めたりしない。
だからニコラスには余計に後ろめたさを感じてしまって……眉を下げて頼み込む彼を前に、マリアはこれ以上強く出ることができない。
「分かったわ。行くわ。行くけれど……」
「ありがとう姉さん。さっそくペトロナに伝えておくよ!」
マリアの返事を聞いた途端に、ニコラスの顔はパッと明るくなった。
(本当に、ペトロナのことが好きなのね……)
よっぽど、はやく彼女と一緒になりたいのだろう。
マリアは嬉しそうなニコラスへ、曖昧に微笑むしかなかったのだった。
「はぁ……」
朝食を食べても、本を読んでも、気分転換に庭に出てみても。
何をしていても来週のパーティーのことが頭をよぎり、マリアの口からは無意識にため息が漏れてしまう。
夜会に臨んだ時は、こんなにも憂鬱ではなかった。
ニコラスの婚約のためにも結婚相手を探さなければという危機感がマリアを突き動かしていたし、緊張こそしていたけれど出会いに対してわずかな希望もあったから。
けれど来週のガーデンパーティーで用意される相手は、ペトロナの息がかかった相手だ。
ペトロナを慕って集まってくる男性が、果たしてマリアのような地味な人間を相手にすることがあるだろうか。
まったく希望もなにも持てないのである。
「はぁ……気が重いわ」
それに、今はルーヴェルトとのことがある。
なぜだか分からないけれど、彼はマリアに求婚してくれているのだ。その返事を保留にしたまま新たな出会いに向かうことも、なんとなく割り切れない。
このことを彼が知ったら、どう思うだろうか。
ルーヴェルトへの返事を「時間を下さい」と先延ばしにしておいて、一方では出会いを求めてパーティーへ向かった──そんなことが彼の耳に入ったら。
(とっても良くないわね……)
思わず、顔が青ざめる。マリアだけでなく、シルヴェストレ伯爵家そのものの信用に関わってくるのではないだろうか。
考えれば考えるほどまずい気がする。
なら、ルーヴェルトへ事後報告となるより先に話を通しておいたほうが、まだマシなのではないだろうか。マリアとしても、気持ちは幾分軽くなる。
(付き合いで出席するパーティーなのだから、分かって下さるわよね……?)
そうと決まれば、彼に会いに行くしかない。
勢いのついたマリアは身支度をすると、いつものように図書館へと向かった。